『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

参加するのではなく居合わせる:「居方」から考える(アフターコロナにおいて場所を考える-13)

各地に開かれている居場所(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、宅老所などと呼ばれることもある)に人々が居る様子を「参加ではなく居合わせる」と表現してきました。

居場所においては、教室や体操、会議など特定の目的をもったプログラムにみなが同じように参加するのではありません。話をする人、お茶を飲む人、食事をする人、将棋や囲碁をする人、本を読む人など様々なに過ごす人が混じっています。長時間滞在する人がいる反面、野菜を買って帰る人、水だけを飲んで帰る人などすぐに帰る人もいます。プログラムが行われる居場所もありますが、運営時間の全てでプログラムが行われているわけではなく、プログラムが行われている間にも人の出入りがあったり、プログラムが行われている周りで別のことをして過ごしている人がいたりします。

(ひがしまち街角広場)

(居場所ハウス、奥で歌声喫茶が開催)

近年、居場所がもつ介護予防という機能に注目が集まり制度化され、体操や脳トレをはじめとするプログラムが重視されるようになっていること、あるいは、千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」が、地域や行政などのあり方からも大きな影響を受けているとは言え、近隣センターの再開発に伴い運営終了することの背景には、居合わせるにはどのような意味があるかが十分に共有されていない状況があると感じます。
プログラムをあえて行っていない居場所に対して、見学者から「ここは何もしていない」という可能を持たれることもあるという話を聞いたこともあります(ただし、この感想はある意味で正しいのかもしれません。居場所とは、たとえ何もしない人でも居合わせることができる場所だからです)。

確かに、みなが同じようにプログラムに参加する状況に比べると、居合わせる状況というのは思い描きにくいかもしれません。そうした状況が持つ価値もわかりにくいかもしれません。だからこそ、居合わせるについてきちんと考え、言葉にしていく作業が必要である。この記事はそのための1つの試みです。

居方

人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み

ここで用いている「居合わせる」という表現は、建築学者の鈴木毅先生(以下、敬称略)が「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」として提唱する「居方」(いかた)の類型の1つで、「居合わせる」とは「別に直接会話をするわけではないが、場所と時間を共有し、お互いどの様な人が居るかを認識しあっている状況。・・・・・・都市の公共空間における最も基本的な居方」とされています*1)。大学生の頃、居方の話を伺い人間と環境との関係をこのような視点で捉え得るのかと衝撃を受け、ワクワクしたのを覚えています。

鈴木毅は、「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」としての居方の概念を作り出した背景として、「日本の都市空間に居場所が少ないと感じたこと」、「人の居る情景の豊かさを表現できないと感じたこと」の2点をあげています。
これらの問題意識を背景として作り出された居方には、次の2つの特徴があるとされています。
1つは、親密さと対人距離の関係を扱う(けれども背景となる風景は扱われない)エドワード・ホールのプロクセミクスと*2)、「無人の風景」を扱う景観とのちょうど中間にあって、プロクセミクスと景観からは抜け落ちている「人が居る風景を扱う領域」を扱う方法論であること。
もう1つは、建築計画学が上手く扱ってこなかった「「ただ居る」「団欒」などの、何をしていると明確に言いにくい行為」も含めて、「実際にその場で体験されている、生活の場の質を扱う方法論」であること。

鈴木毅(2004)では「都市をみているあなた」、「公共の中の自分の世界」、「たたずむ」、「あなたと私」、「居合わせる」、「思い思い」、「思い思い」、「都市を背景として」、「都市を背景として」、「都市の構造の中に」の10の類型があげられています。従来の研究領域では上手く扱ってこなかった領域を扱い得ることに加えて、居方の類型がそれぞれ魅力的な言葉と写真で表現されていることも、居方に衝撃を受けた理由です。

先に紹介した通り、居場所においてはみなが同じようにプログラムに参加するわけではなく、「「ただ居る」「団欒」などの、何をしていると明確に言いにくい行為」をして過ごしている人もいる。こうした状況を記述できることが、「居合わせる」を用いることの意味です。
この点は比較的わかりやすいですが、居場所を「居合わせる」という観点から捉えることの意味はこれだけにとどまりません。それが、「他人がそこに居ることの意味」に関わってきます。

