日本住宅協会の機関誌『住宅』(2013年5月号)で「故郷(ふるさと)としての住宅地」という特集が組まれ、千里グッズの会メンバーの方々と行なってきた活動を、アーカイブという観点からまとめた文章を寄稿しました。
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目次
「当たり前」の継承〜千里ニュータウンにおけるアーカイブ・プロジェクトの試み〜
1.日本で最初の大規模ニュータウン
千里ニュータウンは、戦後の高度経済成長期に生じた都市への人口集中と、それに伴う都市周辺のスプロール的な開発に対して、良好な住環境を備えた住宅を大量に供給するために開発された(表[1])。1962年から入居が始まり、2012年にまちびらきから50年を迎えた。計画にあたってはクラレンス・A・ペリーの近隣住区論(参考文献[1])がベースとされ、吹田市域の8住区、豊中市域の4住区、計12住区から構成されるニュータウンである(図[1])。
まちびらき当初、千里ニュータウンに入居したのは若い夫婦とその子どもが中心だった。それから半世紀が経過しているが、当初から千里に住み続けている人は多い。例えば、豊中市域の新千里東町[1])の人口構成みると(図[2])、1970年時点では30代とその子ども世代の割合が大きいことがわかる。そして、40年後の2010年時点でも70代の人は多く、千里に住み続ける親元への帰省によって、お盆や年末年始には住区内の車が一時的に増加するという現象も見られる。このように千里ニュータウンは既に帰省先となっているが、その風景は近年の再開発によって急速に変化しつつある。新千里東町でも集合住宅が相次いで建て替えられ、減少し続けていた人口が再び増加に転じている(図[3])。
半世紀前の開発によって、千里丘陵の風景は一変し、人工的な街が生み出された。その街の風景は、近年の再開発によって再び変わりつつある。このような街、千里ニュータウンにおける継承とは何を意味するのか。本稿では筆者が参加する「千里グッズの会」が行なってきたいくつかの活動を、アーカイブ[2)]という観点から読み直すことで、この大きな課題を考えるための糸口を見つけたい。
2.絵葉書が記録する風景の変化
「千里グッズの会」は、新千里東町のコミュニティ・カフェ「ひがしまち街角広場」[3])を拠点として活動するグループで、地域の住民、建築・都市計画の専門家、大阪大学の教員・学生が参加している。「千里ニュータウンにはお土産がない」、「魅力ある街には魅力ある絵葉書がある」というアイディアから、風景写真、集合住宅の住棟図面、千里ニュータウンの調査結果等を素材として絵葉書作りの活動をスタートさせた(参考文献[5])[4])。グループの発足は2002年。筆者も2004年から参加し、絵葉書の素材とするため千里ニュータウン内の写真を撮り歩くようになった。当初は桜や紅葉など季節の写真を撮影していたが、ちょうど再開発が行われる時期と重なっていたため、建て替え前の団地も撮影するようになり、結果として、もう2度と撮影できない写真を多数残すことができた(図[4])。こうした経験を通じて、次第にニュータウンの歴史を残すことについて考えるようになった。
3.ニュータウンの展示
2006年4月22日から6月4日まで、吹田市立博物館で春季特別展「千里ニュータウン展-ひと・まち・くらし-」が開催され、千里ニュータウンの計画理念、住民活動の歴史などを説明する展示パネル、簡易型ユニットバス、軽三輪自動車などが展示された。また、まちびらき当時の暮らしを団地の一室に再現するサテライト展示、講演会やトークショー、街歩きなどのイベントも多数行われた。この特別展は市民実行委員によって企画・運営されたものであるが、「千里グッズの会」からも何名かが市民実行委員として参加している。
吹田市立博物館での特別展が好評であったことを受け、「千里グッズの会」のメンバーが中心となって市民実行委員を立ち上げ、同年9月1日から9月22日に千里公民館で「千里ニュータウン展@せんちゅう」を開催することになった。千里公民館内での展示に加え(写真[1])、工事中の仮設通路には各年代の航空写真を展示した(写真[2])。また、ニュータウン開発から除外されたため、開発前の街並みや暮らしが残されている上新田地区(図[1])に焦点をあてたサテライト展示や講演会も行った。
