少し前、居場所(まちの居場所)を開きたいという方々に、居場所の運営について話をする機会がありました。
話が終わった後、ディスカッションを行いましたが、その時は十分に整理して話すことができなかった点もあり、改めて居場所について考えていました。特に次のような質問が記憶に残っています。
孤立せず居られること
Q:「個人として、孤立せずに居られる」という表現を使われていたが、そのような場所はどうすれば実現できるか?
この質問に対しては、新潟市の最初の地域包括ケア推進モデルハウスとして開かれた「実家の茶の間・紫竹」のことを思い浮かべます。「個人として、孤立せずに居られる」という表現は、「実家の茶の間・紫竹」を実際に訪れて感じたことです。
「実家の茶の間・紫竹」では誰もが孤立しない場所、入りやすい場所を実現されていますが、「実家の茶の間・紫竹」で伺ったことを改めて振り返ると、孤立している人や入りにくそうにしている人に直接対応するだけでなく、場所に居合わせている人々が全体として孤立しない、入りやすい状況を生み出そうとしていることに気づかされます。
どのような時に孤立していると感じるかと考えると、周りに居合わせた人々がそれぞれグループで固まってしまい、自分はそのグループに入れない時ではないか。だとすれば、無理にグループに入らせようとするのではなく、そもそも周りに居合わせた人々がグループで固まらないようにすればいい。
「実家の茶の間・紫竹」では「会議風のロの字はさけて、5~6人単位で座れる様に散らばる配慮をする」こと、固定席にならないよう「テーブルの配置を常に変える」ことが配慮されています(河田珪子, 2016)。「こっち、こっち」と手招きして仲間同士で固まったり、仲間同士が電話で待ち合わせをして集まるのを禁止すること、訪れた人はそれぞれやりたいことが違うから、画一のプログラムに参加させるのではなく好きなことをして過ごせるよう、オセロ、将棋、書道の道具など何でも揃えておくこと。これらは、人々がグループにならないようにするための配慮です。
「実家の茶の間・紫竹」では約束事がいくつか掲示されていますが、その1つが「その場にいない人の話をしない(ほめる事も含めて)」というもの。これには、「その場にいない人」が誰のことであるかわからない人を、会話のグループから排除しないためという側面があります。
入りやすさ
Q:気軽に入りやすい場所はどうすれば実現できるか?
入りやすさについても、同じように考えることができます。入りにくそうにしている人がいた場合、その人を無理に入らせようとするのではなく、居合わせた人々が入りやすい状況を作っていればいい。
「実家の茶の間・紫竹」では、茶の間の扉を開ける時が最も大きなハードルになると考えられ、扉を開けた時にみなの視線が集中しないようにすることも配慮されています。代表の方は次のように話されています。
「笑い声とか話し声とか、外に漏れ漏れですね。楽しげですね。そのとき、戸を開けた時、みんなが『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする。だから、来てくださった方にどこに座ってもらうかまで考えてる。初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです」
「『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする」。これが、ある場所が入りやすいかどうかに大きく影響してきます。
重要なのは、居合わせた人々が実際に「あの人何しに来たの?」という視線を向けたかどうかだけでなく、訪れた人が(実際にはそうでなくても)「あの人何しに来たの?」という視線を向けられたと「感じてしまう」ことでも、入りにくくなってしまうということ。
ここで意味を持ってくるのが、その場所に訪れたり、過ごしたりするための誰にとっても明白な名分があることだと考えています*1)。精神科医の斎藤環氏の表現を借りれば「言い訳」があることとも言えます。誰にとっても明白な名分や「言い訳」とは、「あの人何しに来たの?」という視線を向けたり、向けられたと「感じたり」することを減少させる役割がある。
それでは、居場所にはどのような名分があるか。居場所はカフェ、食堂などお店というかたちで運営されている場所が多いですが、お店であれば「コーヒーを飲みに来た」、「食事に来た」、「○○を買いに来た」ことも名分になる。何らかのプログラムを行うことも、名分を作っていると考えることもできます。そして、初めはこのような名分が必要でも、定期的に訪れるようになれば「今日もまた来たんだね」と認識されるため、「あの人何しに来たの?」と問われることがなくなっていく。
名分という観点に注目すれば、入りやすい場所とは居合わせた人々が「あの人何しに来たの?」という視線を向けないし、訪れた人が「あの人何しに来たの?」という視線を向けられたと「感じてしまう」こともない場所だと言えます。そして、居合わせた人々の姿を見てもらうことで「色んな人がいていいんだっていうメッセージ」を伝えようとしている「実家の茶の間・紫竹」は、明確な名分など忘れてしまうぐらいに、誰もがそこに居られることが当たり前である状が生み出そうとされているということです。
孤立するかどうか、入りやすいかどうかをその個人の中に原因を求めようとするのではなく、居合わせた人々の関係性として扱うこと。居場所ではこのような配慮がなされています。
訪れる目的
Q:「目的がなくてもふらっと立ち寄れる場所」と言っても、訪れる人は何らかの目的を持って訪れるのではないか?
