『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

評価指標が重宝される社会において

大学生の頃、「評価指標を作るのは研究ではない」という言葉を聞いたのを覚えています。研究であるかどうかの判断はできませんし、研究でなければ意味がないわけではないのはもちろんですが、この言葉が今でも記憶に残っています。

その後、仕事をしている時も、NPO法人でも(補助金の申請や結果報告をする時)、何らかの指標に基づいて目標を立てたり、評価することを求められるという経験をしてきました。こういった場合、往々にして数値で評価すること(定量評価)が求められる。最近でも、ある調査において、どういう指標で評価しているのかをかなり意識して調べておられるという場面に何度か遭遇しました。こうした経験は決して特別なことではなく、評価指標や定量評価と無縁だという人はあまりいないかもしれません。

今では当たり前のように使われている評価指標、定量評価という言葉ですが、これらの言葉がいつ頃から広まったのだろうと思い、少し調べてみました。調べたのは、国立国会図書館の蔵書と、大学図書館の蔵書(CiNii Books)で、タイトルに「評価指標」または「定量評価」を含む図書の出版数です。

調べてわかったのは、タイトルに「評価指標」または「定量評価」を含む図書は、1980年代に入ってから登場すること、2000年代になって出版数が急増していること。図書の出版数が社会の状況をどの程度映し出しているのかは分かりませんが(※これも図書の出版数という指標を用いて社会の状況を評価する行為になっていますが)、1980年代以前には、評価指標とか定量評価などがあまり言われない状況だったのかもしれません。

例えば、Aという行為やものを、Bという指標で評価する場合、Bは誰もが賛同する(と仮定される)ものが指標とされます。例えば、学校のレベルを偏差値で評価したり、地域活動の効果を健康寿命で評価したり。
Bとして誰もが賛同する(と仮定される)ものが指標として選ばれることを考えれば、AをBという指標によって評価する場合、評価する側も評価される側も、A自体がもつ価値に自信がないことが背景にあるのかもしれません。特に定量評価の場合は、価値を判断するという負担を背負うことなく数字の大小を見るだけでよい。しかしそれによって、Aそのものの価値が見失われてしまうことはないだろうかとも思います。


近年、各地に居場所(コミュニティカフェ、地域の茶の間、サロンなど)が開かれていますが、居場所の運営に携わっている方から伺った次の言葉が忘れられません。

「今どこに行っても、立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」

この言葉を、居場所が介護予防という指標によって評価される傾向にある状況に対しての問題提起だと受け取りました。介護予防という効果があることは否定されていませんが、「結果そうであることを願います」と書かれているように、介護予防はあくまでも結果としてもたらされること。居場所には「日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながる」という豊かな価値がある。これらは、介護予防という指標ではすくいあげることができない。
だからと言って、「生きる喜び」、「楽しみ」、「自己実現」、「地域に生きる安心」など別の指標を作って評価するというものでもないだろうと思います。

これまで、居場所の運営に携わっている方々にお会いしてきました。運営されている方々にとって、例えば、たくさんの人が訪れることはもちろん喜びだと思います。この意味では来訪者数という指標による定量評価と無縁ではない。けれども、同時に次のような言葉も伺いました。

「〔来訪者が〕1人なんていう時もあるんですね。それから、1人だけども水だけという人もいるんですね。それで、今日は寝に来たっていう人もいる、そういう人もいるので。」

「補助金ももらってないし、営業努力をしなくていいんですよね。・・・・・・。誰も来ないことはないんですけど、今日は少ないねって言ってもちっとも自分たちはしんどくない。」

NPO法人であっても、地域活動であっても、運営資金を獲得して自立的に運営、活動することが求められる傾向にある現在、以上のような意見を紹介することに対して様々な意見があるかもしれませんが、こうした言葉が出てくるのは、自らが開いている居場所の価値、先ほどの表現を使えばAそのももの価値を、揺るぎなく信じておられるからではないか。これが基本なのだと思います。

そうは言っても、自分でAの価値を信じていても、顧客にサービスや商品を購入してもらったり、補助金をもらったりする場面では、Bという誰もが賛同する(と仮定される)指標によって評価する/される必要がある。この場合、評価する側は必ずしもAの価値を信じているわけではない。