そして、2012年10月13日から11月25日には、千里ニュータウンのまちびらき50年事業の関連イベントとして、吹田市立博物館で秋季特別展「ニュータウン半世紀展-千里発・DREAM-」が開催された。この特別展においても、市民実行員が企画・運営に関わっている。
このように、2006年以降、千里ニュータウンをテーマとするいくつかの展示会が開催されてきたが、その意義として次の点をあげることができる。
まず、歴史がない街だと見なされがちであったニュータウンが博物館の展示テーマとして取り上げられたことである。計画された街における暮らしを含め、千里ニュータウンが歴史の対象とみなされたことの意義は大きい。
次に、千里ニュータウンを対象とする展示会において、上新田の暮らしも取り上げられたことである。開発者の視点から見れば上新田は計画除外地だが、2006年に開催された2つの展示会では、上新田がニュータウン開発前の暮らしが継続する地域として捉えられた。ニュータウン開発を挟んだ暮らしの連続性という視点から、千里丘陵が捉え直されたことには意義がある[5])。
最後に、市民実行委員が展示の企画・運営に参加することで、開かれた公共施設が実現したことである[6])。まちびらきから半世紀しか経過していない千里ニュータウンでは、歴史とは遠い過去にあるものではなく、住民自らが経験してきた暮らしが歴史になるため、展示の企画・運営に住民が参加しやすかったのではないかと考えることができる。
4.ニュータウンでの暮らしの思い出
「千里グッズの会」は、2011年度から豊中市との協働事業として「ディスカバー千里」プロジェクトを行なっている。ディスカバー(Discover)とは「発見する」の意味。住民や訪問者に、千里ニュータウンの魅力を発見してもらえるよう、暮らしの情報や歴史を収集、編集、発信することを目指すプロジェクトである。このプロジェクトは「暮らしの歴史アーカイブ事業」、「ウェルカムパック事業」の2つからなり[7])、前者の「暮らしの歴史アーカイブ事業」ではインタビューやカードによって思い出を収集したり(図[5, 6])、昔の写真(写真[3])やパンフレット等の資料を収集し、これらをイベント会場での展示やウェブサイトへの掲載によって共有する活動を進めている。
「ディスカバー千里」プロジェクトは、「いにしえ街歩き東町昔遊びツアー」と名づけられたユニークな街歩きツアーを生むという、当初予想していなかった方向にも展開していくことになる。新千里東町では、2001年から、小学生の子どもを持つ父親たちの集まりである「東丘ダディーズクラブ」が活動を行なっている。月に1度、週末の夜に「ひがしまち街角広場」で定例会を開いて親睦、情報交換を図ったり、小学生を対象とするバーベキュー、キャンプファイヤー、住区の夏祭りへの出展を行ったりするなど非常に多彩な活動を行なうグループである。「東丘ダディーズクラブ」には、子ども時代を千里ニュータウンで過ごしたメンバーが何名かいるため、「ディスカバー千里」プロジェクトの一貫として、子ども時代の遊びについてインタビューを行った。インタビューを進める中で、自分たちがかつて経験した遊びを、今の子どもたちにも体験して欲しいと話が盛り上がり、2011年11月20日に街歩きツアーが実現されることとなった。子どもたちに昔の遊びや暮らしを伝えるため、子どもの服装に扮した「東丘ダディーズクラブ」メンバーが、ビー弾や缶蹴り等の昔遊びを教えたり(写真[4])、忘れ物を集合住宅から投げ渡すシーン(図[6])を再現したりと、子どもも大人も楽しめるツアーとなった。
このように、住民にとっては「当たり前」のものとして経験されてきた暮らしが、次の世代へと継承する価値がある歴史になるという意識を、住民と共有できたことが「ディスカバー千里」の大きな意義であり、2013年度も豊中市との協働事業としてプロジェクトを継続している[8])。
