2000年頃から宅老所、コミュニティカフェ、地域の茶の間などが同時多発的に開かれるようになってきました。従来の制度・施設の枠組みでは十分に対応できない要求に対応するために開かれた場所で、これらの場所では居場所がキーワードとなってきました。
それと同時に、宅老所を制度化した小規模多機能型居宅介護(小規模多機能ホーム)、コミュニティカフェ、地域の茶の間などをモデルにした介護予防を目的とする「通いの場」というように、元々、制度・施設ではなかった居場所が制度化*1)される動きも見られるようになっています。
こうした状況に対して、居場所を運営する方から次のような言葉を伺ったことがあります。これまで何度か紹介したことのある言葉ですが、改めてご紹介したいと思います。
「今どこに行っても、立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」
この言葉は、元々、制度・施設ではなかった居場所が、制度・施設の中に取り込まれるとはどのようなプロセスなのか、そもそも居場所と施設は何が違うのかを考える大きなきっかけになりました。
居場所と施設の違い
既往研究における議論、そして、いくつかの居場所への調査から、「要求-機能」関係(佐々木嘉彦, 1975)に注目することで、居場所と施設の違いを次のように整理することができます(田中康裕, 2021)。
- 居場所:機能は生じてくる人々の要求への対応として備わってくる。
- 施設:機能は人々の要求に先行し、実現すべきものとしてあらかじめ設定される。
居場所と施設とでは「要求-機能」関係が反転している。居場所と施設の違いをこのように捉えれば、要求への対応として居場所に備わった機能を抽出し、それを実現すべきものとしてあらかじめ設定するという「要求-機能」関係の反転によって、元々、制度・施設ではなかった居場所を制度化できると捉えることができます。注意が必要なのは、居場所と施設で異なるのは「要求-機能」関係であり、従って、担っている機能の観点からは居場所と施設を完全に分離できないということです。
機能主義と居られること
居場所と施設の違いを「要求-機能」関係の反転として捉える時、それぞれの空間はどのように作られると捉えることができるのか。
施設では、機能はあらかじめ設定されるため、その機能を実現するために空間が作られる。機能主義、つまり、機能を適切に空間に割り当てるという方法論です。
建築学者の伊藤俊介(2007)は、機能主義について次のように指摘しています。
「それぞれの機能に対応する空間が存在すべきだという機能主義の考え方は、逆に、その空間があれば機能が充足されるという発想に陥りやすい。しかも、その空間があることでそうした機能へのニーズがもとからあったかのように見えてしまう。」
施設では、機能は人々の要求に先行し、実現すべきものとしてあらかじめ設定され、その機能を実現するために空間が作られる。このようにして空間が成立することで、機能に対応する要求が元々あったかのような誤認が生じるということです。
これに対して、居場所の空間はどのようにして作られると捉えることができるのか。居場所では、生じてくる人々の要求への対応として事後的に機能が備わるとしても、まず何らかのかたちで空間を作らなければ、要求は可視化されることはない。
これを考えるうえで、建築学者の鈴木毅(1994)の次の指摘がヒントになります。
「機能主義をベースにした建築計画論(基本的には現在もまだ現役であろう)は、非常に平たくいってしまうと、空間に機能を適切に割りあてることを主眼においた方法論である。機能とは何かは大問題だが、とりあえずは『行為』と『集団』とを考えておけばいいのではないかと思う。・・・・・・。むろん時代の変化に伴い、見直し・組替えはなされるわけだが、空間に『行為』と『集団』を適切に対応させるという原則は変らない。
ということは逆にいうと『機能』『行為』『集団』でないものに対しては弱い方法論だということを意味する。すなわち、何をしていると明確に言いにくい『ただ居る』という行為、また家族や組織でなく『個人で行われる行為』を中心に空間をデザインしていくには不向きな方法論である。」*2)
機能主義においては、「行為」(明確な行為)や「集団」を扱いやすい反面、「ただ居る」という何をしていると明確に言いにくい行為や「個人で行われる行為」を扱いにくい。この指摘からは、何をしていると明確に言いにくい行為や「個人で行われる行為」に注目することが、居場所の空間がどう作られているかを考える手がかりになるのではないかと考えることができます。
これについて、現時点で考えているのは、居られること*3)。人がある場所に居られることは、次の2つの側面から捉えることができます(田中康裕, 2021)。