「様々な居方を検討して分かってきたことは、他人がそこに居ることの意味である。都市の公共空間にアクティビティがあることの重要性はこれまでもヤン・ゲールやウィリアム・ホワイトによってしばしば指摘されてきたが、・・・・・・、ある場所に人が居るだけで、その人と直接のコンタクトがなくても、彼を見守っている者には様々な情報・認識の枠組みが提供されるのである。中でも重要なことは、ある人は、(自分自身では直接みえない)自分がその場に居る様子を、たまたま隣りにいる他者の居方から教えてもらっているという点である。つまり、他者と環境の関係は、観察者自身の環境認識の重要な材料を提供しているのである(図5-1)。言ってみれば、「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」ということになる。こうなると、環境をデザインするには、一般的に行われているような当事者のための環境デザイン(当事者が欲しているものを提供する)だけでは足りず、その人と環境の関係が周囲にどういう意味をもつかを考慮した視点が必要になってくる。」(鈴木毅, 2004)

「他人がそこに居ることの意味」が居場所にどう関わりをもってくるかを考察する前に、最近、「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」とは違う意味で居方が使われていることに気づいたことに触れたいと思います。このことに気づいたことも、居方をもう一度、考え直しておきたいと思ったきっかけとなっています。

立居振る舞い

鈴木毅による居方は「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」ですが、居方がこれとは違う意味でしばしば使われていることに気づきました。具体的には、主に俳優が、映画やドラマの撮影現場に関連して居方という表現を用いている場合です。これらの居方は立居振る舞いと言い換えることができそうです*3)。これらの居方がどのような状況で使われているかに注目すると、次の3つに分類することができます*4)。

A:他の俳優の立居振る舞いを表現する場合

(A-1)「刺激的な共演者と過ごした現場。「役者としてはもちろんなのですが、人としての居方などを学ばせていただいた1年でした」と語ると、なかでも綾野の現場での立ち振る舞いには、驚きが多かったという。」(俳優・渡邊圭祐の発言) ※「小関裕太&渡邊圭祐「ファンの方のために」、コロナ禍で感じた「チーム・ハンサム」の思い」・『ドワンゴジェイピーnews』2020年12月14日

(A-2)「本当にカッコいい方だなと思いますし、女優さんとして学ぶところもたくさんありました。現場での居方もそうですし、対峙シーンではキャラクターを崩さずに感情をしっかり伝えてきてくれたのですごく素敵だなと思いました。」(俳優・浜辺美波の発言) ※「浜辺美波 二十歳を迎えた2020年は「自分の考えに整理がついて、仕事に前向きになれた」」・『フジテレビュー』2020年12月17日

(A-3)「・・・・・・、要所要所にキャストのみんなが歌いたい曲が1、2曲入っていると思います。そうした自分が歌いたいものとは別で、役者としての居方が見れるものもあった方が面白い。」(オリジナルミュージカルの作・演出・振付を行い、俳優でもある玉野和紀の発言) ※「新年は明治座へ! スペシャルミュージカルコンサート『NEW YEAR’S Dream』玉野和紀×平野綾インタビュー」・『ニコニコニュース』2020年12月19日

(A-4)「僕は自分が客として作品を観る際、感情が揺れているからこの人物はこのセリフを吐いているというものを目の当たりにした時に「この役者、素敵だな」と感じるんですけど、陳内くんはそれをしっかりと体現してくれる。座組のトップとして、稽古場での居方や振る舞いなどすべてが信頼できるんです。」(俳優・町田慎吾の発言) ※「陳内将×町田慎吾 舞台で再タッグ!「まっちーさん」「陳内くん」LINEで体調いたわることも」・『フジテレビュー』2021年1月7日

(A-5)「「木村さんと共演できるって一生に一回あるかないかぐらいだと僕は思っていて。カメラが回っている時も回ってない時も、とにかくずっと(木村さんを)見てようって。現場にいる居方とか…。あの緊張感の中で自分はどこまでできるのかなっていうチャレンジをずっとしてたんで」と熱い胸の内をのぞかせた。」(俳優・目黒蓮の言葉) ※「「Snow Man ラウール・向井康二・目黒蓮の真摯な想いに反響 「熱い気持ちを感じた」「涙出た!」<RIDE ON TIME>」」・『ニコニコニュース』2021年1月9日

(A-6)「うまいセリフを言うとか、いい演技をするじゃなくて、芝居する前に一番大事なこと」、佐野は榎木について「古武術やってらっしゃるから。普段お芝居で役者として立ってる時も、体の居方みたいなことがニュートラルで、とってもすごい」と印象を表す。」(俳優・佐野史郎の発言) ※「内藤剛志、刑事役をしすぎて「警官から黙礼される」榎木孝明&佐野史郎と現場あるある」・『マイナビニュース』2021年1月14日