評価という言葉を特に区別せずに用いていましたが、評価が行われる状況は次の2つに分けることができるように思います*1)。

①運営に携わっている人、実際に訪れている人など(当事者)は、Aとの関わりの経験を通して、Aの価値を評価している。ただし、それは楽しい、満足など、それぞれが抱く主観的なもので、検証されているわけでもない。

②助成を出したり、寄付したりする人など(当事者ではないが何らかの関係をもつ人)は、Aを直接的に経験しているわけではない。従って、この場合の評価においては、Bという指標が用いられる。Bが、Aそのものの価値を表現できているか否かは不明だが、客観的ではある。

ここから、そもそも②が発生する状況自体を問い直すこともできますが(1980年代以前には評価指標や定量評価という言葉が一般的でなかったとすれば、当時、②はどのように行われていたのかは気になるところです)、ここでは評価についてもう少し考えてみたいと思います。

評価とはそもそも何のために行われるかを考えると、1つは、(A)既に生じた結果を査定するため。学校で、先生が子どもの成績評価する場合、子どものテストの点数、出席状況や日々の様子などの結果に基づいて、クラス分けが行われたり、留年させられたりする。会社における人事評価も、業績などの結果に基づいて、昇格・昇進が行われたり、部署への配置が行われたりする。
評価には暴力的な側面があるように感じますが、評価にはもう1つの側面がある。それが、(B)まだ生じていない可能性を発見するため。学校で成績評価が行われるのも、会社で人事評価が行われるのも、結果の査定ではなく、子どもや社員のまだ発揮されていない可能性を発見するためでもある。評価を意味する英単語の「evaluate」は、「ex」(外へ)+「value」(価値)+「ate」(〜させる、〜になる)が組み合わさった単語とされており、価値を外に出すという意味で、まさに(B)の意味になると思います。

ここで改めて、Bという指標によってAを評価することについて。

居場所が指標によって評価される状況としては、補助金を申請する際に指標を用いて助成を出すか出さないかが評価される場合と、補助金の報告が指標を用いて評価される(これは次の補助金を出すか出さないかの評価にもなる)場合があります。
一見すると、前者は可能性の発見、後者は結果の査定と分類できそうですが、評価指標をめぐってモヤモヤした思いを抱いてしまうのは、前者もまた往々にして結果の査定になっているのではないかというところ。つまり、評価指標による評価は、可能性の発見ではなく、結果の査定になる傾向があるのではないかということです。

ここで、もう一度、居場所の運営に携わっている方から伺った言葉を振り返りたいと思います。

「今どこに行っても、立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」

居場所を評価するための介護予防という指標が設定されることで、誰かに強制されるわけでもなく、居場所における全ての行為が介護予防という目的に収斂するかのように認識(誤認)されてしまうのではないか。居場所に毎日行くことも介護予防のため、誰かと一緒にお茶を飲むのも介護予防のため、体操をすることも介護予防のため、というように。ここで介護予防という指標は、全ての行為を飲み込むブラックホールのように機能している。
けれど本来、居場所に毎日行くこと、誰かと一緒にお茶を飲むこと、体操をすることは、「「日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながる」」というように様々な可能性があり、それは一人ひとりによって異なる。居場所とはそのような可能性が生まれる場所。ところが、評価指標はその可能性を削ぎ落とし、介護予防に効果がある限りで評価する/されるというかたちで、結果を先取りしまっている。評価指標による評価とは、結果の査定という性質を有してしまう。上に紹介した言葉は、こうした状況に対する問題提起だと思います。

①当事者による評価として、主観的ながら結果の査定、可能性の発見の両方が行われている。それに対して、②当事者ではないが何らかの関係をもつ人などによる評価では、結果の査定に偏りがちかもしれない。そうすると、②当事者ではないが何らかの関係をもつ人などと一緒に、評価指標を目的ではなくツールとして用いながら、可能性を発見していけるような関係を築ける相手がいると、当事者にとっても有り難いことだと思います。この時、Aの価値は、評価されるのではなく、共有されるという状況が生まれるのかもしれません。


  • *1)以下の部分は、Facebookの記事に対するコメントからヒントをいただき、改めて考察したものです。

(更新:2021年4月11日)