少し前のことになりますが、ヒビノケイコ氏がブログ「ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする。」の中で、「そろそろ「地域課題を解決する」という思い込みから抜け出したほうがいい」ということを書かれています。
ロジカルなことも大事だけれど、ロジカルだけではいけない。「今大事なのは「いかにして、自分の地域を差別化するか?」「他の地域に勝つか?」「問題を解決し続けるか?」という発想ではなく、「いかにして光る場を作り出すか?」ということ」、「世界観の実現」ではないかと。
*「そろそろ「地域課題を解決する」という思い込みから抜け出そう。妄想から始まる「世界観の表現」へ」・『ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする。』2015年3月9日
ハッとさせられた言葉です。
現在、「居場所ハウス」では毎月の朝市と、日々の食堂(料理ハウス)の定着を、主な活動として進めています。これは周囲には買い物をしたり食事をしたりできる場所がほとんどないという地域の状況を受けたものですが、「居場所ハウス」を見ていると、買い物できる場所がない、食事できる場所がないというマイナスの状態を埋め合わせるだけにとどまらない意味があると感じます。
マイナスの状態を埋め合わせるのではなく、「居場所ハウス」が新たに生み出しているものは何か? それは、地域で豊かに暮らすというのを目に見えるかたちで示していることです。
つまり、身近に買い物できたり食事ができる場所があって、そこでは新鮮なものや旬のものが手にはいって、売ってる人や買い物に来た人は顔なじみの人で、ちょっとした立ち話ができて…
6月14日に開催した二周年記念感謝祭に集まる人々の姿をみて「末崎町の銀座だね」と言われた方がいますが、このような人々の往来、集まり、賑わいは「居場所ハウス」があるからこそ実現された光景。こうした光景を目の当たりにして、事後的に「地域とはこういうものだ」という認識が人々によって共有されるのだと思います。
その意味で、「居場所ハウス」とは地域の課題を解決するのではなく、(「居場所ハウス」が豊かだと考える)地域の姿を目に見えるかたちで表現していると言ってよいと思います。
話は少し変わりますが、2015年4月から介護保険制度の改正に伴いスタートする「介護予防・日常生活支援総合事業(新しい総合事業)」では、コミュニティ・カフェ(まちの居場所)がより注目されています。
この文脈で、しばしばコミュニティ・カフェ(まちの居場所)は公的サービスでは補いきれない隙間を埋める役割が期待されると言われることがありますが、この表現には少し違和感を感じます。公的サービスがあって、その隙間をコミュニティ・カフェ(まちの居場所)が埋めるのではなく、コミュニティ・カフェ(まちの居場所)が生み出す地域での暮らしがあって、それに足りないものを公的サービスがどう埋め合わせていくのか? こうした順序でないと、コミュニティ・カフェ(まちの居場所)の本当の可能性を消してしまうように感じます。