『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

新しい共同体とメディア・伴走者としての専門家:佐々木俊尚『そして、暮らしは共同体になる。』を読んで

佐々木俊尚氏の 『そして、暮らしは共同体になる。』(アノニマ・スタジオ 2016年)を読みました。

佐々木氏は、二十世紀には「大衆消費社会の中で成り上がり、お金持ちを目指す「 上へ、上へ」という上昇志向」、「大衆消費社会を蔑視し、反逆クールをきどる「 外へ、外へ」というアウトサイダー志向」の2つのマインドがあったが、二十一世紀には新たな方向が求められるようになっていると指摘。それが、「「 横へ、横へ」と網の目のように人間関係を広げていく方向性」です。

「二十世紀のマインドは、大きく二つに分かれていました。
大衆消費社会の中で成り上がり、お金持ちを目指す「 上へ、上へ」という上昇志向。
大衆消費社会を蔑視し、反逆クールをきどる「 外へ、外へ」というアウトサイダー志向。
しかしリーマンショックと東日本大震災を経て、二十一世紀の日本人の新しいマインドは、「 上へ」でもなければ「 外へ」でもない、新しい方向を求めている。
その新しい方向とは、所有するモノを減らし、快適な動きやすい衣類を身にまとい、身軽に移動し、世界とダイレクトにつながるような裸の感覚を持つこと。その上で、わたしたち自身がじかに他者や都市とつながり、内外を隔てない開かれた共同体概念をつくっていくこと。つまりは「 横へ、横へ」というネットワーク志向であること。
人々のそのようなスタイルを、企業とテクノロジーが「伴走者」となって支えていく。それが新しいメディアの文化空間をうみだしていく。
成り上がるのではなく、反逆者をきどるのでもなく、いまここにある生活そのものを大切に愛おしみたい。心地いい暮らしを日々くりかえしたい。そしてその先に、自分もこの社会のひとりであることを自覚し、「自分も人々と同じであること」「多くの人たちとつながっていること」という共同体への回帰がはじまっていくのです。そしてみんなで、この大衆消費社会を気持ち良くアップデートしていくことが、いまのわたしたちに大切なのだと思います。 「横へ、横へ」の感覚は、わたしたちの時代精神をも変化させていくでしょう。」
*佐々木俊尚 『そして、暮らしは共同体になる。』アノニマ・スタジオ 2016年

「新しい二十一世紀の時代状況の中で、新しいネットワークの重要性が増し、いってみれば「 横へ、横へ」と網の目のように人間関係を広げていく方向性が求められているのだと思います。これが新しい住まい、新しい共同体、新しい都市の姿のビジョンです。
これからの街や家には、ふたたび共同体感覚が戻ってくる。家というものが拡張し、街へとつながっていく。そしてそこに、内と外を隔てないオープンな共同体が立ち上がってこようとしている。わたしたちの社会は、そういうとば口に立っているのかもしれません。
・・・・・・
衣も食も住も、変わろうとしています。人々から離反する「反逆クール」ではなく、人々とつながり直すための新たな手段として、再構成されようとしているのです。」
*佐々木俊尚 『そして、暮らしは共同体になる。』アノニマ・スタジオ 2016年

衣・食・住は「人々とつながり直すための新たな手段として、再構成されようとしている」。この本では、それぞれの領域で生じている「横へ、横へ」の興味深い事例が紹介されています。

この本の中では触れられていませんが、2000年頃から同時多発的に開かれている居場所(まちの居場所)もこの文脈に位置づけられると考えています。
現在、居場所は高齢社会における介護予防のための場所(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間など)、貧困家庭の子どもを支援する場所(子ども食堂)というように、社会的課題の解決のための役割を担うこと(社会問題解決の手段になること)が期待されるようになっていますが、元々は、既存の制度・施設で縦割りにされた人々、属性によってバラバラになってしまった人々の関係を編み直すことを目指す活動。介護予防や貧困家庭の子どもの支援といった社会的課題の解決は、関係の編み直しの結果としてもたらされる効果だと理解しています。

それでは、居場所での編み直しを通してどのような関係を築くことが目指されているのか。
これまで関わったり、訪れたりした居場所では、目指すべき関係が次のように表現されていたことが思い返されます。

