『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「高齢者」という言葉と、目指すべき社会の記述

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「居場所ハウス」は「高齢者」が面倒をみてもらう存在ではなく、誰かの面倒をみるという役割を担える場所、誰かの役に立てる存在として認められる場所になることを理念として運営しています。
しかし注意したいのは、人の価値は誰かの役に立てるという有用性で判断されるわけではないということです。何の役に立たないと思われている人であっても、理由を問われずに、ただそこに居ることができること。これが、居場所がもつ根源的な意味だと思います。

現在社会において、「高齢者」は面倒をみてもらうべき弱者だと見なされる傾向にあり、介護や福祉のサービスの受け手としてしか見なされていないのではないか? 施設では「高齢者」は役割を取り上げられる傾向があり、そうした暮らしは人間的な暮らしだと言えるのだろうか? こうした状況に問題提起するために、「高齢者」は誰かの面倒をみることができるし、誰かの役に立てるという運営理念があるのだと思います。でも、これはあくまでも過渡的な段階。この理念が実現された社会では、人は高齢かどうかで価値判断されることがなくなり、「高齢者」という言葉が負の概念をもたなくなる。高齢者という言葉が「年齢を重ねた」という意味以上の意味を持たなくなると言ってよいと思います。

さしたる意味を担わないようになって欲しいと願う「高齢者」という言葉を使って、「高齢者」の有用性を語るというのは矛盾かもしれませんが、理念が実現された社会は急に実現しません。だから、そこにいたるまでに「高齢者」という言葉がもつ意味を徐々にずらしていくという試みは必要なのだと思います。あくまでも過渡的な段階として。

しかし同時に、これとは逆の方向から目指すべき社会のあり方を記述するという試み、つまり、さしたる意味を担わないようになって欲しいと願う「高齢者」という言葉を使わずに、目指すべき社会のあり方を豊かに描いていくことも必要ではないかと感じています。感覚的なことしか言えませんが、まちの居場所(コミュニティ・カフェなど)を施設・制度の枠組みに回収されないように記述していこうとすることは、その1つの試みではないかと感じています。

「高齢者」という言葉を使うか否かによらず、目指すのは歳を重ねることが否定的な意味をもたず、歳を重ねることを誰もが恐れなくなる社会です。そうした社会のあり方を豊かに記述していくことが求められていると感じます。

(更新:2015年8月4日)