『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

グエル公園:アントニ・ガウディが開発に携わったガーデンシティ(田園都市)

グエル公園の歴史

バルセロナのグエル公園(Parc Güell/Park Guell)は、建築家のアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet:1852~1926年)が設計に携わった公園です*1)。元々、エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard:1850~1928年)が提唱したガーデンシティ(田園都市)に触発された住宅地として開発が始められました*2)。
住宅地として開発が始められましたが、名前は当初からグエル公園。スペイン語で公園を意味するParqueでなく、Park(Parc)という英語名が付けられた理由は、イギリスのガーデンシティの実現を目指したからだと言われています。

エベネザー・ハワードのガーデンシティとは、「町の生活」でも「いなか生活」でもなく、「きわめてエネルギッシュで活発な町の生活の長所と、いなかの美しさやよろこびのすべてが完全な組み合わせとなって確保される」第三の選択肢としての「町・いなか磁石」を作るという提案です(エベネザー・ハワード, 2000)。エベネザー・ハワードがガーデンシティを紹介した書籍『明日:真の改革にいたる平和な道』(To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform)を刊行したのが1898年、そして、エベネザー・ハワード自らが携わったイギリスのレッチワース(Letchworth)の建設が始まったのが1903年。これに対して、グエル公園の建設が始まったのは1900年であり、グエル公園は世界で最初のガーデンシティと言われることがあります(鳥居徳敏, 1985)。エベネザー・ハワードのガーデンシティの考え方は、早い段階で各国に広がったことが伺えます*3)⁠。


グエル公園が開発された頃、バルセロナは産業勃興による都市問題が発生していました。エウゼビ・グエル(Eusebi Güell i Bacigalupi:1846~1918年)は、バルセロナ中心部から北に位置するペラダ山(禿げ山)の裾野にある15haの土地(海抜150m)を取得し、ガーデンシティをモデルとするブルジョア階級家族用の住宅地を計画しました。

今ではグエル公園の周りまで住宅などが建ち並んでいますが、当時はここまで開発が行われていませんでした。グエル公園は、住宅を60区画売却するプロジェクトとして始められたものの、自動車が普及しておらず交通の便が悪かったなどの理由から、施主のグエル家の住宅を除いて、わずか2区画が売却されただけで、1914年にプロジェクトが中断。売却された2区画のうち、1区画はアントニ・ガウディが購入したものでした。エウゼビ・グエルの死後、1922年にバルセロナ市に売却され、公園として公開されることとなりました。

(丘に開発されたグエル公園)

グエル公園の様子

グエル公園の正面入口の両脇に2軒の建物があります。西(正面入口に向かって左手)にあるのが「将来の公園住民が訪問者と会う場所として建設された」待合い館(鳥居徳敏, 1985)で、現在はミュージアムショップとなっています。東(右手)にあるのが「門衛の住宅」である門衛館(鳥居徳敏, 1985)で、現在はミュージアムとなっています。
グエル公園では、アントニ・ガウディが生み出したトレンカディス(使われなくなった皿や花瓶などを割り、その破片を組み合わせて貼り付ける技法)が多数用いられています。

(グエル公園の正面入口)

(待合い館)

(門衛館)

正面入口を入ったところにあるのがモニュメンタル階段(Monumental Staircase)。岩と植物を組み合わせた3段構成の階段で、グエル公園で有名なトカゲ、蛇の頭の形をした噴水があります。

(モニュメンタル階段)

(蛇の頭の形をした噴水、頭の後ろはカタルーニャの紋章)

(モニュメンタル階段の擁壁トレンカディス)

モニュメンタル階段をあがった正面には86本のドーリス式の柱が並ぶホール(Hypostyle Hall)。列柱の間から他者が見え隠れする不思議な感じがする空間です。ここは、元々、住宅地のマーケットとして計画されました。
ホールの天井には、アントニ・ガウディの弟子である建築家のジュゼップ・マリア・ジュジョール(Josep Maria Jujol Gibert:1979~1949年)の手によるトレンカディスでできた円形の装飾があります。

(円柱が並ぶホール)

(ホール天井の装飾)

ホールの上は、ギリシャ劇場(The Greek Theatre)と呼ばれる広場になっており*4)、ここからはバルセロナ市内を一望することができます。ギリシャ劇場は、野外ショーやカタルーニャ文化に関するイベントを開催するために作られました。広場はジュゼップ・マリア・ジュジョールの手によるトレンカディスで覆われた波打つベンチで囲われています。
ホールの上に位置する広場には、雨水を濾過する機能もあり、濾過された雨水はホールの列柱の中を流れ、ホールの下に作られた貯水槽に流れこむようになっています。貯水槽の水は、「庭園の散水用」ですが、「公園住民の井戸水が涸れた場合には、緊急の飲料水としても利用」(鳥居徳敏, 1985)することが考えられました。

(ギリシャ劇場)

グエル公園には3軒の住宅が建設されました。
1軒目は、施主のグエル家の住宅で、現在は小学校(Escola Baldiri Reixac)になっています。2軒目は、アントニ・ガウディの弟子であるフランセスク・ベレンゲー・メストレス(Francesc d’Assís Berenguer i Mestres:1866~1914年)がモデルハウスとして設計した住宅。1906年、この住宅をアントニ・ガウディが購入*5)。アントニ・ガウディは1925年にサグラダファミリアに引っ越すまで、この住宅に父、姪とともに住んでいました。この住宅は、現在、ガウディ博物館となっています。これらがプロジェクトの施主と建築家という言わば身内の住宅であるのに対して、3軒目は唯一、プロジェクトの身内ではない弁護士(医者と言われることもある)のトリアス家の住宅です。

(手前がグエル家の住宅、奥がトリアス家の住宅)