  • 「年齢、性別、国籍、所属、障害の有無、宗教、文化等、人とのつきあいの中で感じる「壁」を意識的に取り払い、より良いお付き合い」(新しいコミュニケーション)
    :「親と子の談話室・とぽす」(東京都江戸川区、1987年~)
  • 「みんなが何となくふらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる」(参加でないかたちでの関わり)
    :「ひがしまち街角広場」(千里ニュータウン、2001年~)
  • 「擬似家族」ではなく「擬似親族」という距離感のある関係
    :「福祉亭」(多摩ニュータウン、2002年~)
  • 「矩を越えない距離感」を大切にする関係
    :「実家の茶の間・紫竹」(新潟市、2014年~)

また、居場所という枠組みを越えた幅広い活動をされている場所・活動では、目指すべき関係が次のように表現されているのを聞いたことがあります。

  • 血縁関係でも、他者からの孤立でもなく、自立した個人と個人が築く家族のような関係
    :「荻窪家族レジデンス」(東京都杉並区、2015年~)
  • 専門家(医療介護連携)による「対応のネットワーク」と地域の日々の暮らしにおける「気づきのネットワーク」の有機的循環
    :「みま~も」(おおた高齢者見守りネットワーク)(東京都大田区、2008年~)

これらの表現を思い返すと、居場所において新たに築かれようとしているのは昔ながらの共同体ではなく、緩やかな関わりであることが浮かびあがってきます。
昔ながらの共同体が消滅し、人々がバラバラになっている時代。かと言って、もう昔ながらの共同体には戻れないし、実は戻りたいとも思ってない。こうした状況において、居場所では「新しい共同体」が目指されている。
居場所(まちの居場所)とは、かつて住宅の一部として備わっていた「閾」(しきい)が地域(まち)に外部化されたものだと捉えることができるかもしれません。

「先ほど、建築家山本理顕さんの「 閾」という概念を紹介しました。家の内外を鉄の扉でくっきりと区切るのではなく、個人の生活を外の世界になめらかにつなげ、同時に分離もしているワンクッションの空間のことです。こういう「閾」の空間は伝統的な家では一般的でしたが、いまの都市の住宅には欠如しています。
しかし「閾」のない生活は、非常に不安です。住まいが社会とつながっていないからです。それでも終身雇用制がちゃんと維持され、多くの人が正社員だったころは、会社につながって生きていくという安心感がありました。でもいまのように非正規雇用が増えて、会社もどうなるかわからない、いつリストラされるのかわからないというような人生の先行き不透明な時代になってくると、外部と遮断された鉄の扉の中で暮らしているというのは、とても孤立感の強いものになります。「だれともつながっていない、ここには自分しかいない」
そういう孤独な感覚です。
人間はそんな孤独に耐えられない。農村共同体はもうどこにもない、会社にも所属しなくなった、親戚も近くにいない。そういう状況になってしまって、再び人々は共同体を求めている。そこに、新しい住まいのありかたが現れてくる余地があるのです。
つまりいま起きているのは、インフラが高度に整備され住みやすい二十一世紀型の都市の誕生と、それに合わせた新しい共同体という二つの可能性が拓けてきているということなのです。・・・・・・。新しい都市には、新しい暮らしと新しい共同体が求められている。それは自分で自分の生活を鉄の扉の中にしまい込むのではなく、「閾」をクッションにして外に開いていき、外との関係の中で豊かさを見つけていくような生活です。」
*佐々木俊尚 『そして、暮らしは共同体になる。』アノニマ・スタジオ 2016年

かつて、住宅は生老病死の全てに関わる場所であった。けれども、近代化により生・病は病院に、老は福祉施設に、死は葬儀会館にというように、付け加えるならば、教育は学校に、職は会社に、さらに、食は食堂やレストランにというように、かつて住宅が持っていた役割は次々と外部化されていきました。
けれども、最近の居場所の動きを見ていると、かつて住宅から外部化された様々な役割が、地域に外部化された「閾」にまた集まりつつあるというのは興味深い動きです。
そして、核家族が一般化する前の家族とは、居候している人がいたり、親類や地域の人が頻繁に出入りしたり、様々な業者が出入りするものであったとすれば、想像に過ぎないかもしれませんが、(今、家族という言葉からイメージするものよりも)はるかに緩やかなものとしてあったのではないか。
この意味で、人々の暮らしには緩やかな関係が不可欠。時代によって住宅の中にあるか、地域にあるかの違いはあっても、緩やかな関係を編んでいくための「閾」が不可欠ということになるのかもしれません。