(A-7)「この作品の少年は17歳なんですけど、私が17歳で初舞台の時に、初めてお会いした、そのときのスターさんが一路さんでした。当時の自分のことを思い出しつつ、今回は稽古場でお隣に座らせていただいて……。女優さんとしての見習うべき点がたくさんあり、とても魅力的な方だと思います。私が17歳だった頃にはとても想像できなかったほど気さくに話しかけてくださるし(笑)。居方も演技もいろいろ勉強させていただきたいなと思っています。」(俳優・大空ゆうひの発言) ※「「お芝居をすることと両思いになれた」 舞台『キオスク』出演、大空ゆうひインタビュー」・『@niftyニュース』2021年1月14日

(A-8)「榎本さんは、いつも体の話になるじゃない。古武術やってらっしゃるから。普段お芝居で役者として立ってる時も、体の居方みたいなことが一番ニュートラルでいるから、それはとってもすごいなって。」(俳優・佐野史郎の発言) ※「「今野敏サスペンス 警視庁強行犯係 樋口顕」放送直前完全リモート取材会! ジェイタメ」・『ジェイタメ』2021年1月14日

(A-9)「香里奈さんとやれたのは大きかったです。すごく気持ちのいい人だし。現場の居方、視点が凄いんです。10代の頃からモデル、女優の最前線を走ってきた方だし、そこから学べることも多いんです」(俳優・高良健吾の発言) ※「高良健吾が至った思いがけない境地「20代の頃の自分を抱きしめてあげたい」」・『映画.com』2021年1月26日

(A-10)「そのためには「日々勉強」という茅島。『ここは今から倫理です。』で現場を共にしている山田裕貴にも影響を受けている。「いつもすごく周囲を盛り上げてくださっていて、困っている子がいれば、声を掛けてくれるんです。監督と真剣に役について話をしている姿を見て、現場の居方なども勉強になっています」。」(俳優・茅島みずきの発言) ※「茅島みずき、ポカリCMから『Seventeen』専属モデルへ 王道歩むも「プレッシャーないです」」・『Oricon News』2021年2月1日

(A-11)「あれだけのキャリアがありながら役所さんは “主演俳優”という特別な立場というよりは、映画作りの歯車のひとつであろうという慎ましさも感じられます。しっかりとご準備をして現場に入られていましたし、その居方は各部署のスタッフがそれぞれの持ち場でやっている実直なスタンスと変わらないんですね。」(映画監督・西川美和の言葉) ※「役所広司が元殺人犯を演じた映画『すばらしき世界』 西川美和監督インタビュー」・『SCREEN ONLINE』2021年2月8日

(A-12)「作品を共にした主演俳優には、みな大きな影響を受けているという堀田だが、なかでも昨年出演した日曜劇場『危険なビーナス』で主演を務めた妻夫木聡の現場の居方にはしびれたという。」(俳優・堀田真由の言葉) ※「堀田真由、ドラマ初主演「区切りと思った年で出会えました」」・『北國新聞』2021年2月27日

B:俳優が自らの立居振る舞いを表現する場合

(B-1)「僕は比較的早い段階から現場が動き出したので、何を注意すべきなのか現場でトライ&エラーを繰り返していました。明らかにそれまでの現場とは居方、過ごし方、やり方も違うわけですが、自分が休止期間にエンタメを渇望したからこそ、文化・芸術というものがないと人間らしくいられないんだと思い知らされたからこそ、以前よりも『誰かの何かにはなれるんだ』と信じられる力が沸いてきた。」(俳優の井浦新の発言) ※「【新春特別対談Vol.1】井浦新×高良健吾、愛して止まぬ映画のこと」・『映画.com』2021年1月2日

(B-2)「同役を演じた森山さんについては、「現場の居方とか教えてくださったり、なにより役者として化け物だなと。あのとき、そのすごさはわかっていなかったのですが、今思ったらすごいなと思って」と表現。」(俳優・森田甘路の発言) ※「森田甘路:今クール3作品かけもちの個性派俳優 渡辺いっけいからの言葉を胸に 「モテキ」森山未來と再共演への思い」・『MANTANWEB』2021年2月4日

(B-3)「僕は深津さん扮するアンの生徒役でした。「アンの青春」では、舞台で演じる楽しさを知りましたね。仕事というより遊びに近い感覚でしたが、舞台の裏側やルール、稽古や舞台での居方を幼心にも学んだ覚えがあります。」(俳優・原田優一の言葉) ※「原田優一、“肩の上から見た景色”を胸に(前編)」・『ステージナタリー』2021年2月5日

