『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ウェリン・ガーデンシティ:イギリスにおけるガーデンシティの試み

レッチワースとウェリン・ガーデンシティ

ウェリン・ガーデンシティ(Welyn Garden City)はエベネザー・ハワードの理念に基づき、レッチワースに次いで2番目にガーデンシティ(田園都市・Garden City)としての1920年から開発が始まりました。その後、資金の不足で建設が遅れていたこともあり、ニュータウン法(1946年制定)により、1948年にニュータウンとして指定され、開発が継続されることになりました。2011年時点の人口は46,619人の都市です*1)。

ウェリン・ガーデンシティはロンドンの北に位置し、レッチワーススティヴネイジハットフィールドと同じハートフォードシャー(Hertfordshire)州にあります。いずれもロンドンのキングス・クロス(King’s Cross)駅から鉄道でアクセス。
ただし、レッチワースがロンドンの北55km、スティヴネイジがロンドンの北44kmにあるのに対して、ウェリン・ガーデンシティは32kmと比較的近い位置にあります。なお、すぐ南にあるハットフィールドとは、ウェリン・ハットフィールド(Welwyn Hatfield)という行政区(District)を構成しています。

イギリスに生まれたレッチワース、ウェリン・ガーデンシティの2つのガーデンシティ。エベネザー・ハワードが描いたガーデンシティは「民間の「協力的精神」」、「自助やボランタリズムの精神」によって運営されるもので、これは行政の介入とは相対立するもの。そのため、レッチワースはニュータウン指定を拒むことになりますが、ウェリン・ガーデンシティはニュータウン指定を受け入れることになり、2つのガーデンシティは別の道を歩むことになります。

この経緯について、西山八重子(2002)、東秀紀ほか(2001)は次のように指摘しています。

「ハワードはニュー・タウンズメンらの情熱にたいして冷ややかであった。両者の違いは、ハワードが自助やボランタリズムの精神を田園都市実現の基礎においていたのにたいし、オズボーンは田園都市を国の分散政策の手段とし、公共事業としておこなうべきだととらえていた点にある。ハワードの考えは最初から一貫しており、妥協はしなかった。
そして、オズボーンらが政治的駆けひきをしているあいだに、ハワードは第二の田園都市を自らの手で建設すべく、土地の取得に奔走した。資金も事業協力者もないままハワードは、無謀にも第二の田園都市としてウェルウィンの土地を購入した。ハワードの強引なやり方に驚いたオズボーンらは、1920年に事業が始まると協力せざるをえなくなり、次第に積極的に建設にかかわるようになった。ウェルウィン田園都市は、一人の建築家が長年にわたり都市デザインをきめ細かく指導したため、洗練された魅力的な町となった。しかし、都市経営はかなり厳しく、のちに国の事業へ移管されることになった。田園都市の理念を忠実に守ったレッチワースとは袂を分かったわけで、こうした意味でウェルウィン田園都市は、オズボーンの考えに従う田園都市になったといえよう。」(西山八重子, 2002)

「ハワードの弟子であることを自認するオズボーンは、ウェリン・ガーデンシティなどの経験から、行政介入による都市計画の必要性を感じ、フェビアン協会と労働党の目標とする社会福祉国家の中に田園都市を位置づけようとした。行政の介入という点に関して、ハワードはかならずしも肯定的ではなかったが、オズボーンはむしろ積極的に促進することで、はじめて都市計画がなされると考えたのである。
しかし、オズボーンの考えどおり、ニュータウンに組み入れられることを了承したウェリン・ガーデンシティとは対照的に、レッチワースの住民たちは団結して政府による収容を拒否した。それはハワードが望んでいたように、田園都市は民間の「協力的精神」によって運営されなければならない、という考えを住民たちがもちつづけていたからであった。」(東秀紀ほか, 2001)

こうした経緯をふまえた上で、東秀紀ほか(2001)はウェリン・ガーデンシティの意義は、「レッチワースがそれ自体で住みやすい町をつくりあげたのに対し、やがてロンドン周辺に複数のニュータウンが建設され、「社会都市」が実現していく先駆けをなしたという、広域的な観点で考える必要がある」と指摘しています。
菊池威(2004)も、ウェリン・ガーデンシティがニュータウン政策に併合されたことから、「同法〔ニュータウン法〕の成立は中央政府がハワードの《田園都市》および「社会都市」の構想を受け入れたことを意味し、彼の構想がその後ロンドン郊外その他に建設された約20のニュータウンとして実現したという、積極的な見方」ができると指摘しています。ただし、菊池威(2004)は「この過程でニュータウン、サテライト・タウン、ガーデン・サバーブ、サバービアなどの用語がガーデンシティと同じような意味で使われるようになり、《田園都市》という言葉の存在意義が薄れてしまうという結果も伴っている」ことには注意を喚起しています。