佐々木氏の本では「食」が注目されていますが、コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、子ども食堂というように、居場所もカフェ、茶の間、食堂と「食」にまつわる名称が付けられているのは決して偶然はなく、「閾」には「食」が非常に大きな比重を占めることの現れではないかと思います。お茶を飲みながら話をする、一緒に食事をする、共に料理する、料理を教えてもらう、持ち寄りのパーティーを開く。居場所で見られるこうした光景は、「食」が「人々とつながり直すための新たな手段」になっていることを示しています。


ここで、疑問に思うのが専門家の役割。人々が自発的に「横へ、横へ」と関係を広げていこうとする時代に、専門家とは何をする存在になるのか。専門家とは、ある特定の分野の知識や技術をもつ存在と言えますが、その知識や技術は分野に細切れにされたものとも言えます。それは、「横へ、横へ」という動きとは相容れないのではないか。

佐々木氏の本には、これを考えるきっかけになる次のような文章があります。

「いま、流通の世界は大きな変動を迎えていて、一方でプラットフォームとして巨大化するビジネスが台頭してきていますが、すべてがプラットフォームに呑み込まれていくわけではありません。・・・・・・。プラットフォームに呑み込まれるのではなく、文化を形成し、人々と物語を共有し、仲間にしていくビジネスというのは今後も繁栄していくでしょう。・・・・・・
そしてオムニチャネルがお客さんと企業がたがいにつながって形成する新しいメディア空間のイメージなのだとすれば、それはひとつの文化圏であり、後者のような共同体になっていくものととらえられるべきです。消費者と企業がともにつくるメディア空間で情報も商品もが共有され、あらゆる方法で人と会社がつながっていく。それが全体として文化を形成していく。この「文化である」ということこそが、お客さんを受動的な存在におとしめず、ともに文化をつくり、共感できる仲間としての能動的なつながりへと高めていくカギなのだと思います。
だからこれからの消費は、わたしは単に個人のお客さんを相手に商売する、モノを売るというだけではない。そのお客さんと仲間となり、さらにお客さんの周囲にいる家族や恋人、友人たちとのあいだでつくられる文化の空間を支えていくものでなければなりません。なにかを売るという行為は、あるひとりの人に向けてではなく、文化全体に向けて届けられるのです。その人の向こう側にいるたくさんの人たちに向けても伝えられるのです。」
*佐々木俊尚 『そして、暮らしは共同体になる。』アノニマ・スタジオ 2016年

少し前のことになりますが、ある建築家から次のような話を聞いたのを思い出しました。自分に設計を依頼した施主同士が仲良くなっているとのこと。さらに、施主が大工仕事ができるようになったり、ペンキが塗れるようになったりと職人のようになっており、建築家自身の住宅を建てる時には、これまでの施主が協力してくれたとのこと。また、何か新しいことを始めたいと思った時に、頼もうと思ってもらえる建築家でありたい、とも話されていました。「お客さんを受動的な存在におとしめず、ともに文化をつくり、共感できる仲間としての能動的なつながりへと高めていく」ことを実践している建築家と言えそうです。

「横へ、横へ」の時代においては、専門家はある特定の分野の知識や技術を核としながら、一方的にサービスを提供するのではなく、「お客さんを受動的な存在におとしめず、ともに文化をつくり、共感できる仲間としての能動的なつながりへと高めていく」ためのメディア、あるいは、伴走者になるのかもしれません。

そしてこれは、「ハブ型の近代社会」から「分散型の現代社会」への移行期(佐藤航陽氏の『未来に先回りする思考法』ディスカヴァー・トゥエンティワン 2015年)における、「代理人」から通訳者/解釈者/理解者(Interpretation)へという専門家の立ち位置の変化とも通底しているように思います。