ニューディール政策によって作られたアメリカ・ワシントンDC郊外のグリーンベルトには、ニューディール・カフェ(New Deal Café)という地域の人々が集まる場所があります。
今年6月に訪問した際、次のような話を伺いました。
ある女性の来訪者の話によると、ニューディール・カフェへは1人でやって来る人が多いとのこと。ある男性はニューディール・カフェへは、夜、夫婦でやって来た場合でも、夫婦だけで過ごすのではなく他の人と話をしたりして過ごすと話されていました。
この話を聞いてから、ニューディール・カフェの様子を観察していると、確かに1人でやって来て1人だけで過ごしたり、グループでやって来た人がそのグループで固まって過ごすのではなく、みなで混じり合って過ごしているように見えました。
みなで混じり合って過ごすと書くと濃密な、ベタベタした印象を持たれるかもしれませんが、そういうわけでもなさそうです。今、日本では絆やコミュニティという言葉が氾濫していますが、絆とかコミュニティという言葉から連想されるようなベタベタした感じではしません。
開かれた感じと表現できる気がします。
日本からふらっと訪れた者でも、ニューディール・カフェで過ごすことができ、居合わせた人と話をしたり、「そのことを調べたいなら、あの人に聞くといいよ」等というように知り合いを紹介してもらうことができる。このことが、ニューディール・カフェの人間関係が開かれていることを証明しているのではないかと思います。
会社帰りにニューディール・カフェに立ち寄ったという男性の方から、興味深い話を聞きました。ニューディール・カフェで出会った人との関係はカジュアル(打ち解けた)なものだから、「どこに住んでるの?」とは聞かないようにしてる、と。では、この男性はどのような話をされていたかというと、例えば、ちょうどグリーンベルトを訪問した頃に話題となっていた、金星が太陽の前を横切るという話などをされていました。
互いの秘密を打ち明け、その秘密を共有することで親しくなること(あるいは、親しくなった感じがすること)はありますが、この男性が話されているニューディール・カフェでの関係はそのようなものではありません。私的なことではなく、共通の(公的な)のことを話題にすること。ここには、人と人との関係を築いていく上でふまえるべき作法、あるいは、「型」があると感じます。
「型」によって媒介される関係。絆やコミュニティという言葉が、心と心の通じ合いというニュアンスをもってしまうのとは対照的な関係。社交とは、このような関係のことを言うのではないかと思います。
山崎正和氏の次の文章を思い出しました。
・・・・・・、さしあたり社交とは人が友情の関係を結び、それを育てるための行動だと定義できそうである。繰り返すが普通、人は家族のつながりを固め、恋人への思いを高め、戦闘集団の団結を強めるための行動を社交とは呼ばない。関係する人間の範囲が限定され、そこへ参入する資格があらかじめ局限されているような関係を社交とは呼ばない。さらにこのことに対応して、その関係のなかで共有される感情もまた、第三者の共有を許さないような強烈な感情はそぐわないといえる。恋愛感情や真剣な闘争心はもとより、より広く見ても、怒りや恐れや憎しみ、強烈すぎる悲しみなどを共有して行われる社交は考えられない。社交を支える感情としては、喜び、祝意、博愛に近い愛、同情に近い悲しみ、漠然とした一般的な敬虔さ、それに遊戯化された競争心などを思い浮かべるのが、まず常識的というべきだろう。
※山崎正和『社交する人間:ホモ・ソシアビリス』中央公論新社 2003年
社交のこのような性質を保障するために、第一に必要な条件は時間と空間の限定であろう。先にも述べたように、家族や村落共同体が無意識に感情を共有している状態は、社交とは呼ばない。また逆に功利的な組織のように、構成員が意識的に団結を確認しつづけているような関係も、社交とは見なされない。互いに正反対の理由から、両者のどちらも過度に濃密な感情で結ばれ、人間関係が第三者を排して自動的に閉じられているからであった。これにたいして社交は、その結果、人間を付かず離れずの中間的な距離につなぐ関係と見なされることになった。だがこのような関係は見るからに脆く危うい関係であって、注意深い努力のもとに、限られた時間と空間のなかにしか成立しないのは明らかだろう。
現象として見れば、社交の時間は人が適度の緊張を保ってくつろぐ時間であり、社交の場所はなかば公的な形式を備えた私的空間である。
※山崎正和『社交する人間:ホモ・ソシアビリス』中央公論新社 2003年
社交においては、「時間と空間の限定」が必要だということ。改めて、ニューディール・カフェの様子を思い返すと、演奏されている音楽ライブ、展示されている絵画、映画の上映会・ディスカッションなど、私的なことに踏み込まずとも、話題のきっかけとなるものがたくさんあるのだなと。音楽ライブを楽しむ、絵を鑑賞する、映画についてディスカッションする等、居合わせた人が共になぞることのできる「型」のバリエーションが豊かにある、と言えばいいのでしょうか。
人と人とが心を通わせ合うことは確かに素晴らしいことだと思いますが、建築計画の研究者という立場に立つ限り、人の心の領域にまで踏み込むべきではない。ある時、このようなことを思ったことがあります。絆やコミュニティという言葉が氾濫する今、改めてこの思いを強くします。
(更新:2012年9月25日)