- サービスの利用者ではなく、場所を作りあげる当事者になれる
- プログラムに参加するのではなく、居合わせる
居場所は、そこがまず人々にとって居られる場所になっているからこそ、要求が生まれ、可視化され、対応されていくのだと考えています*4)。
- 居場所:機能は生じてくる要求への対応として備わってくる。
→空間は、人々が居られる場所として作られる。 - 施設:機能は人々の要求に先行し、実現すべきものとしてあらかじめ設定される。
→空間は、機能主義(機能を空間に割り当てる方法)によって作られる。
居られることと居場所の施設化
居られることの2つの側面をクロスさせて、次のような図を考えてみたいと思います。
[2]「参加する・当事者になれる」としては、例えば、岩手県大船渡市の「居場所ハウス」の光景が思い浮かびます。スタッフだけでなく、来訪者の高齢の女性も一緒にひな人形の飾り付けをしている光景ですが、この時、ひな人形の飾り付けに参加している人々が「居場所ハウス」を作りあげる当事者になっています。
[4]「居合わせる・利用する」としては、例えば、大阪府の最初のふれあいリビングとして開かれた「下新庄さくら園」の光景が思い浮かびます。カウンターに立っているのがボランティアのスタッフで、テーブルに座っている3人は来訪者。上にあげた「居場所ハウス」の光景ではスタフと来訪者が同じことをしていますが、「下新庄さくら園」のこの光景ではスタッフと来訪者とでは過ごし方が異なります。注目したいのは、来訪者の3人はテーブルを囲んで会話をしているのではなく、それぞれカウンターにいるスタッフの方を向いて座っていること。来訪者は、スタッフの方を向いて座るというかたちで居合わせているということになります。
ここで考えなければならないのは、[2]、[4]は施設化される([3]に近づいていく)契機を孕んでいること。しかもそれは、善意からもたらされる場合があること*5)。
[2]の光景のように、何らかの役割を担うことは、その場所を作りあげる当事者になれるための大きなきっかけです。
[2]に例としてあげたひな人形の飾り付けをした際、たまたま「居場所ハウス」で過ごしていた来訪者の女性も飾り付けに参加しました。しかし、その時にならないと誰が参加するかわからないことを懸念して、事前に参加者を決めて、その人だけでひな人形の飾り付けをしてしまうと*6)、プログラムに参加するという性格を強めた活動になってしまう。ひな人形の飾り付けに参加する人を確保し、スムーズに作業しようという善意が、居場所を[2’]に近づけてしまうことがあるということです。
さらに、[2]の光景ではスタッフと来訪者との区別ないこと、来訪者はひな人形の飾り付けに嫌々参加しているわけでないことを忘れてはなりません。このことを忘れて、何らかの役割を担うことが大切だと考え、スタッフが来訪者に対して一方的に何らかの役割を与えることになってしまえば、善意からの振る舞いであったとしても、役割を与える人/与えられる人というように関係が固定化されてしまう。何らかの役割を担うことが大切だとしても、このような関係の固定化は、役割を与えること自体がサービスとなってしまい(与えられた役割を担うこと自体がその場所に参加するための条件となってしまい)、相手をそのサービスの利用者にしてしまう。この時、居場所は[3]に近づいてしまいます。
[4]の光景のように、人々が居合わせることは、緩やかな関係を築くことになります。そして、例えば、普段と様子が違ったら何かあったのかと声をかけたり、毎日来ている人がしばらく姿を見せないと電話したり様子を見に行ったりするというように、助け合い、見守りなどが行われる可能性もある。
[4]の光景ではスタッフはカウンターに立ち、来訪者はテーブルに座っていましたが、次のように話されているように、「下新庄さくら園」ではスタッフも来訪者も互いに学び合う存在として、関係を緩やかなものにすることが意識されています。
「人間と人間のね、ひとつの基本があってこれはここまで伸びたんじゃないかなと、私自分では思ってるんです。やりながら学ぶことがいっぱいあるから。だから、お客さんもここで学んでくださるかもわからへん。でも、ボランティアさんもだいぶ学んでるはずですよねぇ。・・・・・・、私は同じ1と1だと思うのね。だから謝らなん時は、辛くても謝らないかんけど、そんなお客さん怒らない。みんな、もう同じみたい、どっちがどっちかわからない。どっちがお客さんだかわからないような感じねぇ。」
先に触れたように、何らかの役割を担うことは重要ですが、特定の人だけがお茶を入れるという役割を担うことで、スタッフと来訪者との関係が固定的になれば、居場所は[4’]に近づいてしまう。この場合も、「何かをやってあげたい」「何かの役に立ちたい」という善意の結果として、特定の人だけで役割を担ってしまうことはあります。
