『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

非施設としての「まちの居場所」を考えるためのメモ

居場所は、元々は物理的な位置を意味する言葉でしたが、1980年代になると学校に行かない・行けない子どもとの関わりで使われるようになりました。その後、居場所は様々な場面で使われ、居場所をキーワードとする地域の場所が開かれるようになりました。
こうした動きを受け、2010年、『まちの居場所:まちの居場所をみつける/つくる』(東洋書店, 2010年)を刊行しました。「まちの居場所」の特徴の1つは、従来の施設・制度(=Institution)の枠組みでは上手く対応できない課題に対応するために開かれているということです。

「これらの場所〔まちの居場所〕は、従来のまちの施設とは根本的に異なる。まず、設立主体は個人から組織まで多様であるが、共通することは、今すぐまちに必要な場所をつくっているという点である。また、運営が柔軟で、その時の状況によって変化させることが可能なこと。利用者の働きかけを受け入れる懐の深さ。いわゆる公共施設ではないが、公共性が極めて高いこと。運営主体の働きによって、人と人との繋がりが生まれやすいこと、など、従来の施設では、不可能とは言わないが、かなりハードルの高い課題をいとも簡単に乗り越え、現実に機能していることである。」
*大野隆造 西田徹「はじめに−新しい「まちの居場所」をみつける/つくる」・日本建築学会編『まちの居場所:まちの居場所をみつける/つくる』東洋書店 2010年

まちの居場所の制度化

『まちの居場所:まちの居場所をみつける/つくる』の刊行から9年が経過しましたが、今の時点で「まちの居場所」を巡る動きを振り返った時に浮かび上がってくるのは、「まちの居場所」の施設化・制度化という動き。
具体的には宅老所をモデルにして、2006年4月に介護保険法改正により制度化された小規模多機能ホーム、コミュニティ・カフェをモデルにして、2015年に施行された「介護予防・日常生活支援総合事業」(新しい総合事業)でサービスの1つに盛り込まれた「通いの場」の誕生です。

「法制度化される以前、小規模多機能ホームは、「宅老所」という名称で存在していました。
「宅老所」は、大規模老人施設とは違い、介護や支援を必要としている高齢者に既存の民家等でサービスを提供することにより、気の知れた仲間同士と家庭的な雰囲気で過ごすことができるというものでした。大規模老人施設の整備が進む中、一方では、理想的な介護の在り方である、「宅老所」でのケア実践を行う事業所が増えていったのです。
・・・・・・
「宅老所」が実践してきた、住み慣れた地域と小規模ならではの家庭的な雰囲気にこだわったケアは、高齢化が急速に進む日本において認められ、法制度化する運びとなったのです。」
*「全国小規模多機能ホーム情報サイト」ウェブサイトより

「「通いの場」というのは、平成27(2015)年度試行の地域支援事業で実施する一つの類型として厚生労働省が名づけた「居場所・サロン」のことですが、介護予防の効果を意図する事業の性質上、集う人には若干の制約があります。介護予防に役立つ効果がある場に人が繰り返し行ってほしいと願う気持ちが「通い」という表現になったのかと推測されます。」

「全国どの地域においても「居場所・サロン」づくりが求められています。新地域支援事業における「通いの場」はまさに、「居場所・サロン」の仕掛けであり、・・・・・・」
*さわやか福祉財団編『シリーズ 住民主体のサービスマニュアル 第3巻 居場所・サロンづくり』全国社会福祉協議会 2016年

元々、施設・制度の外側の場所として開かれた「まちの居場所」が、施設化・制度化するという動き。
「まちの居場所」は非施設の場所ですが、それをモデルにして施設が生まれていくという動きからは、施設と非施設は二項対立と捉えるべきではなく、施設と非施設とは地続きのものだと捉えるべきなのかもしれません。こう捉えると、非施設が施設化していく契機は何かという問いが生まれてきます。

この動きは施設・施設の改善であり、「まちの居場所」が実現していたものを他の地域にも広く普及させるという意味があり、必ずしも否定するべきことではありません。けれども、施設化・制度化によって、居場所が狙いとしていたものが抜け落ちてしまっているのではないかという疑問があります。これを考えることが、非施設が施設化していく契機を考えることにつながるように感じます。

