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作法としてのマスク着用と他者に対する信頼の回復:新型コロナウイルス感染症の時代において

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染が拡大するまで、アメリカでは健康な人がマスクをする習慣はなかったと言われています。けれども、新型コロナウイルス感染症により状況は大きく変化しました。

アメリカ東海岸のメリーランド州では、2020年4月15日に買い物の時、および、公共交通機関を利用する時にマスク、フェイスカバーの着用を義務化する知事令が出されました(4月18日7時から発効)。
マスク着用が義務化されたのは買い物の時、公共交通機関を利用する時ですが、2020年5月に入る頃から公園やトレイルでも、マスクを着けて歩く人や、人とすれ違う時だけマスクを着けたりスカーフやタオルなどで口と鼻を覆ったりする人が目立つようになってきました。

ここでは、マスク着用について感じたことを書きたいと思います。


2020年5月10日(日)、ノースウエスト・ブランチ・トレイル(Northwest Branch Trail)に歩きに行きました。ノースウエスト・ブランチ・アナコスティア川(Northwest Branch Anacostia River)に沿って整備されたトレイルです。
この日、散歩のために初めてマスクを持参し、人とすれ違う時にはマスクをするようにしました。

この日は天気が良く、散歩している人、犬の散歩をしている人、ジョギングしている人、サイクリングしている人などが多く、1時間半ほど歩いている間に20組(人)以上とすれ違いました。その大半の人がマスクを着けたまま歩いたり、人とすれ違う時だけマスクをつけたり、スカーフやタオルなどで口と鼻を覆ったりしていました。
トレイルですれ違う時は、互いに道の端を歩いたり、道が広くなっているところで待って相手が通り過ぎるのを待ったりします。中には、すれ違う時に「Hi」、「Hello」と声をかけたり、手をあげて挨拶したりする人もいます。

もし手に新型コロナウイルス感染症のウイルスが付着していれば、その手で、人とすれ違うたびにマスクを着けたり外したりすることになり、これは感染防止の観点からは好ましくないかもしれません。さらに、そもそもマスクによって新型コロナウイルス感染症の感染防止にはならないという意見もあります。

けれども、すれ違う時にマスクを着用することは、感染防止とは別の意義があるのではないかと考えます。それが、他者に対する信頼を回復する作法になること。

新型コロナウイルス感染症は他者から感染するという性質を持つがゆえに、居合わせた他者に対して「ひょっとしたら感染者ではないか?」と疑心暗鬼になってしまう状況が生まれています。社会とは、他者(たとえその他者が見知らぬ他者であったとしても)に対する信頼を基盤として成立するものでるため、新型コロナウイルス感染症はこの社会の基盤を切り崩していく恐れがある。
新型コロナウイルス感染症の感染をどう防止するのか、どう治療するのか、あるいは、停滞した経済をどう立て直すかという文脈ではあまり言及されることはありませんが、これは社会に対する無視できない影響です。

こうした状況に対して、すれ違う時に「Hi」、「Hello」と声をかけあったり、手をあげたり、Vサインしたりという非言語的なメッセージを送りあったりすることは、ささやかな行為ですが、他者に対する信頼の回復につながると考えています。マスク着用もこれらと同じ文脈で捉えてもよいのかもしれません。

マスク着用が義務化されていないにも関わらず、なぜ公園やトレイルで誰かとすれ違う時にマスクを着けたり、スカーフやタオルなどで口と鼻を覆ったりする人が多いのか。まずは自らがウイルスに感染しないためという理由をあげることができますが、それだけでは捉えられない意味がある。
上で書いた通り、すれ違うたびにマスクを着けたり外したりすることにあまり感染防止の効果がないかもしれません。それは、自分自身も気づいている。それにも関わらず、あえてマスクを着けたり外したりするのは、マスクを着けることが相手を安心させるための作法になっているからではないか。

新型コロナウイルス感染症により、自分がいつ感染するかもわからない、そして、もし自分が感染していれば相手を感染させてしまうかもしれないという不安を抱えながら公共の場所に出ざるを得ない状況となっています。
こうした状況においては、マスクを着けることが、すれ違う相手に対して、「私はあなたにウイルスを感染させようとする意思はありません」、「私はマスクを着けているので、あなたが私に感染させるのではないかと心配してもらう必要はありません」というメッセージを伝え合っているように感じます。

