『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

トラム(路面電車)を待ちたたずむ人々(アフターコロナにおいて場所を考える-40)

新しい街を訪れた時の楽しみの1つは公園、広場、市場(マーケット)、鉄道駅、街路などのパブリックな場所を訪れて、スナップ写真を撮影すること。わずかな滞在だけでその街を語ることは到底不可能ですが、これらのパブリックな場所にはその街の魅力が現れていると感じます。
そのようなパブリックな場所の1つに、トラム(路面電車)の停車場があります。これまで撮影した写真を見直していると、特にヨーロッパの街では、停車場でトラムを待つ人々の写真を何枚も撮影していたことに気づきました。

トラムの停車場

トラムの停車場の特徴として、次の点があります。

1点目は、停車場でトラムを待つ人々の属性が多様であること。トラムは誰にでも開かれた交通機関だからであり、中には観光客と思われる人々もいます。
2点目は、多様な属性の人々がトラムを待つという状態が発生しており、人々がどこか遠くを眺めて立っている後ろ姿を見かけることは、他の場所ではあまり見かけません。
3点目は、トラムの停車場が周りの街と連続していること。トラムの停車場は、屋根のある待合室、柵などが設置されている場合もありますが、大規模な構造ではありません。トラムを待つ部分は、周りの土地と段差がないことも多い。広場にもうけられたトラムの停車場もあり、そのようなトラムの停車場では、広場を取り囲む建物を背景としてトラムを待つ人々が浮かび上がってくるように見えます。これは停車場でトラムを待つ人々の居る光景が魅力的に見える大きな理由です。近年、鉄道会社が「駅ナカ」として駅構内に商業スペースを充実させる動きがありますが、トラムの停車場の魅力は「駅ナカ」ではないところにあると言えそうです。

(ドイツ・ライプチヒ)

(ドイツ・ライプチヒ)

(スイス・ジュネーヴ)

(スイス・バーゼル)

「たたずむ」という居方

停車場でトラムを待つ人々が居る光景は、建築学者の鈴木毅が提示する居方(いかた)の1つである「たたずむ」として説明することができます。
居方とは「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」で、親密さと対人距離の関係を扱う(けれども背景となる風景は扱われない)エドワード・ホールのプロクセミクスと*1)、「無人の風景」を扱う景観とのちょうど中間にあって、プロクセミクスと景観からは抜け落ちている「人が居る風景を扱う領域」を扱う方法論で、「『ただ居る』『団欒』などの、何をしていると明確に言いにくい行為」をも扱うものだという特徴があります(鈴木毅, 2004)。

「たたずむ」
「辞書には何もしないで立っている状況とあるが、それだけではなく、何もせずに遠くをボーっと見ている人の全身が周囲から見えている時に、はじめてたたずむといいやすいように思う。つまり『たたずむ』とは、動詞でありながら、観察者との関係で初めて定義される状態なのである。」(鈴木毅, 2004)

鈴木毅は「たたずむ」を構成する条件として、「基本的に個人的な行為である」こと、「眺めているものは中遠景であること」、「その人の全身の姿『(まさに)たたずまい』が周囲から見えている状態であること」の3つをあげ、「たたずむための仕掛け」として「都市を眺められる場所、待つことを発生させる仕掛け」の2つが重要だと指摘。後者の「待つことを発生させる仕掛け」の例として、師岡宏次と木村伊兵衛の写真の例をあげて、「都電(路面電車)の停車場・安全地帯」をあげています(鈴木毅, 1995)。

「そういう点で非常に惜しまれるのは都電(路面電車)の停車場・安全地帯である。・・・・・・。
こういう構図の写真は道の中央に立たなければ撮ることができない。もちろん歩行者天国というものもあるが、何のきっかけもないところに、なかなかたたずめるものではない。街を背景に堂々とたたずむことができるのは、都電の停車場ならではこと【ママ】なのだ(こういう写真をみると、車が奪ったのは安全な歩行だけではないことがよくわかる。道の中央という場所は、歩道ではけっして代替・補完できない価値を持っている)。」(鈴木毅, 1995)