5.思い出を喚起・共有するメディア
「いにしえ街歩き東町昔遊びツアー」のために、「大阪大学建築・都市計画論領域」のメンバーによって作成されたのが「大きな本」である(参考文献[10])。幅1,260mm、高さ1,800mmの大きさのページに新千里東町の地図、昔の写真、インタビューで収集したエピソードなどを掲載し、街歩きツアーのいくつかのポイントで「大きな本」を使って地域の情報や歴史を紹介した(写真[5])。
2012年、「千里グッズの会+大阪大学建築・都市計画論領域」による「大きな本」のプロジェクトが、「おおさかカンヴァス2012」の作品に選出されたため、新たに8冊の「大きな本」を制作した。新たに制作した「大きな本」には、千里ニュータウンの計画理念、おすすめの街歩きコース、子どもの遊び場の変化、昔の写真など、これまでの活動を通じて収集してきた情報や歴史を掲載し(図[7])、これらを用いていくつかのツアー、ワークショップを行った。
2012年10月26日と11月10日にはオリエンテーリング形式のツアーを開催した。ツアーでは、新千里東町の数カ所に「大きな本」を展示するとともに(写真[6])、建替えが予定されている府営新千里東住宅の住戸、及び、簡易型ユニットバスが当時のままの状態で残されている要員住宅の住戸を見学場所として開放した[9)]。要員住宅では住民にも協力いただき、簡易型ユニットバスをどのように使っていたかという貴重な話を聞かせていただくことができた(写真[7])。2012年11月18日には、「東丘ダディーズクラブ」主催で「いにしえ街歩き東町昔遊びツアー 第二弾」が開催され、前年と同様「大きな本」を使って地域の情報や歴史を紹介した。
「ひがしまち街角広場」と「千里文化センター・コラボ」では、それぞれ2012年10月7日と10月26日にワークショップを開催した(写真[8])。これまでの思い出を共有し、これからの運営のあり方、暮らしを考えるきっかけとするため、「大きな本」には昔の写真や寄せられた思い出、意見を掲載した。
これらのツアーやワークショップを重ねる中で、「大きな本」は、その大きさゆえ、みなで読める、自身の思い出や感想を書き込んだり貼り付けたりできる、それをまた他の人が読めるというように、多様な関わり方を許容することが明らかとなってきた。また、複数冊を並べて展示することで、いつもの空間をミュージアムのように変える効果があることも確認できた(写真[9])。
先に触れたように、まちびらきから半世紀しか経過していない千里ニュータウンでは、歴史とは遠い過去にあるものではなく、住民自らが経験してきた暮らしが歴史となる。自らの暮らしとは「当たり前」の経験であるため、何らかのきっかけがないと意識して思い出すことがない。ここに「大きな本」の意味がある。即ち、「大きな本」をみなで読むことで、思い出話が始まったり(写真[10])、他者によって書き込まれ、貼り付けられた思い出がきっかけになって自らの思い出が蘇ったりするのである。「大きな本」とは地域の情報や歴史を伝えるメディアであると同時に、思い出を喚起し共有するメディアでもあると言える。
6.まとめ-「当たり前」の継承-
千里ニュータウンでの活動を通して気づかされたことは、現在の「当たり前」、自身にとっての「当たり前」は、次世代へと継承するに値する歴史になるということである。ここで言う「当たり前」とは、例えば、公園でビー弾をして遊んだり(写真[4])、忘れ物を上から投げ渡してもらったりした思い出であり(図[6])、簡易型ユニットバスにまつわる思い出である(写真[7])。これらは「千里グッズの会」が実施した街歩きツアーにおいて、他者へと、子どもたちへと継承することが試みられたことは本稿でみてきた通りである。しかし、これも本稿で述べた通り、自らが経験した「当たり前」は何らかのきっかけがないと思い出されない。ここに、何らかのきっかけを工夫する余地がある。