このような歴史のあるウェリン・ガーデンシティは現在、どのような姿になっているのか。それを知るため、2005年5月に現地を訪問しました。

Howard Centre・Howardsgate

ウェリン・ガーデンシティの駅前には、ハワード・センター(Howard Centre)というショッピング・モールがあります。1980年代に建設されたもので、元の鉄道駅が組み込まれたものだとのこと*2)。
ハワード・センターの前からは、Howardsgateという並木と中央に芝生のある大通りが真っ直ぐに通っています。中央にハワードの顔が彫られた銘板があり、「1850 1928 / SIR. EBENEZER HOWARD / FOUNDER OF WELWIN GARDEN CITY IN 1920 / HIS VISION AND PRACTICAL IDEALISM PROFOUNDLY AFFECTED TOWN PLANNING THROUGHOUT THE WORLD」と記されています。

Parkway・The Campus

Howardsgateの突き当たりには大きな噴水があり、Parkwayという大通りが南北に走ります。Parkwayの北端にはThe Campusという扇型の広場。

タウンセンター

Howardsgateの南北は商業施設などが集まるタウンセンターになっています。

住宅地

これらの周囲は住宅地エリアとなっています。2階建の連続住宅が多いことが印象に残っています。食事の協同化が試みられたゲッセンス・コート(Guessens Court)のように、中庭を持つ住宅もあります。

住宅以外にいくつかの教会、ヘルス・クリニックも見かけました。

Daily Mail Model Village

住宅地エリアを歩いている時、「Daily Mail Model Village」(デイリー・メール・モデル・ビレッジ)という看板を見かけました。看板を読むと、ウェリン・ガーデンシティ建設当初、新たな建築方法のモデルとして建てられた住戸からなる村だとのこと。

掲示板には次のように説明されています。
Daisy Mail Ideal Home Villageの提案は1920年に遡る。当時、第一次世界大戦後の国レベルでの住宅問題が生じていた。より安い建築資材、新たな建設方法が開発されたが、住宅当局、建築家、一般の人々が検討、比較できるよう住宅を一堂に展示する必要があった。ただし、通常の展示会にするのは無駄であるため、Daily Mailでは3ヶ月間住宅を展示し、その後すぐ、展示していた住宅を販売することが考えられた。
Daily Mailを所有していたノースクリフ卿(Load Northcliffe)は、ガーデンシティ・ムーヴメントの熱心なサポーターであり、ウェリン・ガーデンシティを敷地にすることは自然な選択だった。すぐにBarleycroft RoadとParkwayの南の土地が選ばれ、ガーデンシティとは分離せず、ただしガーデンシティとは異なる100の住宅からなる村が計画された。
しかし、1920年の金融危機で計画は変更。1920年秋までには、Handside Laneに敷地が変更された。より安価に開発できる土地であり、ガーデンシティ会社(Garden City Company)は、19件を建設することで大きな役割を果たすように計画は大幅に修正された。結果として、16の異なるデモンストレーションの建築システムと、最新の給湯システム、調理設備、内装部品を備えた41の住宅からなる村が完成した。
1922年3月2日、第一次世界大戦のリーダーであるEarl Haigにより、オープニング・セレモニーが執り行われた。村には非常に多くの人が訪問し、ロンドンのキングス・クロス駅からは特別列車が運行し、運送会社のPickfordsはホルボーン(Holborn)、オリンピア(Olympia)「Luxurious char-a-banes」のサービスを提供した。ガーデンシティの国際会議に参加していた26カ国の代表者も、エベネザー・ハワードの案内で訪問。3ヶ月間の展示が終わった後、計画通り住戸は販売され、ウェリン・ガーデンシティの一部となった。
Daisy Mail Ideal Home Villageは当初の計画からは大幅に縮小されることになったが、全ての側面から近代的な住宅を学ぶことができる場所となり、ガーデンシティ・ムーヴメントの核心である「実践的な理想主義」(Practical Idealism)の反映である*3)。

掲示板には、以下の8つのタイプの住宅の説明が、地図とともに紹介されています。

  • Two Georgian Houses / Ex-Service Men’s Efficiency
  • Steel-Framed Houses
  • Standardised Building
  • Labour-Saving Cottage / A Lesson From British Columbia
  • Italian Villa / C.D.L Concrete System
  • Builders In The Making / A School For Supervisors
  • Double Walls / Rapid Erection and Economy
  • An Exhibition of Modern Housing / Materials and Fitting

ここに見られる鉄骨、二重壁、建物の標準化、省力化、監督者・管理者のための学校といった表現からは、住宅を建設することに対する新たな提案が伺えます。

ウェリン・ガーデンシティを実際に歩いて見て、約100年前に開発がスタートした街が、いまでも当時の面影を残しながら、綺麗に住み続けられていることを感じました。

それと同時に、ゲッセンス・コートにおける食事の協同化という住戸を開く試み、Daily Mail Model Villageにおける新たな住宅建築の試みからは、当時のウェリン・ガーデンシティが社会的にも、技術的にも新たな試みがなされた街であったこともわかりました。だからこそ、その歴史を継承していく必要があることも実感させられました。


  • *1)Wikipedia「Welwyn Garden City」のページより。
  • *2)Wikipedia「Welwyn Garden City」のページより。
  • *3)Daily Mail Model Villageの掲示板より(一部省略)。

参考文献

(更新:2018年11月3日)