『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

地域に対して外部から関わる/専門家として関わる

東日本大震災からもうすぐ8年目を迎えます。震災の後、大船渡に限らず東北には多くの人が入ってきて、多くの活動が立ち上げられました。
立ち上げられた多くの活動の中には、既に役割を終えた活動、今でも外部から来た人の手によって継続されている活動、外部の人から地域の人へとバトンタッチされた活動、あるいは、外部の人の助けを受けながら地域の人が立ち上げた活動など様々。

こうして立ち上げられた活動が、これからも継続されるか否かは、地域でその活動が切実なものとして必要とされるか否かにかかってくる。活動を継続するためには資金、人、活動する場所が必要だと言われることがあり、確かにこれらは必要ですが、地域で切実なものとして必要とされているならば、どのようなかたちであれその活動は継続されていくと思います。

震災の後、東北に来た人々の地域への関わり方は多様ですので、殊更、外部の人と地域の人を区別する必要はないのかもしれません。けれども、(東北だけに限らず他の地域のことにも通じると思いますが)外部の者は地域においてどのような役割を担ってきたのか、担い得るのかを考えることがあります。
自身がこれまでに関わってきた活動のことや、東北や海外で仕事・活動をされてきた方と話をしたことなどを思い返すと、外部の人が担い得る役割には次の2つがありそうだと考えています。

○新たなことを生み出すきっかけを作る
何人かの方から話を伺った話で共通しているのは、外部の者は地域のしがらみに縛られていないから、色々な人と関わりを持てるという話。地域にはある団体に所属しているか否かといったことや、○○さんと○○さんは仲が悪いということまで様々な人間関係が築かれている。外部の者はそうしたことから自由であるが故に、既存の人間関係を越えたものを生み出すことができる。
人間関係だけでなくもう少し一般的に言えば、地域の人にとっては当たり前のことでも、外部の者にとっては当たり前ではないことはたくさんある。地域の人にとっては当たり前のことを越えることで、新たなことを生み出すきっかけを作れるというのが、外部の者が担い得る1つの役割だと言えそうです。

○価値を(再)発見する
震災後の大きな変化は、東北についての情報の量が増大したことをあげることができると思います。自身の住む地域で日々繰り返される日常のことを、あえて取り出し、情報として発信することはかなりの意識を必要とする作業です。目の前のことに追われていると、自身の活動のことを客観的に捉えるのは難しいかもしれません。これは東北に限らず、今朝、家を出て仕事場・学校に辿り着くまでに経験したことを記録して、情報発信することは難しいですし、そもそも、その体験に情報発信するほどの価値を認めないという考えもあると思います。けれども、外部の人にとってはそうではない。自身が関わっている活動のこと、訪れた場所のこと、あるいは、取材・調査したことなど多様なかたちでの情報が、外部の人によって発信されてきた、というのが震災後の東北。
地域の人が日々の暮らしの中にあって当たり前のものとして見過ごしていることに目をとめること、記録すること、そして、情報を発信していくこと。それを通して当たり前のものとして見過ごされていたものの価値を(再)発見していくことも、外部の者が担い得る役割だと言えそうです。

このように考えてみると、新たなことを生み出すきっかけを作る、価値を(再)発見するというのは、地域にとっての当たり前から自由であるが故に担える役割だということです。

もちろん、地域における暮らしにおいて、中心になるのは地域の人。地域での活動において、主体となるのも地域の人。
表現が適切ではないかもしれませんが、地域に対する外部の人の役割としての新たなものを生み出すきっかけ作りとは、平坦な時間に何らかの特異点を作ったり、時間の圧縮という先取りをしたりすること。記録、情報発信による価値の(再)発見とは、平坦な時間(の一部)にある密度の塊を作った理、後追いしたりすること。特異点を作る、先取りする、ある密度の塊を作る、後追いするという時間に厚みを与えることによって、地域に豊かさをもたらすことが、外部の人の役割になっていればと思います。

東日本大震災から時間が経過するにつれて、外部の人の存在感は少しずつなくなっていくと思います。ただし、外部の人との関わりが終わるわけではありません。外部の人との間で築かれた関係は、遠くから応援してくれる人、気にかけてくれる人がたくさんできたという意味で地域にとって大きな財産だと思います。その財産をこれからも継承していくためには、地域の人と外部の人とが支援する/支援されるという一方通行でない関係を、お互いにどうやって作っていけるかにかかってくると思います。

この文章を書きながら考えたもう1つのことは、外部の人とはどのような存在なのかということ。ここでは東北以外から、東北に関わったという空間的な距離を考えてきましたが、(空間的な距離に関わらず)外部として振る舞えるという存在もあり得る。ある技術や知識という視点に立脚しながら、そのように振る舞える人のことを、地域に関わる専門家と呼んでもいいのかもしれません。