ニュータウン開発前から続く千里丘陵での暮らしもあれば、ニュータウン開発後の半世紀の暮らしもある千里ニュータウンには、まだ意識されてはいないが継承すべき「当たり前」が無数に存在するはずである。この街は、何を継承するかではなく、どうやって継承するかを問う段階にきている。「千里グッズの会」が取り組んできた絵葉書、「ディスカバー千里」、「大きな本」などのプロジェクトは、どうやって「当たり前」を継承するのかという問いに対する具体的な提案である。
〈謝辞〉
本稿は「千里グッズの会」メンバーの皆様、特に太田博一氏、鈴木毅氏と行なってきた活動と度重なる議論が下敷きとなっています。皆様に感謝の意を表します。
注
注1)新千里東町は千里ニュータウンの中で唯一、全戸が分譲・賃貸の集合住宅からなる住区である。入居開始は1966年。
注2)アーカイブとは「個人や組織が作成した記録や資料を、組織的に収集し保存したもの。また、その施設や機関。」(参考文献[2])の意味。
注3)近隣センターの空店舗を活用して、2001年9月30日に開かれた場所。詳細は参考文献[3, 4]を参照。
注4)「千里グッズの会」の活動は以下も参照。https://discover-senri.com
注5)実際、千里ニュータウンの暮らしにおいて、上新田は無視できず、例えば上新田の神社や竹林は千里ニュータウンの住民にとっても重要な場所になっている。また、参考文献[6]では、ニュータウン開発前に存在した道・水路・ため池を読み取ることで、その名残がニュータウン内に見られることが明らかにされている。
注6)2006年当時、吹田市立博物館の館長だった小山は「この「市民に開かれた博物館」が、低迷する日本の博物館への一石となる予感をおぼえる。」と述べている(参考文献[7])。
注7)「ディスカバー千里」の活動は以下を参照。https://discover-senri.com。「ウェルカムパック」は、千里ニュータウンの暮らしの情報や歴史をパッケージにまとめたもので、現在は千里ニュータウンへの転入者へ配布している。
注8)活動の成果は研究論文としてもまとめている(参考文献[8, 9])。
注9)要員住宅とは「千里ニュータウン内に職場を持つ人達に賃貸する住宅」(参考文献[11])のこと。新千里東町近隣センターの要員住宅は既に閉鎖されているが、大阪府の協力によりツアーの2日間のみ開放が実現できた。
参考文献
1)クラレンス・A・ペリー(倉田和四生訳)『近隣住区論:新しいコミュニティ計画のために』鹿島出版会 1975年
2)『「外来語」言い換え提案』国立国語研究所「外来語」委員会 2006年
3)日本建築学会編『まちの居場所』東洋書店 2010年
4)田中康裕ほか「日々の実践としての場所のしつらえに関する考察:「ひがしまち街角広場」を対象として」・『日本建築学会計画系論文集』No.620 pp.103-110 2007年10月
5)鈴木毅ほか「千里ニュータウンのための地域絵葉書の開発」・『日本建築学会技術報告集』Vol.19 No.41 pp261-264 2013年2月
6)河畑淳司ほか「千里ニュータウン計画除外地区における住環境変容に関する研究:その3 旧集落における社会空間関係の分析」・『日本建築学会近畿支部研究報告集』pp.249-252 2002年5月
7)市民委員会編『千里ニュータウン展 ひと・まち・くらし』吹田市立博物館 2006年
8)栗本絢子ほか「千里ニュータウン新千里東町における暮らしの記憶と住環境の経年変化に関する研究」『日本建築学会近畿支部研究報告集』2012年6月
9)小松莉果ほか「千里ニュータウン・新千里東町における子どもの遊び場と行動パターンに関する研究-建替え後の実態と世代間比較-」・『日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)』E分冊 pp.1339-1340 2012年9月
10)下林信夫ほか「都市における出来事のデザイン手法に関する考察」・『日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)』E分冊 pp.1115-1116 2012年9月
11)『財団法人千里開発センター10年のあゆみ』千里開発センター 1972年
(更新:2015年12月30日)