この質問に対しては、千里ニュータウン新千里東町の「ひがしまち街角広場」のことを思い浮かべます。
「ひがしまち街角広場」が運営している近隣センターには様々な店舗や集会所がある。しかし、店舗は買い物をしに行く場所。集会所は目的がある時だけ利用する場所であり、日常的には鍵がかかっている。こうした地域において、「目的がなくてもふらっと立ち寄れる場所」として開かれたのが「ひがしまち街角広場」です。
ただし、「ひがしまち街角広場」が「目的がなくてもふらっと立ち寄れる場所」だとしても、訪れる人が必ずしも目的を持たずに訪れているとは言い切れません。これは、質問の通りです。
例えば、集合住宅では家に友人を呼べないので、「ひがしまち街角広場」で友人と会うという人がいます。テニスが終わった後、休憩としてコーヒーを飲んで帰る男性もいます。学校帰りに水を飲みに立ち寄る子どももいます。このような方々は、友人と会う、休憩する、水を飲むという目的を持って「ひがしまち街角広場」に来ている。このように考えると、「目的がなくてもふらっと立ち寄れる場所」であるというのは、「ひがしまち街角広場」の運営側がある特定の目的を掲げるのではなく、人々の多様な目的を許容していると言うことができます。
運営側がその場所の目的を明確に定めれば定めるほど(これを突き詰めた場所が施設と言えるかもしれません)、それに合う目的をもった人々だけが訪れるようになり、人々の関わりは参加というかたちをとる。これに対して居場所では、ある目的を掲げたプログラムが行われる時間帯があっても、プログラムだけが行われているわけでなく、それぞれの目的が許容されるため、人々の関わりは必ずしも参加というかたちをとらないということになります。
お金のやり取り
Q:金銭のやり取りが発生すると人間関係がサービスする側/される側に固定化されるのではないか。
この質問に対しては上手く答えることができませんでしたが、例えば、「ひがしまち街角広場」は無償ボランティアの当番によって運営されています。訪れた人は100円の「お気持ち料」を支払ってコーヒーを注文し、当番がコーヒーをいれる。この時点で、既に関係が固定化されていると捉えることができるかもしれません。
しかし、実際に「ひがしまち街角広場」を訪れると、来訪者と当番が一緒のテーブルに座ったり、当番が片付けを手伝ったりする光景が見られます。これは、通常のカフェにおける店員と来客との関係とは少し違う。
「ひがしまち街角広場」ではこのような関係が生じている背景には、当番も来訪者も同じ地域の住民だからという理由をあげることができると考えています。つまり、「ひがしまち街角広場」では確かに当番と来訪者であり、そこには100円の「お気持ち料」というお金のやり取りがあるが、それは地域での暮らしの一場面。お金のやり取りが発生するのは地域における両者の関係の一部であるから、関係の固定化にはならないのではないか。
さらに、当番は無償ボランティアであり、100円の「お気持ち料」が当番の収入になるわけではありません。現在、100円の「お気持ち料」はコーヒーを運んできた当番に直接渡すかたちになっていますが、オープン当初はテーブルの上に置かれた貯金箱に各自で入れるかたちでした。金額自体も、オープン当初は「お気持ち料」はいくらでもよいとされていたのが、次第に100円に定着した経緯があります。つまり、100円の「お気持ち料」とは、「ひがしまち街角広場」という場所を成立させたいという自らの気持ちを表現する手段だということです*2)。