さらに、助け合いや見守りのためには人々の関係を築くことが大切だとしても、その関係を性急に築こうと考えて、例えば、お茶会のようなプログラムを設定してしまえば、人々の関わりはプログラムに参加するというかたちとなり、居場所は[3]に近づいてしまう。
このように、居場所には常に施設化する契機を孕んでいる。しかもそれは、善意からももたらされるということです。
居られることと理念の共有
居場所には常に施設化する契機を孕んでいる。それでは逆に、居場所として、[1][居合わせる・当事者になれる]という状態を維持し続けることはどのようにして可能になるのか。
まず、考えたいのは[1][居合わせる・当事者になれる]とは具体的にどのような光景なのかということ。これについては、新潟市の最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」として開かれた「実家の茶の間・紫竹」の光景をあげることができます。
「実家の茶の間・紫竹」では、次のような考えから、みなが参加するようなプログラムは一切提供されていません。
「お年寄りが生きてきた生活の歴史とか、みんな違うじゃないですか。得意なことも、環境も。だから画一的なことをすればするほど、サークルになっていくんですね。それが好きな人しか集まらない。何もしなければ、誰でも来れるわけでしょ。」
プログラムを提供しない代わりに、囲碁、将棋、麻雀、オセロ、本、縫い物、折り紙、習字、絵の具など希望された物は何でも揃えられています。人々は来たい時に来て、思い思いに過ごせるわけですが、プログラムへの参加というかたちで人が滞在することを縛ることができないため、居心地が悪ければ来てもらうことができなくなる。
そこで、「実家の茶の間・紫竹」では「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)を実現するために数多くの配慮がなされています。テーブル配置もその1つで、「戸を開けたとき、視線が集中しない配置にする」こと、「会議風のロの字はさけて、5~6人単位で座れる様に散らばる配慮をする」こと、固定席にならないように「テーブルの配置を常に変える」こと、「体の不自由な人がどこでも座れるように」ように各テーブルに椅子を置いて「体の不自由な人や手助けが必要な人のみのテーブルをつくらない」ことが配慮されています。
重要なのは、次のように話されているように、初めて訪れる人には「できるだけ外回り」に座ってもらう配慮がなされていること。
「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」
「今度、迎える側は全ての人が、その人が居てもいいよというメッセージを出していくという。表情とか振る舞いで。みんな、どの人が来ても『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージを、みんなして出していく。」
「実家の茶の間・紫竹」で居合わせている人々の光景は、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」という理念が具現化した光景。しかし、「初めて来た人」はその理念を十分に理解していないかもしれない。だから、まず「できるだけ外回りに座って」もらい、理念が具現化した光景を見てもらうことを通して、理念を共有することが考えられている。そして、理念が共有された人は、次は自らが理念が具現化された光景となることで、「『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージ」を出す「迎える側」の人になっていく*7)。
「実家の茶の間・紫竹」では、居合わせることそのものが、場所を作りあげる当事者になることである。この時、[居合わせる・当事者になれる]ことが具現化した光景として理念を共有することで、新たな人を迎え入れていくという循環(理念の広がり)が生み出されています。
居場所が施設化される契機は、プログラム化して事前に参加者を決定したり、サービスを一方的に提供することで関係が一方通行になったりするというような固定化にありました。「実家の茶の間・紫竹」で行われている新たな人を迎え入れていくことは、固定化を免れるという意味でも重要です*8)。
理念というと曖昧なものに聞こえるかもしれませんが、居場所が施設化されることなく、[1][居合わせる・当事者になれる]という状態を維持し続けるためには、理念が具現化された光景によって、理念を共有していくことが大きな意味をもつと考えています*9)。
