『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「まちの居場所」と「居場所」という言葉の意味

日本建築学会環境行動研究小委員会で、2010年に『まちの居場所』(東洋書店)を刊行しました。当時、各地に同時多発的に開かれつつあった「まちの居場所」の先進事例を紹介するとともに、「まちの居場所」がどのような意味をもつ場所であるのかを考察した書籍です。
「まちの居場所」でキーワードとされている「居場所」という言葉について、書籍を刊行した当時次のような文章を書きました(一部加筆)。地方創生、介護・福祉、震災復興など多様な文脈で「まちの居場所」がますます注目されている現在、「居場所」という言葉にはどのような意味が込められているのかを振り返るために、この文章を改めて掲載したいと思います。

「まちの居場所」と「居場所」という言葉の意味

「育ち愛ほっと館」、「東京シューレ」、「あそびと駄菓子屋・たかさんち」、「佐倉市ヤングプラザ」、「烏山プレーパーク」、「宅老所ひだまり」、「ひがしまち街角広場」、「ふれあいリビング・下新庄さくら園」、「親と子の談話室・とぽす」、「神谷町オープンテラス」・・・・・・。『まちの居場所』(東洋書店, 2010年)で紹介する場所の名称です。これらの場所をご存知でない方は、どんな場所なのかを想像してみて欲しい。既にご存知の方は、ご存知でない方に対してどのように説明すればわかってもらえるかを考えて欲しい。想像することも、説明することも、なかなか難しいのではないかと思います。なぜ、難しいのか。その理由の1つは、これらの場所が従来のビルディングタイプ、つまり、学校、病院、工場、博物館、あるいは、監獄などの施設の枠組みにはあてはまらないから、ということだと思います。
まちの居場所』で紹介する場所の中にも、フリースクール、プレイパーク、宅老所、コミュニティ・カフェといった名称で括ることのできる場所もあります。この中で、フリースクールという言葉は既に『広辞苑』にも掲載されています(注1)。一方、まだこのような名称が存在しない場所もあります。そのため、『まちの居場所』で紹介する場所にはまとまりがないと感じるかもしれませんが、本書をお読みいただければわかるように、これらの場所にはいくつかの重要な共通点が存在します。多くの場所は地域でどのように暮らしていきたいのか、子育てしたいのか、年を重ねていきたいのかという切実な問いに向き合ってきた人々の、「こんな場所があったらいいのにな」という思いから生まれています。場所を成立させるための運営、しつらえのやり方にも多くの共通点があります。
一見するとまとまりはないが、よく見ると共通点も多い場所でしばしば使われるキーワードが「居場所」。以下では「居場所」という言葉がどのような経緯で使われるようになり、どのような意味で使われているのかをみていきたいと思います。

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グラフは居場所という言葉をタイトルに含む文献の出版数の推移を表していいます。居場所という言葉をタイトルに含む文献が出版され始めた1980年代当時、居場所は学校に行かない・行けない子どもとの関わりで使われていました。当時の状況について萩原(2001)は、「「居場所」という言葉がマスコミにしばしば登場するようになってきたのは、1980年代に入ってからになる。その頃、学校に行かない・行けない子どもたちが目立ち始め、登校拒否現象として社会問題になってきたことと深く関わってのことであ」り、「1980年代半ば、「居場所」といえば、学校に行けない子どもたちのフリースクールやフリースペースをさしていた」と述べています。本書で紹介する「東京シューレ」はその先駆的な試みです(注2)。
「学校の外」(芹沢, 2003)の場所という文脈で使われ始めた居場所という言葉は、その後、行政の文書に登場するようになります。1992年には、文部省が委嘱した学校不適応対策調査研究協力者会議が「登校拒否(不登校)問題について-児童生徒の『心の居場所』づくりを目指して-」と題する最終報告書をまとめ、その中で「登校拒否はどの子どもにも起こりうるという観点にたって、学校が子どもにとって自己の存在感を実感でき精神的に安心できる場所(心の居場所)となることが大切であると指摘された」(田中, 2001a)。2004年度には、放課後や週末に学校を開放し、退職した教員や大学生、PTA関係者ら地域の大人が子どもたちのスポーツや文化活動などの様々な体験活動を支援する「子どもの居場所づくり新プラン」が始められ、行政が居場所を設置するという動きが見られるようになります。

こうした動きと並行して、『高齢者の居場所創り:生かされ活きる老人ホームライフ』、『老いの居場所:時には死んだふり』、『“まち”にさがそう!男(おやじ)の居場所』、『男の居場所:酒と料理の旨い店の話』、『女ざかりの居場所さがし』、『居場所の定まらない女』など、子どもに限らず、高齢者、男性、女性など様々な人々にとっての居場所についての文献が出版されるようになっており、居場所という言葉が広がりをもって捉えられるようになってきたことが伺えます。上のグラフを見ると、1990年代の後半になって居場所という言葉をタイトルに含む文献の出版数が増加しています。本書で紹介する「まちの居場所」は、2000年に入ってから開かれた場所が多く、居場所という言葉が広がっていった時期と重なっています。

このように広がりをもって使われるようになった居場所という言葉には、例えば、次のような意味があるとされています。藤竹(2000)は居場所を「自分が他人によって必要とされている場所であり、そこでは自分の資質や能力を社会的に発揮することができる」場所としての「社会的居場所」と、「自分であることをとり戻すことのできる場所」であり、そこにいると「安らぎを覚えたり、ほっとすることのできる場所」としての「人間的居場所」の2つに大別しています。佐藤(2004)は、思春期の子どもの居場所条件として、「ホットして安らげる空間」、「人と人との関係性が開かれていく空間」、「自分探しの学びが生まれる空間」の3つをあげている。このような居場所に関する記述を整理すると、居場所は概ね次の3つの意味で用いられているとまとめることができます。

