『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ケントランズとレイクランズ:ニューアーバニズムの思想により計画された街①

メリーランド州モンゴメリー郡のゲイザースバーグ(Gaithersburg)にあるケントランズ(Kentlands、ケントランドと表記されることもある)は、ニューアーバニズムの思想によって計画された計画住宅地。1989年から建設が始まり、1991年から入居が始まりました。
ケントランズの開発後、隣接した土地に姉妹コミュニティのレイクランズ(Lakelands)が開発されています。

現在、ケントランズとレイクランズにはあわせて8,000人以上の住民が住んでおり、「ニューアーバニストによるプロジェクトの中で最も大きく、最も成功していると言っても過言ではない」と評価されています*1)。

2020年6月16日(火)、ケントランズとレイクランズを訪問する機会がありました。まち開きから約30年が経過した計画住宅地の姿をご紹介したいと思います(ケントランズ、レイクランズの光景はこちらの記事をご覧ください)。

ケントランズ開発前

ケントランズが建設された土地は、1723年にジョセフ・ウエスト(Joseph West)に与えられた土地だとされています*2)。この後、次のように所有者が変わっていきます。

18世紀半ば、裕福な農場経営者のヘンリー・クラゲット(Henry Clagett)が大部分の土地を購入。
1852年には、ワシントンで著名な医薬品卸売業を営んでいたフレデリック・A・ツィフェリー(Frederick A. Tschiffely)が200エーカー以上の土地を購入。1900年、息子のフレデリック・A・ツィフェリー(父親と同名)がレンガ造りの邸宅(mansion)、納屋(barn)、門番小屋(gatehouse)、監視小屋(overseer’s house)、温室(greenhouse)、鶏小屋(chicken coop)を建設し、この土地に「レンガ」(The Bricks)というニックネームを与えました。また、農場で栽培されていた小麦(wheat)にちなみ、この土地をウィートランズ(Wheatlands)と命名しました。

ツィフェリー(Tschiffely)の名前は、ケントランズの住宅地エリアを走るメインの通りの名前に採用されています。邸宅、納屋などはアートやイベントの場所としてリノベーションされ今も利用されています。

(ツィフェリー・スクエア・ロード)

(正面がGaithersburg Arts Barnにリノベーションされた納屋)

1942年、裕福な弁護士のオーティス・ボール・ケント(Otis Beall Kent)が600エーカーの土地を購入し、この地をケントランズと改名。オーティス・ボール・ケントは熱心な自然保護主義者で、ケントランズを自然の生息地でありモデル農場でもある土地にすることを構想しました。
オーティス・ボール・ケントは隣接する土地を購入して農場を拡大し、また、芸術や音楽のコレクションを収めるために邸宅を拡張、さらに、農場のマネージャーや従業員、農機具や車を収容するためレンガ造の建物を新たに建てたり、建て直したりしたということです。

1944年、オーティス・ボール・ケントは邸宅の三方を囲む湖の建設に着手。湖は灌漑、治水、そして、鳥や魚、野生動物の生息地としての役割を果たしています。

建設された湖は、ケントランズ開発に取り込まれ、湖の周囲はトレイルとして整備されています。

(人造湖と周りのトレイル)

1960年代、オーティス・ボール・ケントは自身の死を迎えるための準備として、建築に着手していなかった土地を野生動物の保護区として残すことを条件に、土地の一部をイザーク・ウォルトン・リーグ(Izaak Walton League)とナショナルジオグラフィック協会(National Geographic Society)に譲渡。また、ユニークで美しい自然地区(uniquely beautiful, natural neighborhood)の計画を立て、それをレイクランズ(Lakelands)と命名しました。

レイクランズの名前は、ケントランズに隣接して開発された計画住宅地の名前として採用されています。

ケントランズ開発

1988年、地元の著名なディベロッパーであったジョセフ・アルファンドレ(Joseph Alfandre)が、オーティス・ボール・ケントの娘、ヘレン・デンジャー・ケント(Helene Danger Kent)から土地を購入しました*3)。
ジョセフ・アルファンドレは、単なる住宅開発ではなく伝統的近隣住区(traditional neighborhood)の計画の原則に基づいた完全な街を作りたいというビジョンを持っており、都市計画理論で注目を集めていた都市計画家のアンドレス・ドゥアニー(Andres Duany)とエリザベス・プラター=ザイベック(Elizabeth Plater-Zyberk)夫妻を招聘。ゲイザースバーグ市の協力を得ながら、352エーカーの土地の開発計画が進められていきました。

ケントランズ開発の特徴の1つとして、公有地と私有地の連結があげられています。

「アルファンドレ氏の提案により、歴史的なツィフェリー=ケント(Tschiffely-Ken)の建物が市に譲渡され、湖、緑地、採石場は市の公園システムの一部になりました。この公有地と私有地の連結(interlocking of public and private lands)により、ケントランズは常に市民の関心を集め、新しいコミュニティをゲイザースバーグ市に結びつけることになりました。先見の明のあるジョセフ・アルファンドレは、この特別なコミュニティは、当初からマスタープランに組み込まれた組織で、ケントランズ市民が自らの生活、家族の生活、そして、コミュニティ全体の生活を豊かなものにするためのコミュニティにおける主要な装置となる、最初は「ケントランズ財団」(Kentlands Foundation)と呼ばれていた組織によって導かれるという明確な考えを持っていました。この組織は後に、ケントランズ・コミュニティ財団(Kentlands Community Foundation)と呼ばれました。」
※Kentlands Community Foundation「OUR HISTORY」のページの翻訳

