『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

外からの関わりで地域をつなぐ(未来を拓く 居場所ハウス)

*『シルバー新報』という新聞に掲載された「未来を拓く 居場所ハウス」(全5回)の第5回目の記事をもとに、一部加筆したものです。
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外からの関わりで地域をつなぐ−補い支え合う社会へ−

近年、地域の人々が気軽に立ち寄ったり、活動したりできるカフェ的なスペース(コミュニティ・カフェと呼ばれることもある)が各地に開かれている。地域の人々の思いがきっかけとなり開かれる場所もあれば、行政など地域外からの働きかけがきっかけとなり開かれる場所もある。「居場所ハウス」は東日本大震災の被災地において、地域外からの働きかけをきっかけとして開かれた復興の拠点である。地域の場所に外部の者が関わることにはどのような意味があるのか。連載の最終回では、筆者の役割を振り返りながらこの点を考えたい。

筆者は「居場所ハウス」のオープン直前から大船渡で生活し、研究者として「居場所ハウス」の調査、及び、運営の支援を行っている。「居場所ハウス」での筆者の役割の1つは、日々の出来事を記録することであり、イベントの時だけでなく、イベントのない時やイベントの準備・後片付けの様子なども写真に撮り、「居場所ハウス」内に展示している。「○○さんが写ってる」、「こんなイベントもしてたのを初めて知った」と言ってくださる方もおり、展示した写真は「居場所ハウス」を知ったり、歩みを振り返ったりするきっかけになっている。日々の出来事を記録すること、展示やウェブサイトなどでの情報発信というように、目に見えるかたちで記録を編集すること。こうした作業の蓄積によって、「居場所ハウス」の歴史や価値が共有されていくと考える。
もちろん、外部の者でなくても日々の出来事は記録できるが、見慣れたものを記録し続けることは意外と難しい。初めて目にするもの、普段見慣れないものの方が記録しやすいのである(読者の中にも、圧倒的に長時間を過ごす自宅にいる時より、旅行をしている時の方が写真を撮るという方が多いのではないだろうか?)。つまり、外部の者は地域の人々が見過ごしてしまう日々の出来事を、記録しやすい立場にあると言える。

外部の者には地域外で築いている関係があるため、「居場所ハウス」と他地域の人々との媒介者になることがある。例えば、東京に住んでいる筆者の知り合いが「居場所ハウス」に来て絵手紙教室を開いてくださったことがある。筆者の知り合いだけでなく、被災地支援のため遠くから来てイベントや教室を開いてくださる方も多い。また、地元で収穫した茄子やピーマンを「居場所ハウス」に送ってくださる方もいるし、逆に、「居場所ハウス」のある末崎町の特産品であるワカメをお礼に送るといったやりとりがなされることもある。
今後、人口が減少していく我が国では、地域がそれぞれの特色を活かしながら、人や物、情報など足りないものを補い合い、支え合うことが大切になる。ささやかではあるが、その具体的な形が「居場所ハウス」で生まれつつある。「居場所ハウス」をきっかけとして生まれたこうした関係が、イベントなど1度きりで終わらせるのでなく、どうしたら継続できるのかを考えていきたい。
ただし、外部の者は、遠く離れた他の地域の人々との関係を媒介するだけにとどまらない。
同じ地域に長く住んでいると、生活する範囲がある程度決まるため、限られた人とだけ関わる生活になりがちである。地域には良くも悪くも様々な人間関係が築かれているのである。しかし、外部の者は地域の様々な人間関係の周縁にいるため、時として人間関係を越えた関わりを持つことができる。地域に築かれている人間関係の中には、外部の者はそう簡単には入り込めない。しかし、だからこそいくつかの人間関係の周縁にいる外部の者が、それらの間を行き来し、結果として同じ地域に住む人同士を媒できることがある。

地域には様々な当たり前がある。記録するまでもない当たり前のこと。この人とは関わり、この人とは関わらないという人間関係の当たり前。外部の者はこうした当たり前を共有していないからこそ、それらを記録したり、媒介したりしやすいと言える。

先に筆者は「居場所ハウス」で運営の支援をしていると書いたが、一方的に支援しているわけではない。筆者が上手く運営するための答えを知っているわけではないし、運営について一方的にアドバイスする立場でもない。それどころか、末崎町という慣れない土地での住まいや食事など、地域の方々はいつも筆者のことを気にかけてくださっている。
哲学者、鷲田清一氏の言葉に次のようなものがある。「他者への(ひととしての)関心が、相手の側に逆方向の「他者への関心」を呼び起こすということ、こういう反転がケアの核心にはあって、ケアといういとなみの相手を「お客様」として遇することは、管理としてのケアと同じく、この反転の可能性をこそあらかじめ殺いでしまうということである」※。
ケアだけでなく場所作りや震災復興でも、一方的な支援の弊害が指摘されることは多い。支援しながら、しかし、それが過剰にならないような支援とは何か。慣れない土地での生活を始めた時に、一方的に支援する立場ではあり得なくなった筆者のことを振り返れば、生活の時間を共有することにそのヒントがあるように感じる。支援し/支援されるという関係が築かれたところにこそ、外部の者だけでも、地域の人々だけでも作れないような場所が実現されるのである。


[注]
※鷲田清一『思考のエシックス:反・方法主義論』ナカニシヤ出版 2007年

131125-120940

「居場所ハウス」内に展示した活動の写真

140322-145944

絵手紙教室の様子