鈴木毅(1995)は「たたずむ」を構成する条件の1つとして「眺めているものは中遠景であること」をあげていました。しかし、近年ではスマートフォンの画面を見ながらトラムを待っている人が多くなりました。そのような人々は「たたずむ」ではなく、スマートフォンの画面を見ている(スマートフォンを操作している)という明確な行為を行なっているように見える。しかし、トラムが近づいた時などには、人々がスマートフォンの画面から眼を離す光景が見られます。
現在はこのような状況ですが、スマートグラスなどの新たなデバイスの登場によって、人々がスマートフォンの画面から解放される時には、再び、トラムを人々が「たたずむ」ように見えるのかもしれません*2)。

トラムを待ち「たたずむ」人々を撮影すること

鈴木毅が「自分自身について『たたずんでいる』と言うことは少なく、たたずんでいる人を別の人が描写する時に使うことが多い言葉のように思う」(鈴木毅, 1995)、「たたずむ」は「観察者との関係で初めて定義される状態」(鈴木毅, 2004)と指摘しているように、「たたずむ」とは観察者(撮影者)がそこに居合わせているから成立している状況だと言えます*3)。そして、先にあげたトラムの停車場の3つの特徴は、観察者(撮影者)にも関わってくることです。

1点目については、停車場でトラムを待つ人々の属性は多様であるからこそ、撮影者である自分自身も不自然と思われることなく、停車場に居合わせることができること。当然過ぎることかもしれませんが、そもそも撮影者が自然なかたちで居合わせることができなければ、人々が「たたずむ」のを撮影することは不可能です。
2点目については、人々がトラムを待つという状態が発生しているからこそ、撮影者も通り過ぎずに、そこに滞在することができること。
3点目については、トラムの停車場が周りの街と連続しているからこそ、たとえ撮影者である自分自身がトラムに乗車しない場合でも、トラムの停車場に近づくことができること。さらに、広場を取り囲む建物を背景としてトラムを待つ人々が浮かび上がってくるように見えるというのは、(トラムに乗車する人々ではなく)その人々を観察している者にとっての魅力であるのは言うまでもありません。つまり、観察者はトラムを待つ人々と、その周りの街並みとをセットで見ているのであり、まさに、エドワード・ホールのプロクセミクスと「無人の風景」を扱う景観とのちょうど中間にある「人が居る風景を扱う領域」(鈴木毅, 2004)の魅力ということになります。


交通機関とは、人々が移動するためのもの。けれども、交通機関であるトラムは、停車場において人々が「たたずむ」という移動しないという居方を作り出しており、その居方は街の魅力を垣間見せている。
そうは言っても、自分自身がトラムに乗る立場になれば、待ち時間が短いに越したことはないと思うに違いありません。しかし、待つことが、その光景を観察している他者にとって街の魅力を伝えている可能性があるとすれば。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって移動することの意味が問い直された今だからこそ、交通機関の魅力を多様な側面から捉えることができるように思います。


■注

  • 1)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染防止対策として、日本で広く使われるようになったソーシャル・ディスタンス(Social Distance)という表現は、エドワード・ホールがプロクセミクス(Proxemics)としてあげている4つの対人距離の1つである。なお、感染防止対策として日本語ではソーシャル・ディスタンス(Social Distance)という名詞として表現されているが、英語ではソーシャル・ディスタンシング(Social Distancing)と「距離をとること」という動名詞で表現される。
  • 2)ただし、自分自身もスマートグラスを装着することで多くの情報が見えるようになることで、トラムを待つ人々が広場を取り囲む建物を背景として浮かび上がってくるように見えるかどうかはわからない。
  • 3)居方における観察者については、こちらの記事も参照。

■参考文献

  • 鈴木毅(1995)「たたずむ人々(人の「居方」からの環境デザイン10)」・『建築技術』1995年4月号
  • 鈴木毅(2004)「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。