1998年6月、アルファンドレ開発会社、ドゥアニー・プラター=ザイベック(DPZ)のデザインチーム、ゲイザースバーグ市の職員とプランナー、住民、郡のステークホルダーが参加する5日間のシャレットワークショップ(charrette)が開催され、マスタープランが作りあげられました。

「ケントランズのデザインは、計画によってコミュニティが育まれ、強化される豊かな環境をどのように作りあげるかという問題に取り組みました。中心となる原則は、コミュニティは歩行者を中心とするもの(pedestrian-oriented)であり、日常生活に必要なものがミックスしていることです。住宅、店舗、ビジネス、オフィス、学校、礼拝所、レストラン、レクリエーションが近くに配置され、歩道(sidewalk)や歩行者用道路(path)を通って歩いてアクセスできるようになっています。同様に重要なのは、居住者と手頃な価格の住宅のミックスによる多様性です。アパート、コテージ、タウンハウス、戸建住宅(一部はガレージアパートメント付き)、住居・仕事場兼用の住戸(live-work units)など、単身者、若い家族、高齢者向けの住宅が建設されました。」
※Kentlands Community Foundation「OUR HISTORY」のページの翻訳

このような考え方は、ニューアーバニズムと呼ばれています。

伝統的近隣住区(traditional neighborhood)をデザインする際の核になるコンセプトのほとんどは、従来の計画では禁止されていたとのこと。そこで、MXDゾーンと呼ばれるゾーニングのコンセプトが市によって作られました。MXDゾーンは、商業用途と住宅用途のミックスを許可するもので、シャレットワークショップで開発されたデザインコードによって管理されるというものでした。

ケントランズまち開き後

ケントランズは1989年から建設が始まり、1990年半ばに最初のモデルハウスがオープン、そして、1991年に最初の住民が入居しました*4)。

(ケントランズの街並み)

当初、ケントランズは典型的な分譲地に比べて住宅価格が高かったということですが、1990代初頭の不況で住宅の販売が減少。また、徒歩圏内に高級ショッピングモールを建設するというアルファンドレのアイディアは頓挫。アルファンドレは資金繰りに窮し、1991年、ケントランズの経営権をチェビー・チェイス銀行(Chevy Chase Bank)の系列会社であるグレートセネカ開発公社(Great Seneca Development Corporation)に譲渡せざるを得ない状況になったということです。
これ以降、ホームセンターのローズ・ホーム・インプルーヴメント(Lowe’s Home Improvement)、スーパーマーケットのジャイアント・フード(Giant Food)という郊外型のショッピングセンターがオープンするなど、ケントランズの特徴の一部が損なわれることになりました*5)。

数年後、ケントランズに隣接するナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)の土地の一部が、伝統的近隣住区(traditional neighborhood)であるレイクランズの開発のために購入され、DPZがマスタープランを開発。この時に開かれたシャレットワークショップには、ケントランズの多くの住民が参加したということです。

(レイクランズの街並み)

商業エリアであるケントランズ・マーケット・スクエア(Kentlands Market Square)は2010年代の終わり近くから、大規模な再開発が始まっています*6)。2019年には映画館(Cinépolis Luxury Cinemas)が再オープンし、新たな店舗がオープンしています。

(ケントランズ・マーケット・スクエア)

作家・都市計画家・不動産業者のダン・リード(Dan Reed)はケントランズについて、当初は失敗だと評価されていたが、街開きから30年が経過し、の計画手法には先見の明があったと見直されるようになっていると指摘しています。

「しかし、ケントランズは、少なくとも最初は失敗に終わりました。批評家はこの街がプレハブ過ぎることに気づき、当時郊外に住んでいた多くの人々は、実際に年に住んでいるように感じたいとは思っていませんでした。しかし、ケントランズが30周年を迎え、その革新的なデザインは非常に先見の明があるように感じられます。」

「ある意味、他の郊外の近隣住区とあまり変わらないように感じます。車は好まれた移動手段のままであり、住宅費が高いため、特にゲイザースバーグのように多様性に富んだ街においては、非常に同質に見える場所が生まれています。90年代に多くに批評家が指摘したように、本物の生活空間というより映画のセットのように感じることもあります。
しかし、ケントランズはまだ少しラディカルな感じもします。密度がコミュニティ構築に寄与するという考え方は重要であり、〔TV番組の〕「ビーバーちゃん」(Leave It to Beaver)のようなライフスタイルを求める郊外居住者(suburbanites)はまだ多くいますが、ケントランズの「街を作ろう!」(let’s-make-a-town!)というコンセプトを好む人も多くいます。ニューアーバニズムはもはや新しくはありませんが、意外なことに、この地域の建築の奇抜さ(oddity)は、年月を経るにつれてますます活気あるものになっています。」
※Dan Reed「This Innovative Suburb Once Seemed Like a Failure: Why Kentlands has now become surprisingly influential」・『Washingtonian』(April, 2018)の翻訳。


■注

(更新:2022年10月12日)