施設化・制度化から抜け落ちる視点

場所における体験への視点

例えば、コミュニティ・カフェのパイオニア的な場所の1つ、千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」は次のような考えから開かれた場所です。

「ニュータウンの中には、みんなが何となくふらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所はありませんでした。そういう場所が欲しいなと思ってたんですけど、なかなかそういう場所を確保することができなかったんです」。
*「ひがしまち街角広場」初代代表の話

それに対して、「通いの場」は次のようなコンセプトの場所だとされています。

「1.市町村の全域で、高齢者が容易に通える範囲に通いの場を住民主体で展開
2.前期高齢者のみならず、後期高齢者や閉じこもり等何らかの支援を要する者の参加を促す
3.住民自身の積極的な参加と運営による自律的な拡大を目指す
4.後期高齢者・要支援者でも行えるレベルの体操などを実施
5.体操などは週1回以上の実施を原則とする
*『地域づくりによる介護予防を推進するための手引き』三菱総合研究所, 2015年3月」

両者を比較する時、「通いの場」は介護予防という機能に焦点があてられていることがすぐにわかりますが、その反面、そこがどのように居られる場所なのかという体験の質(「何となくふらっと集まって喋れる」、「ゆっくり過ごせる」)が抜け落ちていることに気づきます。もちろん、「まちの居場所」にも介護予防の機能はありますが、それはあくまでも「結果として」もたらされるものという点には注意が必要です。

小規模多機能ホームも、まさに名前の通り機能の多さに焦点があてられています。そうすると、「まちの居場所」を機能に焦点を当てて論じようとする視線が、「まちの居場所」を施設化・制度化するものとして作用するのではないか。もう一度、「まちの居場所」がどのように居られる場所なのかという体験の質に立ち戻る必要があるように思います。

なお、大原一興氏は、「福祉施設の分野では、長い間、機能分化・専門分化の歴史が継続され、現在の複雑で多様な施設の体系が形づくられてきた」とした上で、「「施設のあり方は、もっと自由に、そして機能提供だけではなく、人々の要求を顕在化させるために存在することの意義を再認識すべきである」と指摘しています(*大原一興「福祉施設と制度」・『建築雑誌(特集:住まうことから制度を考える)』2015年8月)。この指摘も、機能提供の観点を重視することが「現在の複雑で多様な施設の体系」を作り上げてきたことを指摘するものだと捉えることができます。

完成品の普及ではない視点

機能への注目に関連して、「まちの居場所」の施設化・制度化に寄与するもう1つの視点は、場所をあらかじめ必要な機能を満たしたものと見なし、その普及とは(必要な機能を満たした)場所のコピーだと見なしてしまうことです。ここからは、「まちの居場所」はどのように時間変化していくのか、「まちの居場所」はどのように地域に影響を与えていくのかという2つの視点が抜け落ちています。

ただし、時間への注目は決して目新しいことではなく、建築計画学において時間に注目することの必要性は、以前から指摘されていることです。

「・・・・・・「環境と共にいる人間」は常に変化を繰り返している。建築の社会的ストックの価値を高めるためにも人間−環境系の知見、とくに時間的移行に関するものが必要とされる。一九六〇年代には、メタポリズム運動、計画研究としては建築の成長・変化に関する研究など、時間の次元からの人間・建築のとらえ直しの動きがあった。しかしこれらは主に、人間・建築を当時の高度成長期を反映しての成長期として把握しようとするものであった。今日のような生活の縮小あるいは高齢社会の到来のことは考慮されていなかったのである。」
*高橋鷹志「人間−環境系研究をめぐって」・日本建築学会編『人間−環境系のデザイン』彰国社 1997年

「さてこの理解にたてば、人間−環境系においては時間の次元が重要であり、系の不断の変化・不確定性を本質とし、いわゆる平衡や予定調和あるいは究極目的等はあり得ないことになろう。」
*舟橋國男「環境デザイン研究と計画理論」・日本建築学会編『人間−環境系のデザイン』彰国社 1997年