(B-4)「「・・・・・・。この仕事を始めたころは、現場でどういう気持ちでいればいいのか、何をすればいいのか……(分からなかった)。今思えば、それでお芝居に100%集中できない、という瞬間もあったかなと感じています。でも、たくさんお仕事させてもらって、今は現場での居方……いかにストレスを感じずに芝居に集中できるか、心の整理ができるようになった。100%に近い集中ができるようになったかなと思います」と語る。」(俳優・宮沢氷魚の言葉) ※「宮沢氷魚:活躍の中で実感した“成長”の手応え 今は「挑戦したい時期」」・『MANTANWEB』2021年2月27日

(B-5)「その時は撮影も1日2日だけだったんですが、僕の居方を気に入ってくれていたみたいで。父親に、「誰かが必ず見てくれているから、一生懸命がんばれ」って言われた言葉を、久々に思い出しましたね。本当に見てくれている人がいるんだ…って思いましたし、この仕事を続けてきて本当によかったと思いました。僕にとっては、運命的な巡り合わせでもありました。」(俳優・仲野太賀の発言) ※「仲野太賀、15年目のブレイクの裏に長年の葛藤明かす「嫉妬がいかに野暮で価値のないことか知った」」・『北國新聞』2021年2月日

C:固有名詞の一部に居方が含まれる場合

(C-1)「居方食堂」 ※「久しぶりの居方食堂本日のツルコザクラ」・『わたしのブログ』2021年2月27日*5)

18記事のうち12記事がAの他の俳優の立居振る舞いを表現する場合となっていますが、Aは他の俳優の立居振る舞い、つまり、他者の立居振る舞いが居方と表現されている。この場合、外部から観察されるものとして居方が用いられていると言えます。
一方、俳優が自らの立居振る舞いを居方と表現しているBは外部から観察されるものに当てはまらないようですが、俳優とはそもそも外部から見られる存在であり、現場における居方(B-1・2・4)、稽古や舞台での居方(B-3)、「僕の居方を気に入ってくれていた」(B-5)という使われ方からは、Bの場合も他者から観察されるものとして居方が用いられていると考えることができます。
つまり、俳優が用いている居方とは、自らの立居振る舞いのことが言われる場合も含めて、外部から観察される立居振る舞いとして用いられていると考えることができます。

居方とは外部から観察されるものであること。これは、全く別の意味で使われていると思われた鈴木毅による居方にも共通しています。そしてこれが、「他人がそこに居ることの意味」が関わってきます。

私の居方への関わり

鈴木毅(2004)では、先に触れた通り10の類型の居方があげられています。

10の居方は、その居方がどのような状況を生み出しているか、その状況に私がどのように関わっているかに注目すると、次の4つに整理することができます。

開かれた親密さ

■「あなたと私」、「公共の中の自分の世界」
通常、親密な関係にある相手との対人距離は近いこと(エドワード・ホールのプロクセミクス)、親密な関係には閉じた空間が必要だと言われるのに対して、「あなたと私」は物理的な物を手がかりとして「ちょっと離れた距離」に親密な関係にある人々がいる状況、「公共の中の自分の世界」はオープンな空間において親密な関係にある人々がいる状況を表現するもの。これらは通常考えられている親密さと物理的環境の関係のずれを捉えるものだと考えることができます*6)。
この場合、私は観察者という立場として、外部からこれらの状況を見ることで、親密さを感じる存在となっています。

思い思いという多様性の許容

■「思い思い」、「都市を背景として」、「行き交う」
「色々な人がそれぞれ違うことを思い思いにしてい」る(「思い思い」)、「高齢者をはじめ様々な属性の人々が、「思い思い」に時間を過ごす」(「都市を背景として」)、「色々な方向から人々がやってきて、立ち止まって時刻表を見たり待ち合わせをしたり、通りすぎたりしていく」(「行き交う」)というように、これらは多様な属性の人々が、多様な位置で、多様なことをして居ることを表現するもの。
重要なのは、「それを周りから認識できる」(「思い思い」)、「眺めていてあきることがない」(「都市を背景として」)、「上のカフエから眺めることができる」(「行き交う」)というように、私は観察者としてこれらの状況を見ることを通して、思い思いという多様性が許容される場所であることを認識しているということです。
また、私自身のことについて「思い思い」にいる、「行き交う」と表現するのは不自然であることからわかるように、これらの居方は私自身のものではない(私一人ではこれらの居方を生み出すことはできない)ということになります。

