先日の「居場所ハウス」での意見交換会では、「居場所ハウス」の役割、公民館の役割という話が出されました。
関西で生まれ育った者が大船渡市末崎町に来て教えられたこと/気づかされたことは多いですが、その1つは「公民館」の存在の大きさ。末崎町内にある平、細浦、神坂、門之浜、西館… など各集落(各部落)の拠点となる建物が「公民館」(地域公民館)と呼ばれていること、各集落の長が「公民館長」と呼ばれていること。さらに末崎町の拠点となる建物も「公民館」(地区公民館・ふるさとセンター)であり、町長のような存在の方も「公民館長」と呼ばれていること。
関西の実家の近くにも公民館がありますが、記憶している限りでは公民館に入ったのは手で数えられるくらい。社会教育の場として様々な講座が行われたり、絵画、ダンスなど様々なグループの活動が行われたりしていると思われるので、単に地域活動に参加していないだけかもしれませんが。もしかしたら、山柴公民館にも公民館長という肩書きの方はいらっしゃるのかもしれませんが、名前も存じ上げていないし、お会いしたことはない。日常の中で公民館が話題に上ることもない。
大学の講義でも、公民館は社会教育施設に分類されていると教えられたと思います。だから、末崎町ののように集落の拠点となる機能を有している「公民館」があることは、末崎町に行くまで知りませんでした。
Wikipediaの「公民館」の項目を見ると、「公民館」と呼ばれる施設が登場したのは昭和になってからだとのこと。末崎町に平、細浦、神坂、門之浜、西館… などの名前を持った集落た登場した(末崎町の集落が平、細浦、神坂、門之浜、西館… などの名前で呼ばれるようになった?)当初は、集落の拠点となる建物は「公民館」とは呼ばれていなかったと思われます。それが、いつの頃からか「公民館」の名称で呼ばれるようになったのだと思います。その時に、なぜ「公民館」の名称が採用されたのかという経緯は興味深いところです。
末崎町における公民館は、戦後の流れを汲む社会教育の拠点であることが期待され、かつ、集落や町の拠点であることも期待されるというように、背負っているものが大き過ぎるのかもしれません。
「デジタル公民館まっさき」に参加されている方に聞いた話では、当初、公民館とは建物のない青空公民館として、生活改良のための運動体だったとのこと。以下のように運動体としての、機能としての公民館から、社会教育施設としての公民館へと変わっていったという経緯があるようです。
「当初は、施設を欠き地域組織で活動を展開する、いわゆる「青空公民館」や、学校に併設される公民館も多く、機能としての公民館が目だったが、しだいに施設建設も進み、地域社会教育施設の典型とみなされるようになった。市町村立でなく地域の自治会等で所有する公民館は、法制上の公民館ではなく、自治公民館などとよばれ、公民館類似施設であるが、1959年の社会教育法改正で分館の規定が加わり、公立公民館の一部となる道が開かれた。同時に「公民館の設置及び運営に関する基準」が制定され、公民館は小学校区や中学校区等を勘案して設置されることなどが示された。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)。
(末崎町の公民館のことではありませんが)絵画、ダンスなど様々なグループの活動、言わば、カルチャーセンターのような役割が、公共施設としての現在の公民館に求められているのだろうかという指摘もあると思います。戦後、文化的な活動に触れる機会がなかった時代には公共がカルチャーセンターのような役割を果たすことは重要だった。でも、そうではない。現在に求められている社会教育とは何か? あるいは、「公民」を育てる器としての建物はどうあるべきか? 根本的にはそこに行き着くのかもしれません。
「公民」を育てる器という意味では(そもそも「公民」とは何かは議論があるかと思いますが)、公民館も「居場所ハウス」も目指すところは同じかなという気もします。
(追記)末崎では昭和25年(1950年)6月に、末崎村公民館が設置されています。『末崎の郷土誌』(末崎愛林公益会 2005年)では当時の状況が次のように書かれています。
「公民館の名称及びその設置の趣旨については、昭和二十一年七月五日の文部次官通牒「公民館の設置運営について」によって全国的に一般化されたもので、要約すると次のようになる。
「これからの日本に最も大切なことは、すべての国民が豊かな文化的教養を身につけ、他人に頼らず、自主的に物を考え、平和的、協力的に行動する習性を養うことである。そのためには、教育の普及を何よりも必要とする。(中略)
公民館は、全国の各町村に設置せられ、此処に常時、町村民がうち集まって談論し、読書し、生活上、産業上の指導を受け、お互いの交友を深める場所であり、文化教養の機関である。
それは亦、青年団、婦人会などの町村に於ける文化団体の本部ともなり、各団体が相提携して町村振興の底力を生み出す場所でもある。此の施設は上からの命令で設置されるのでなく、真に町村民の自主的な要望と協力によって設置せられ、又町村自身の創意と財力によって維持せられてゆくことが理想である。」
この通牒の草案を作成したのが、文部省社会教育課長寺中作雄であり、寺中構想とも呼ばれた。今まで抑圧された大政翼賛体制から脱して、何を、どうすればよいか模索する時代にあって、公民館を郷土再建の拠点にするというこの通牒は、全国的に大きな反響を呼んだのである。
文部省は、この次官通牒の趣旨を、「公民館のしおり」として作成し、公民館の設置を一般に呼びかけるために配布した。
岩手県でも社会教育研究大会や社会教育法趣旨徹底郡市別協議会を開催、公民館設置の啓発に努めた。そういう流れの中で、当末崎村でも行政関係者、部落会長や有志などの間で設置についての議論が増していった。」(p474)
*「末崎の郷土誌」刊行委員会編『末崎の郷土誌』末崎愛林公益会 2005年
表現は現在とは違う部分がありますが、当時の公民館に込められた熱い思いが伺えるとともに、「此処に常時、町村民がうち集まって談論し、読書し、生活上、産業上の指導を受け、お互いの交友を深める場所であり、文化教養の機関である」、「青年団、婦人会などの町村に於ける文化団体の本部ともなり、各団体が相提携して町村振興の底力を生み出す場所でもある」の部分は、現在でも求められる場所だと感じます。
『末崎の郷土誌』には、末崎村公民館が設置された直後の様子も、次のように紹介されています。
「事業は、当時盛んであった婦人会活動、青年団活動と一体となって諸活動に取り組んだほか、主事は婦人学級、青年学級の学級主事として計画、実施の中心的役割を担って活動している。
戦後、岩手県ではG・H・Qの援助と指導により「視聴覚教育に関する計画書」を発表し、ナトコ映写機を各地方事務所毎に配置した。当地では盛町にあった気仙地方事務所が所管隣、各町村の計画により「ナトコ巡回映画会」を盛んに開催したのである。
末崎村では公民館が主催し、その運搬から映写観覧者への広報活動等を担った。会場の末崎小学校講堂、末崎中学校体育館は、子どもを含め大勢の観覧者でにぎわった。
また、中学校の一室を借りて図書室を設け、読書の奨励、個人貸出しを行うとともに地域巡回文庫も実施している。このようにして公民館は、昭和二十年代後半、その後の末崎の生涯学習の基盤を着実に創り上げていったのである。」(p412)
*「末崎の郷土誌」刊行委員会編『末崎の郷土誌』末崎愛林公益会 2005年
(更新:2017年10月11日)