以上はやや抽象的な議論になりましたので、実際に「まちの居場所」で実践されていること、生じていることの具体例から考え直してみたいと思います。

場所における体験

「まちの居場所」においては、人々が集まる場所、居合わせる場所をどのように実現するか、どのような体験のできる場所かについて豊かな工夫がされています。

新潟市の地域包括ケア推進モデルハウスとして開かれた「実家の茶の間・紫竹」では、次のように多くの工夫がされています。

  • 部屋に入ってきた人に対して視線が集中しないようにテーブルの配置・座り方を工夫する
  • 訪れた人はそれぞれやりたいことが違うから、画一のプログラムに参加させるのではなく好きなことをして過ごせるよう、オセロ、将棋、書道の道具など何でも揃えておく
  • 固定席を作らないよう、定期的に家具のレイアウトを変える(人が動き始めると家具のレイアウトを変えなくてもよい)
  • 暑い日でも寒い日でも、常に玄関の扉は開けておく
  • 当番は1人きりになっている人がいたら、声をかけたり、話し相手を見つけるように配慮している

東京都江戸川区に開かれた「親と子の談話室・とぽす」を主宰するSさんは、次のような話をされています。

「例えば家族なんてそうでしょ。何かあった時に、「ヘルプ」って言った時にはぱっと飛び出せるっていうか。だけどもいつもいつも「大丈夫、大丈夫、大丈夫?」って聞いてたら、それこそあれよね。お互いにそれぞれが自分のところに座ってて、誰からも見張られ感がなく、ゆっくりしてられるっていう。だけども、「何か困った時があったよね」って言った時には側にいてくれるっていう、そういう空間って必要だなぁと思ってね」

「喫茶店で自分の本開いて読んでる時、「いつまでこの人読んでるの?」なんて思われちゃうと嫌だなって思うじゃない。だけど、ここに本があれば、「ここの本を読んでもいいんだよ」って言えば、自分の本でも読んでいいのかなって思う発想になるじゃない」
*「親と子の談話室・とぽす」のSさんの話

これらの工夫は生活支援、介護予防、コミュニティ再生といった機能の視点からは捉え得ない領域にあるものです。

完成品の普及ではない

完成品の普及ではないことに関して、「まちの居場所」では次の2つの動きを見出すことができます。
1つは、大船渡市の「居場所ハウス」で見られるように、地域の人々自らが徐々に作り上げていく、場所が地域を資源化していくという動き。もう1つは、「ひがしまち街角広場」で見られるように、「①地域の活動を立ちあげる」、「②活動の重なりの拠点となる」、「③「同じような」場所の参考になる」という多様なかたちで地域に影響を与える動きです。

「まちの居場所」という非施設に向き合う研究

「まちの居場所」の施設化・制度化の動きからは、場所における体験への視点、完成品の普及ではない視点が抜け落ちてしまうとすれば、非施設の可能性を考えるための研究(建築学の研究)にはどのような可能性があるのか。あくまでも現時点でのメモですが、いくつかの可能性があるように思います。

居方のボキャブラリーを豊かにする

「居方」とは鈴木毅氏が提案する概念。「居方」とは「「ただ居る」「団欒」などの、何をしていると明確に言いにくい行為」を含めた、「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」(*鈴木毅「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会 2004年)。「居方」の類型として提示されている「居合わせる」、「思い思い」などは場所における体験の質を捉えるために非常に重要な概念です。この居方のボキャブラリーを豊かなものにしていくことは重要な作業です。

「言ってみれば、「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」ということになる。」
*鈴木毅「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会 2004年

この時、そこにいる「あなた」が私にとって親しい人なのか、敵意を抱く人なのか、あるいは見知らぬ第三者かなどによって、私にもたらされる意味は異なる(親しさを感じたり、居心地の悪さを感じたり…)。「あなたと私」の関係の履歴までふまえた意味を、機能に回収されることなく語ることは可能かについても考えるべき課題と感じます。この点については精神科医の斎藤環氏の「「親密さ」のアフォーダンス」の指摘が思い浮かびます。

「ハブ型の近代」における「代理人」を越える

佐藤航陽氏は『未来に先回りする思考法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2015年)において、社会システムは「血縁型の封建社会」、「ハブ型の近代社会」、「分散型の現代社会」と変遷してきたことを指摘。
「まちの居場所」を施設化・制度化する上で研究者は「ハブ型の近代社会」における「代理人」としての立場に立っていると言えますが、「代理人」ではなく価値を語る通訳者/解釈者/理解者としての可能性についても考えるべき課題だと感じます。


(更新:2019年6月5日)