ありのままの自分が受容される場所

藤竹(2000)のいう「人間的居場所」、佐藤(2004)のいう「ホットして安らげる空間」がこの意味での居場所に相当し、受容、安心、安らぎ、ありのままの自分といった言葉によって表現される場所。例えば、次のような記述が見られます。

  • 「彼らにとって居場所とは、なんの気遣いも、よい子の仮面をかぶる必要もなく、深い安堵感につつまれて「丸ごと自分のままで」存在が許される場所を意味している。」(佐藤, 1998)
  • 「・・・・・・、そこを居場所と呼べるということは、精神的な意味で、気取らずに生の自分を出すことができる、言葉をかえれば、言いたいことが言える場所と言っていいかもしれません。」(渋谷, 1999)
  • 「居場所とは、自分のことを気に掛けていてくれる人がいる場であり、ありのまま素のままの自分が受け入れてもらえる場である。」(野澤, 2005)

「外部の社会からいったん退避する空間」(新谷, 2004)、「一種の撤退場所」(芹沢ほか, 2000)というように、外の世界からは一時的に距離をおくことのできる場所も、この意味での居場所だと言えます。

自分の力を発揮できる役割がある場所

藤竹(2000)のいう「社会的居場所」がこの意味での居場所に相当し、役割、必要とされる、力を発揮するといった言葉によって表現される場所。例えば、次のような記述が見られます。

  • 「〈居場所〉は、主に役割関係・人間関係のなかでの地位に関わっている。特定の役割を安定的に確保できている場合、〈居場所〉は確保されていると言える。」(藤田, 1996)
  • 「自分を必要としてくれている職場や、自分が欠けるとチームの力が十分に発揮されないポジションも、居場所である。」(藤竹, 2000)
  • 「社会的な「居場所」/自分の所属する集団の一員として能力を発揮し、認められている場合。」(富永ほか, 2003)

世界を垣間見ることができる場所

佐藤(2004)のいう「人と人との関係性が開かれていく空間」、「自分探しの学びが生まれる空間」がこの意味での居場所に相当し、学び、出会い、発見といった言葉によって表現される場所。例えば、次のような記述が見られます。

  • 「学びながら働く体験をしたり、働きながら学び直してみながら「学校から社会へ」と渡っていくための中間施設としての居場所が必要になってきている。」(佐藤, 2004)
  • 「居場所とは、常に社会と自分との関係を確認せずにはおれない現代という変動社会における、自分専用のアンテナショップ(新しい商品の売れ行きを確かめるために実験的に新商品を陳列し販売する店舗)のようなものである。」(田中, 2001b)
  • この意味での居場所は、以下のような表現を借りれば、外の世界とは距離をおくことができるが、かといって、外の世界と完全に切り離されていない場所であるということもできる。「若者の居場所となる空間として、・・・・・・、半ば大人の視線から遮られ、半ば他者の視線の中にあるということ、・・・・・・」(水野, 2001)
  • 「・・・・・・、子どもたちの居場所は、いつでも見通せる場所、あるいはいつでも見通されている場所であってはならないということですね。具体的に言えば、「見てほしいときに見てもらえるが、見てもらいたくないときは見ないでいてもらえるような、半透明な場所」が必要です。」(宮台, 1999)
  • 「・・・・・・子どもの参画や子どもの居場所を考えるうえで重要だと思うのは、内部では干渉し過ぎない緩やかな関わり、緩やかだが無視できるほどではないつながりが保障されていて、なおかつ外部とは希望すればつながりを持てるが、隠れていようと思えばそれも保障されているということである。」(筒井, 2004)

ありのままの自分が受容されること、力を発揮できる役割があること、世界を垣間見ることができること。居場所は広がりのある意味をもって使われていることがわかるが、注目すべきは、いずれの場合もまず個人に焦点があてられていることである。しかし、その個人とは決して周囲から孤立した存在ではない。居場所とは個人として、けれども、孤立せずに居られるという他者との関係のあり方の豊かさを表現する言葉になっていることです。

本書で取り上げる「まちの居場所」は、小規模な場所が多く、また、空き店舗や空き家といった既存のストックを使いながら開かれているという意味ではささやかな場所。けれども、実際に足を運んでみると、「こんなところがあるのか」とあっと驚くような光景を目の当たりにします。
近年、居場所をキーワードとする場所が同時多発的に開かれていることは、地域における人々の豊かな関係を新たなかたちで、つまり、従来の制度や施設の枠組みには収まらないかたちで、紡ぎ直そうとする試行錯誤の現れだと捉えることができます。


  • 注1)『広辞苑』第六版(2008年)には、フリースクールについて「①子供の自主性を尊重し、公式カリキュラムにとらわれない教育を行う学校。②不登校などの、通常の学校教育を受けていない児童生徒を受け入れ、教育を行う施設」という説明が記載されている。なお、『広辞苑』第五版(1998年)にはフリースクールの項目は掲載されていない。プレーパーク、宅老所、コミュニティ・カフェの項目は『広辞苑』第六版(2008年)にも掲載されていない。
  • 注2)「子どもの居場所は「親の会」によって生まれたが、「親の会」は常に子どもの居場所をつくったわけではなかった。「親の会」にはもっと緊急な課題があった。それは不登校に対する自分たち親の意識の変革であった」(芹沢, 2003)と指摘されているように、フリースクール・フリースクールは、不登校の子どものためだけの「学校の外」の場所ではなく、彼ら/彼女らの親にとっての「学校の外」の場所という意味もあった。

参考文献

(更新:2016年8月20日)