今日、散歩の時に初めてマスクを持参し、誰かとすれ違う時だけマスクを着けるのを実践したことで、これまで誰かとすれ違う時に感じていた緊張感が和らぎ、自然に挨拶できるような気がしました。
もちろん、これは実際にウイルスに感染するか否かとは別次元のことですが、お互いがマスクを着用するという作法に則って振舞うことで他者に対する信頼の回復につながるのではないかと感じました。アフターコロナに向け社会を回復させるために一人ひとりができることのヒントは、このようなささやかなところにあるのかもしれません。


以上のようなことを考えていた時、アメリカの社会学者、アーヴィング・ゴッフマン(1922年6月11日〜1982年11月19日)による「個人を対面的かかわりに露出させる」人や状況についての議論を思い浮かべました。
アーヴィング・ゴッフマンは、通常、他人とむやみに接近し、対面的なかかわりをもつことは疑念を引き起こすが、次のように対面的な関わりが生まれたり、関わりやすかったりしやすい人や状況があるとして、次のような例をあげています*1)。

  • 「警官や牧師、時には新聞売り」のような「情報と援助を求めるさまざまな人びとの接近を受ける」人。
  • 「老人とか子供」のような「オープン・パーソン」。
  • 「ある人が明らかに酔っぱらっているとわかる時とか、奇抜な衣装を身につけている時とか、あるいは何か笑いそさそうようなことをしている時」、「つまずいたり、滑ったり、あるいはぎこちない無作法な動きを見せる時」のような「個人が役割を離れている場合」。

「たとえば、街かどでは、警官や牧師、時には新聞売りなどは、情報と援助を求めるさまざまな人びとの接近を受ける。そのひとつの理由は、これらの公僕を悪用する人はまずいないと考えられているからである。警官や牧師については、特に興味深いことがある。つまり、人びとは、情報を求めるためではなく、ただあいさつを交わすために、未知であっても彼らとかかわりをもつことができるのである。
さらに、われわれの社会では、たとえば老人とか子供のように、広い範囲の人びとから接近を受ける立場の人がいる。これらの立場は社会的な価値に乏しく、このような立場にいる人びとは対面的かかわりによって失うものが何もないと考えられているので、他者は意のままに接近できるのである。注意すべきことであるが、これらの人びとは特別のユニフォームを着ていていつかそれを脱ぐということもないし、一日のいつかに非番になるということもない。彼らは、地位の所有者としての部分が露出するのではなく、人そのもの全体が露出する「オープン・パーソン」なのである。
さらに個人を対面的かかわりに露出させるもうひとつの一般的状況が考えられる。すなわち、個人が役割を離れている場合である。・・・・・・。たとえば、ある人が明らかに酔っぱらっているとわかる時とか、奇抜な衣装を身につけている時とか、あるいは何か笑いそさそうようなことをしている時には、誰もがほとんど自由にその人に近づき、冗談をいうことができる。たぶん、その理由は、このような行動を通して投影されるその人の姿は、いつでも簡単に抜け出すことのできる仮のものであり、他人が嫉妬したり、気を使わなければならない必要はどこにもないと感じられるからであろう。同じように、ある人の身体的位置が一時的に変わる時、たとえばつまずいたり、滑ったり、あるいはぎこちない無作法な動きを見せる時には、他人の気軽なコメントを許すであろう。」
※アーヴィング・ゴッフマン(丸木恵祐 本名信行訳)(1980)『集まりの構造』誠信書房

人とすれ違う時にマスクを着けることも、「個人を対面的かかわりに露出させる」状況を生み出しているのではないか。
通常、マスクによって顔の一部を隠すことは対面的かかわりを拒否するメッセージとなり、相手に警戒心を生み出します。
けれども、新型コロナウイルス感染症の時代において、これは相手に安心感を与えるメッセージになる。つまり、マスクを着けるという顔の一部を隠す振る舞いが、逆説的に、相手との対面的かかわりにオープンな状況を生み出しているということになります。ここでいう対面的なかかわりとは、会話をしたり、ハグや握手をしたりすることではなく、すれ違いざまに言語、あるいは、非言語的なメッセージによって挨拶をする程度のささやかなものが、そうであっても他者に対する信頼を回復するのにつながるのではないかという可能性を考えてみたくなります。


参考

  • 1)アーヴィング・ゴッフマン(丸木恵祐 本名信行訳)(1980)『集まりの構造』誠信書房