こう考えると、当番として運営に直接的に携わる人も、来訪者として100円の「お気持ち料」を支払う人も、「ひがしまち街角広場」を成立させる存在として同じ立場ということになります。だから、両者の間にはサービスする側/される側という関係が固定されるわけではない。ここでやり取りされている「お気持ち料」とは、サービスを購入するための代金ではないということになります。
「ひがしまち街角広場」の初代代表の方の次のような言葉は、このような観点から捉えることができると考えています。
「いくらかでもお金をもらってるとなったら、・・・・・・、お金を出した方ともらってる方になりますよね。それよりも、みんなどっちもボランティア。来る方もボランティア、お手伝いしてる方もボランティアっていう感じで、いつでもお互いは何の上下の差もなく、フラットな関係でいられるっていうのがあそこは一番いい。」
お金のやり取りが発生しているが、それはサービスを購入する代金がやり取りされているわけではない。「お気持ち料」を出すことは来訪者が場所に貢献する手段であり、場所に貢献している店で当番も来訪者も同じ立場だということです。
逆に考えれば、もし全てが無料で提供されていれば、お世話をしてくれる当番に遠慮してしまい、かえってサービスする側/される側という固定した関係が生まれてしまう可能性があるのではないかと考えることができます。「実家の茶の間・紫竹」の代表の方は次のように話されています。
「今日だって油揚げは何枚食べたいか、お麩を何個欲しいかなんて本人が決めることでしょ。それを良かれと思って取ってあげると、『自分は手助け受けてるから、言っちゃいけない』につながっていくんですね。それがだんだん『されるままに大人しくなってれば、あそこに居られる』に変わっていって、『あれがいくつ欲しい、これはいらない』っていう意思表示ができない場を作っていくと、一人ひとりの表情がどんどん受け身の表情に変わってくるんですね」
これはお金を介在させることについての言葉ではありませんが、「自分は手助け受けてるから、言っちゃいけない」という遠慮が、人を「受け身」にさせることがあり得る。お金を介在させることは、自分も場所に貢献していることを表現する手段となり、こうした遠慮の気持ちを抱かなくてすむようになるのかもしれません。
お金を介在させることを、サービスを購入する代金のやり取りとするのではなく、人々の場所に対する関わりの気持ちを表現する手段と捉えること。居場所におけるお金のやり取りを考える上では、これを考えることも大切だと考えています。
注
- 1)人々の相互行為に注目する社会学者のアーヴィング・ゴッフマン(1980)は「『無目的』でいたり、何もすることがないという状態を規制するルールがある」ために、「仕事中に『休憩』したい人は、喫煙が認められているところへ行って、そこで目だつように煙草を吸う」、「魚などはいないから自分の瞑想が妨げられるおそれのない河岸で『魚釣り』をする、浜辺で『皮膚を焼いたり』するのは、瞑想や睡眠を隠すための行為」になるというように、「誰の目にも明らかな行為をすることで自分の存在を粉飾する行為」が行われると指摘している。誰の目にも明らかな名分がないと、特定の目的を持たずに過ごすことは周囲の人の目に不自然に映るのである。
- *2)この意味で、「お気持ち料」が100円に定着したり、コーヒーを運んできた当番に直接渡すかたちになったことは、通常のカフェに近づいていると考えることができる。
参考文献
- 河田珪子(2016)『河田方式「地域の茶の間」ガイドブック』博進堂
- E.ゴッフマン(丸木恵祐 本名信行訳)(1980)『集まりの構造:新しい日常行動論を求めて 』誠信書房