(アントニ・ガウディが購入した住宅)

(トリアス家の住宅)

以上で紹介したのはグエル公園で有名な部分ですが、これはグエル公園のごく一部で、公園自体はかなりの面積があります。

アントニ・ガウディは公園西側にある、公園で最も高い丘に教会堂の建設を計画していました。教会堂は建設されませんでしたが、代わりにゴルゴダ(十字架の丘)が作られました。

(ゴルゴダ(十字架の丘))

公園の東側には3つの高架橋(The Three Viaducts)があります。高架橋は勾配のある地形を活かすための工夫で、投稿線に沿って建設された道路をつなぐために窪地に架けられています。高架橋の上は車が通り、高架橋の下は雨や夏の陽射しを避けるための場所にすることが考えられたということです。

「ガウディは建築は自然に習うべきと考え、常に立地条件を最大限に利用しようと試みた。グエル公園でも地形が最大限に活かされている。山を削る方法でなく、ペラダ山本来の形を残すために等高線に沿って道路建設が行われ、窪地の個所はその上に隆橋が架された。この陸橋は、煉瓦造りの柱とヴォールトから成り、その上を同地産の石で覆ったため、自然の洞窟のようになった。それらの円柱は傾斜し完全に周囲の自然と調和している。」(アントニオ・ガウディ展実行委員会, 1998)

「三つの陸橋は、公園右手(東側)の起伏が最も激しい所で、彎曲した車道を通すためであった。凹地を埋め、崩れないように両側を擁壁で固めようとすれば、多くの石材を要し、仕事も大変だ。しかも、この石材を公園内から供給しなければならないから、それだけの量を掘削するのも骨が折れる。これに比べれば、何本かの柱を建てて車道を支える陸橋の方が、石材料も仕事量も少くてすむとガウディは言うのだ。
実際は、これらの柱の大部分はレンガ造で作られ、表面が石材で被覆された。これによって、石材の使用量をさらに少くすることができた。・・・・・・」(鳥居徳敏, 1985)

高架橋では散策する人、音楽を演奏する人/聴く人など多くの人がおり、非常に気持ちの良い、魅力的な空間になっていました。

(3つの高架橋)

このように、グエル公園では様々な工夫がなされています。ガーデンシティをモデルとする住宅地を作るという当初の目的は達成されませんでしたが、それゆえ、グエル公園は「プライベートタウンからパブリック・パークへ」*6)へと位置づけを変え、多くの人々に親しまれる場所になっていくことになります。1984年、グエル公園はユネスコ世界遺産に登録されました。

グエル公園への徒歩でのアクセス方法

グエル公園は、バルセロナ中心部からやや離れた場所に位置します。近くには地下鉄(Metro)がなくバスでアクセスすることになりますが、地下鉄(Metro)3号線のレセップス(Lesseps)駅から徒歩15分ほどでアクセスすることができます。

レセップス(Lesseps)駅から地上に出た後、広場を通り抜けて、図書館脇のAvinguda de Vallcarcaという通りを北西に約450m歩きます。この部分には土地の高低差はありません。そして、Baixada de la Glòriaという通りで右折。ここからグエル公園に向かって約300mの階段・坂道を上る必要がありますが、約300mの半分ほどには上りのエスカーレーターが設置されています。

(Avinguda de VallcarcaとBaixada de la Glòriaの交差点付近)

(Baixada de la Glòriaのエスカレーター)

(Baixada de la Glòriaの坂の上から振り返る)

坂を上がった正面がグエル公園。ゴルゴダ(十字架の丘)の近くにある入口から入場することができます。


■注

  • 1)グエル公園に関しては、ポータル・ガウディの「PARK GÜELL」のページ、グエル公園で配布されていたパンフレット、鳥居徳敏(1985)、アントニオ・ガウディ展実行委員会(1998)を参考にしている。
  • 2)鳥居徳敏(1985)は、エウゼビ・グエルとイギリスとの関係について次のように述べている。「グエルはイギリスで学問を修めた。また、職業柄、頻繁に英国を訪れているから、彼国の風土や習慣に慣れ親しんでいた。地中海にないイギリス風庭園が彼を魅了したであろうし、田園都市という構想もおそらく耳にしたことであろう。緑に囲まれた住宅地が彼の夢になったような気がする。グエル公園は施主の夢の実現であり、人生の余興に似たものであったとすれば、すべてが理解できそうだ。」
  • 3)ドイツでは、1909年からヘレラウ(Hellerau)と呼ばれるガーデンシティの建設が始められている。
  • 4)ギリシャ劇場の名称が一般的だが、グエル公園で配布されていたパンフレットにはギリシャ劇場に加えて、「自然広場」(Nature Square)という名称も記載されている。
  • 5)ポータル・ガウディの「PARK GÜELL」のページには「販売促進のためのモデルハウス」と説明されているのに対して、鳥居徳敏(1985)はこの経緯を次のように述べている。「グエル公園の道路網整備と必要最小限の居住施設の建設が終り、宅地が売りに出されると、ガウディは、九十三歳になる父の健康と結核気味で独身を強いられた病弱の姪のことを考え、閑静で自然に恵まれたこの公園の一区画を買い、助手のベレンゲール設計の住宅を建てた。」
  • 6)ポータル・ガウディの「PARK GÜELL」のページより。

■参考文献

  • アントニオ・ガウディ展実行委員会 北川フラム・奥野栄編(1998)『アントニオ・ガウディ展』アントニオ・ガウディ展実行委員会
  • エベネザー・ハワード(山形浩生訳)(2000)『明日の田園都市』プロジェクト杉田玄白
  • 鳥居徳敏(1985)『アントニオ・ガウディ』鹿島出版会