『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

まちの居場所における親密さを考える:斎藤環「「親密さ」のアフォーダンス」を読んで

精神科医の斎藤環氏は、「「親密さ」のアフォーダンス」(『建築雑誌』2014年6月号)という記事の中で、「ひきこもり者のためのデイケア空間」における親密さはどう醸成し得るのについて書かれています。2014年と、少し前に書かれた記事ですが、ここで指摘されていることは人々が集まる場所を考える上で多くのヒントを与えてくれるように思います。


斎藤氏が勤務する病院では、当初、民家を改造した15畳程度の部屋でデイケアが行われていた。そこは「けっして広いとは言えない部屋がいつも満杯になる盛況ぶり」だったとのこと。その後、病院の新築により200㎡もある立派なデイケアルームを設置。「すし詰め状況が解消されて、利用者数もさらに増えることが期待された」が、事実はそうならず、「デイケア利用者数は頭打ちとなり、むしろやや減少気味となった」とのこと。

こうした経験から斎藤氏は、親密さを醸成するためのポイントとして、対人距離を縮めるための「言いわけ」が共有された空間のあり方と、スタッフの関わりによる親密さのアフォードの2つのポイントをあげています。

対人距離を縮めるための「言いわけ」

広々としたデイケアルームでは、面積が余裕であるが故に、参加者がグループや個人ごとに部屋の中に分散してしまう。その時、誰かと話をしようとしたり、グループに参加しようとしたりすれば、その行為にはわざわざ関わりをもとうとしている感じが出てしまう(わざわざしたという意志が露呈しやすい)。「十分な空間があること自体が、ひきこもりがちなメンバーにとってはストレスになりうるのだ」ということです。
それに対して、15畳程度の部屋では、参加者は自然と密集して過ごすことになるが、これが周りの人に話しかけることを容易にする効果をもたらすとのこと。何故ならば「「ここは狭いんだから仕方がない」という言いわけ」が共有されているから。

斎藤氏はこれをまとめて次のように述べています。

「彼らが対人距離を縮めるには「言いわけ」が必要なのだ。「ここは狭いんだから仕方がない」という言いわけのもとで対人関係を結ぶ方が、彼らにとっては有益なのである。非社交的な人々のグループをつくる場合には、あえて狭い空間で活動をするということのメリットが小さくないという理由がおわかりいただけただろうか。」
*斎藤環「「親密さ」のアフォーダンス」・『建築雑誌』Vol.129 No.1659 2014年6月号

この部分から、大阪府・千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」のことを思い浮かべました。
空き店舗を活用している「ひがしまち街角広場」の面積は75㎡ほどとそう大きくはありません(移転前は30㎡とさらに狭かった)。「ひがしまち街角広場」でしばしば見られるのが、他のテーブルの人と話をしたり、運営当番がテーブルの会話に加わったりするテーブル越しの会話。既に顔見知りの人だということはあるにしても、「ここは狭いんだから仕方がない」という「言いわけ」が共有されていることが、テーブル越しの会話を生む一因になっているのではないかと思います。

もちろん、対人関係を結ぶ上で「言いわけ」が必要なのは、引きこもり者のデイケアの参加者に限りません。電車でたまたま隣あった人に急に話しかけると不信がられるように、誰にとっても他の人との関わりには「言いわけ」が必要だということ。
劇作家の平田オリザ氏は、対話が生まれやすい状況として「セミパブリックな空間」、「セミパブリックな時間」という考え方を指摘していますが、これは対人距離を縮めるためには「言いわけ」が共有されている空間や時間と考えることができます。

さらに、社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが次のように述べているように、特定の目的をもたずに過ごすことも「言いわけ」がなければ、周囲の人の目に不自然に映ってしまうということ。つまり、パブリックな場所に居られること自体が、「言いわけ」、あるいは、名分の共有の上に成立していると言えるかもしれません。

「「無目的」でいたり、何もすることがないという状態を規制するルールがあることは、次の例を見れば明らかである。のらくら行為を正当化したり隠したりするために、課されているわけでもない関与を利用すること——誰の目にも明らかな行為をすることで自分の存在を粉飾する行為——がそれである。だから、仕事中に「休憩」したい人は、喫煙が認められているところへ行って、そこで目だつように煙草を吸う。また、ほんのちょっとした「気晴らし」の行為が、何もする仕事がないという状態を隠す手段として用いられたりする。たとえば、魚などはいないから自分の瞑想が妨げられるおそれのない河岸で「魚釣り」をしたり、あるいは浜辺で「皮膚を焼いたり」するのは、瞑想や睡眠を隠すための行為である。このようなどちらかといえば無為の行為を公然と示してそれを正当化するには、浮浪者ののらくら行為の場合と同じように、特別のユニホームを着用しなければならないのであろう。予想されることであるが、列車や飛行機に乗っている時のように、その場の状況から見て現在の状況外の支配的関与がはっきりとわかる時には、窓の外をじっとながめたり、瞑想にふけったり、居眠りしたりしても、それは少しもさし支えない。要するに、関与すべきことがらを回避していないということが保証されている状況では、別の状況であったら状況回避だと考えられることを実行に移す自由がそれだけ多くある。」
*E.ゴッフマン(丸木恵祐 本名信行訳)『集まりの構造:新しい日常行動論を求めて 』誠信書房 1980年

親密さのアフォード

斎藤氏は、「知覚情報は、人間の主観ではなく環境の側にある」という心理学者のジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス理論に触れながら、人間の存在は圧倒的な存在感をもって知覚されるが、その知覚からどのような刺激(「敵意」「無関心」「親密さ」など)を受けるかは、受け手のコンディションによる(「不変項としての人間の存在の知覚が、どのような刺激(「敵意」「無関心」「親密さ」など)をアフォードするかは受け手のコンディションによる)。そこから親密さを引き出すためには、空間のあり方だけを考えるのでは不十分で、デイケアスタッフの関わり方が重要になるのだと。

斎藤氏はこれを、比喩を用いながら次のように述べています。

「さまざまな思惑が交錯する(かに見える)デイケア空間の「包囲人配列」において、常に「不変項」としての「親密さ」をアフォードしてくれる存在、それがデイケアスタッフと言うことになる。」
*斎藤環「「親密さ」のアフォーダンス」・『建築雑誌』Vol.129 No.1659 2014年6月号

この部分からは、新潟市の地域包括ケア推進モデルハウス「実家の茶の間・紫竹」を思い浮かべました。
「実家の茶の間・紫竹」の日々の運営は、「居場所担当」の当番2人と「食事担当」の当番2人、あわせて4人の当番が担当していますが、「居場所担当」の当番の役割は、その日一番手助けが必要な人、1人で過ごしている人、寄り添って欲しいと思っている人の傍にいて話をすること。そして、自分だけでずっと話をするのではなく、周りに居合わせている人につなぐこと。これはまさに、斎藤氏が述べている対話を通じた親密さのアフォードする役割だと言えます。
なお、「実家の茶の間・紫竹」ではこの他に、天気に関わらず玄関の戸は常に開け放しておく、入口を入った人に視線が集中しないようなテーブルレイアウトにする、(初めての人には)思い思いに過ごしている人々の姿を見てもらうことで、ここは自由に過ごせる場所だとわかってもらうなど、数多くの工夫がなされています。これらはいずれも、親密さをアフォードするための工夫だと考えることができそうです。


  • 参考:斎藤環「「親密さ」のアフォーダンス」・『建築雑誌』Vol.129 No.1659 2014年6月号