■注
- 1)ここでは、居場所が制度や施設のモデルとされたり、行政の施策に取り入れられたりする動きを居場所の「制度化」と呼ぶ。これに対して、ある居場所が時間の経過に従って、徐々に施設のようになっていくことを居場所の「施設化」と呼ぶ。
- 2)こうした問題意識から、鈴木毅(1994)は「「機能」「行為」「集団」と空間との関係を扱う計画論からはこぼれがちだった領域」を扱うために、「居方」という概念を提示している。
- 3)居られる場所とは、まさに居場所のことである。「られる」という助動詞は受身・自発・可能・尊敬という広がりのある意味をもつが、これは居場所の意味の広がりに通じている。カナダ在住の言語学者で、日本語教育にも携わる金谷武洋(2019)は、日本語は受身(自発・可能・尊敬)、自動詞、他動詞、使役が大きな体系をつくっていると指摘し、これを「受自他使連続線」と呼ぶ。「受自他使連続線」においては、左に向かうほど「自然の勢い」が増し、右に向かうほど「人間の意図的な行為」が強調されるスペクトルをなしている。このうち、最も「自然の勢い」が増す受身(自発・可能・尊敬)を現すのが、「存在動詞『ある』起源の形態素」の「(R)ARE-」である。この議論を受ければ、「られる」は「自然の勢い」を表現していると捉えることができる。印欧語古語には、能動相(態)と対立する文法カテゴリーとして中動相(態)があったとされる。中動相(態)とは「形は受け身だが意味は能動」という言語表現だが、金谷武洋は中動相(態)について、「機能は行為者の不在、自然の勢いの表現」であり、「印欧語における無主語文」である指摘する。居られるとは「自然の勢い」として、主語の行為ではなく、あたかも自然にそうなったかのように述語として成立するということである。
- 4)居られる場所を実現するために、居場所でどのような配慮がされているかについては、田中康裕(2021)を参照。
- 5)以下では「居場所ハウス」、「下新庄さくら園」の例をあげて議論しているが、[2][4]としてあげた光景が施設的だという議論をしているわけではない。
- 6)この日、「居場所ハウス」ではひな人形の飾り付けをする日を決めており、スタッフには事前に協力を依頼していた。しかし、スタッフでない来訪者が協力してくれたのは、その来訪者がたまたま「居場所ハウス」で過ごしていたからである。
- 7)これは、鈴木毅(2004)による「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」という居方の議論としても考察することができる。
- 8)精神科医の斎藤環(2014)は、デイケアにおけるスタッフの役割として、「さまざまな形でその空間の持つ意義を繰り返し強調し、グルーピングが生じにくいように対人距離を攪乱し、ルールの適用によってその場の安全保障感を確保することである」と指摘している。ここで指摘されている対人距離の攪乱は関係の固定化を防ぐことであるが、斎藤環はスタッフの役割として「その空間の持つ意義を繰り返し強調」すること、ここでの表現を借りれば理念を共有することに言及していることは注目すべきである。
- 9)喩えが適切でない可能性もあるが、居場所が徐々に施設化されていくことをエントロピーの増大と捉えることができるなら、ここで議論している理念の共有は、哲学者の池田善昭と生物学者の福岡伸一によるエントロピー増大の法則に抵抗するための「先回り」という議論との接点を見出せる可能性がある。
■参考文献
- 伊藤俊介(2007)「建築地理学の考え方」・ 長沢泰, 伊藤俊介, 岡本和彦『建築地理学:新しい建築計画の試み』東京大学出版会
- 金谷武洋(2019)『述語制言語の日本語と日本文化』文化科学高等研究院出版局
- 河田珪子(2016)『河田方式「地域の茶の間」ガイドブック』博進堂
- 斎藤環(2014)「「親密さ」のアフォーダンス」・『建築雑誌』Vol.129 No.1659
- 佐々木嘉彦(1975)「生活科学について」・日本生活学会編『生活学』第一冊, ドメス出版
- 鈴木毅(1994)「居方という現象:「行為」「集団」から抜け落ちるもの(人の「居方」からの環境デザイン3)」・『建築技術』1994年2月号
- 鈴木毅(2004)「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会
- 田中康裕(2021)『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』水曜社
※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。
(更新:2021年11月15日)