『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

人々とともにする研究:ティム・インゴルド『人類学とは何か』を読んで

これまでいくつかのプロジェクトに関わらせていただきましたが、その際に忘れないようにしてきたのは、現場から学ぶということです。例えば、次のような文章を書いたことがあります。

「Ibashoプロジェクトに関わるにあたって常に意識してきたのは、現地から学ぶという姿勢です。なぜなら、支援する/されるという固定的な関係を乗り越えるためには学ぶという姿勢が不可欠だと思うからです。この点についてはフィールドワークを行なってきたバックグラウンドが役に立ったと考えています。」
※「Ibashoプロジェクトを通して学んだこと:外部から地域のプロジェクトに関わるための観点」・『ニュータウン・スケッチ』2020年5月20日

フィールドワークについて触れていますが、研究という視点をもつことは、(現場を研究対象にするという意味ではなく)何らかの貢献ができるのではないかと感じてきましたが、なぜそうなのかをはっきり言葉にできないでいました。

その後も、いくつかの調査やプロジェクトへの関わりを通して、現場における問題提起に対して言葉を与えること(言語化すること)が研究の大切な役割ではないかと思うようになりました。
ただし、ここで書いている言葉を与えることというのは、言葉の定義とは少し違います。例えば、居場所の運営に携わる人が、最近は居場所の目的が介護予防のためだと認識される傾向にあるが、介護予防のためだけに居場所を運営しているわけではないというように、現場の人々がモヤモヤとしていることに対して、居場所の制度化という視点から考察していくというようなことです。この場合、研究者は現場を研究対象にしていると言えますが、言葉を与えることを通じて、現場の人に対しても何らかの還元をしていくことができればと考えてきました。

それは研究ではないというご意見もあると思いますが、研究、特にフィールドワークをする上では大切なことではないかと考えています。


最近、人類学者であるティム・インゴルド(Tim Ingold)の『人類学とは何か』(亜紀書房, 2020年)を読みました。
ティム・インゴルドの指摘で興味深かったのは、人類学は「人々とともにする哲学」、「人々とともに研究する」ことである。人類学における参与観察とは、教科書に書かれているように「質的データを得るものではない」。参与観察とは「やりながら学ぶということへの積極的な関与」であるという指摘です。

「私の定義では、人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である。」

「だが人類学者にとって、そのように深く入り込むことは絶対不可欠なことである。あらゆる研究は観察を求めるが、人類学では他者を対象化するのではなく、他者に注意を払うこと、つまり他者がすることをよく見て言うことをよく聞くことによって観察する。私たちは人々についての研究を生み出すというよりも、むしろ人々とともに研究する。このやり方を「参与観察」と呼ぶ。それがこの学の礎なのである。」

「しかし「質的なデータ」という考え方そのものが、私にはどこか落ち着かない感じがする。というのも、現象の質はその現前の中にしか、つまり現象を知覚する私たちを含む、周囲の環境に現象が開かれるやり方の中にしかないからである。しかし質をデータに変える瞬間に、現象はその情報の母胎から切り離されて孤立してしまう。彼らの言うことが彼らについて何を語るのかにしか興味がない中で質的データを集めることとは、人々に対して開かれていくようでいて、その実、彼らに背を向けるようなものなのだ。」

「したがって、人類学者にとって、参与観察はデータ収集の方法では断じてない。参与観察とはむしろ、やりながら学ぶということへの積極的な関与であり、徒弟とか生徒がやっていることに比べられうる。」(ティム・インゴルド, 2020)

人類学、そして、参与観察をこのように説明するティム・インゴルドは、人類学とは、調査の対象とした「他者のやり方を解釈したり説明したりする」ための民族誌を書くこと、言い換えれば、「深くかつ長期にわたる潜入取材を通じてのみ得られる珍奇なネタの豊かさが売りの高級ジャーナリズム」ではないと指摘しています。

「しかし私の見方では、人類学の目的は全く違っている。それは、私たちが他の人たちとともに受ける教育から学ぶことを用いて、生の条件と可能性とはいったい何であるのかを推測することである。人類学者として私が信じているのは、私たちの言葉は実際のところ、私たちが調査研究した人々の見方を純化させたものであるというふりをせずに、じっくりと思索する自由、つまり私たちが考えを述べるのを大事にすべきだということである。・・・・・・。私たちが話すのは、私たちの心と精神によってであって、彼らの心と精神によってではない。また、私たちの心と精神によってではないふりをすることは、明らかに誠意がない。私たちが提示する人間経験の豊かさのおかげで、私たち人類学者には、言うべき途轍もなく重要なことがある。私たちはそれらのことを言うために、そこにいる必要がある。」(ティム・インゴルド, 2020)

ティム・インゴルドは、次のように人類学とアートの類似性を指摘しています。

「アートと同じで、人類学は、あるがままのものを描いて分析することだけに結びついている必要などない。それはまた実験的でもあり、思弁を許されている。人類学者のフィールドはもちろん実験室でもなければ、またあらかじめある仮説をテストするために巧妙にシナリオを組み立てる科学的な意味での実験の場所でもない。しかし日々の生活のあらゆる瞬間と同じように、私たちはモノに介入すること、またその介入が導いてくれる場所に導かれていくことによって実験することができる。これは、他者にあるいは世界に問いかけ、その答えを待つことである。それは、あらゆる会話において起きていることである。そしてあらゆる会話がそうであるように、それは関わる人すべての生を変容させる。」(ティム・インゴルド, 2020)

そして、人類学的な会話が「問いとしてのアート」だと考えられるのであれば、人類学は科学に対立する必要はなく、「科学することの別の方法——今日、科学と呼ばれているものの大半よりも謙虚で、人間的で、持続的な方法——のほうへと向かっている」。

「最後の手段として人類学者を駆り立てるのは、知識を希求することではなく、気づかいの倫理である。私たちは、他者にカテゴリーや文脈を割り当てたり、他者を説明し尽くしたりすることで、他者を気づかうのではない。彼らを目の前に連れてくる時に私たちは気づかい、彼らは私たちと会話し、私たちは彼らから学ぶことができる。それが、すべての人にとって居場所がある世界を築く方法である。私たちは皆で一緒に世界を築くことができるのだ。」(ティム・インゴルド, 2020)

ティム・インゴルドの議論は、この記事の最初に書いたこと、プロジェクトにおいて研究という視点を持って関わること、現場における問題提起に対して言葉を与えることについて深く考えるための、多くの手がかりを与えてくれるように思います。


■参考文献

  • ティム・インゴルド(奥野克巳・宮崎幸子訳)(2020)『人類学とは何か』亜紀書房