他者の姿とともに環境を認識

■「都市をみているあなた」、「都市を見降ろす」、「たたずむ」、「都市の構造の中に」
「都市を見て座っている人がさらに他の人から見える」(「都市をみているあなた」)、「都市を見渡せる場所」で「都市を眺めている人を一緒に見る」(「都市を見降ろす」)、「何もせずに遠くをボーっと見ている人の全身が周囲から見えている」(「たたずむ」)、「都市を貫く大きな構造と人が居る様子を同時に知覚できる」(「都市の構造の中に」)というように、これらは他者が見ている(であろう)環境や他者を取り巻く環境を、他者の姿と一緒に見るという状況を表すもの。
「無人の風景」だけを見るのではなく、他者の姿を一緒に見ることで「観察者にとって都市を認識する材料が更に一つ増える」というように、私は観察者という立場で他者を見守る存在となっています。この場合も、鈴木毅が指摘するように、私自身のことについて「たたずむ」と表現するのは不自然ということになります*7)。

居合わせる

■「居合わせる」
居方を3つに整理しましたが*8)、「別に直接会話をするわけではないが、場所と時間を共有し、お互いどの様な人が居るかを認識しあっている状況」である「居合わせる」だけは、3つの分類に上手くおさまらないことに気づきました。なぜなら、「居合わせる」は私自身のことも表現できる(「私は誰々と居合わせる」という表現はあり得る)から。つまり、「居合わせる」において、私は「居合わせる」状況を外から見る観察者になっている場合だけでなく、私もまた「居合わせる」状況の一部として含まれる場合もあるからです*9)。
ただし、鈴木毅(1994a)が居合わせる相手は「団体ではなく個人の集まりである」と指摘しているように、私が「居合わせる」状況の一部として含まれるとは、その状況に参加することを意味しないことは注意が必要です*10)。


「居合わせる」を除いた9つの居方では、私は外部からその居方を見る観察者であると書きましたが、私の観察者としての居方への関わり自体が「居合わせる」になっている場合があるとも言えます*11)。

例えば、以下の写真は中国・内モンゴル自治区首府のフフホト(呼和浩特)の公園で撮影した写真。地面に水を含ませた筆で書道をする人、それを眺めている人、その奥でダンスをしている人、さらにその奥ではストレッチをしたりバドミントンをしたりウォーキングしたりしている人がいるというように「思い思い」と呼ぶべき状況が生まれていますが、撮影者である私はこの状況に居合わせている。

(フフホトの青城公園)

以下の写真はサンフランシスコのミッション・ドロレス・パークで撮影した写真。公園の芝生では人々は「思い思い」に過ごしています。この公園は斜面になっているため、斜面の上の方からは公園で過ごしている人々や、その奥に広がる景観を一望することができます。公園で「思い思い」に過ごしている人、を眺めている人、を眺めている私というように、私もこの状況に居合わせている。そして、私もまた別の人にとって観察の対象になっている可能性もある。

(サンフランシスコのミッション・ドロレス・パーク)

このように見てくると、「居合わせる」は他の居方とは異なった性格を持つと考えることができます。鈴木毅は「居合わせる」について「私が最も重視している居方の一つ」、「都市の公共空間における最も基本的な居方」と指摘していますが、ここで見てきたように「居合わせる」は、私自身もその状況に含まれ得るからこそ、他の居方とは区別されるのではないか。それゆえ、「基本的な居方」と言えるのではないかと考えます。

鈴木毅は「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」と表現していますが、「居合わせる」において私がその状況に含まれ得ることをふまえれば、「私がここにこう居ることは、あなたにとっても意味があり、私の環境は、あなたにとっての環境の一部でもある」とも表現できそうです。

居場所において他者が居ることの意味

居方の議論をふまえて、鈴木毅は当事者の要求を把握し、それに対応する機能を空間に適切に割り当てる機能主義ではない計画やデザインの方法論の必要性を指摘しています*12)。

「環境をデザインするには、一般的に行われているような当事者のための環境デザイン(当事者が欲しているものを提供する)だけでは足りず、その人と環境の関係が周囲にどういう意味をもつかを考慮した視点が必要になってくる。」

「これまでの建築計画は、居住者や建物利用者の直接的、潜在的な要求を、調査、分析により把握してそれに応じたデザインを提供する、という方法論であった。しかし特に居方の研究を続ける内に、このような「当人が欲するものを調べ与える」だけでは不十分だと考えるようになった。様々な事例で説明してきたように、本人が意図しなくとも、人はただそこに居るだけで周りと様々な関係を持つことになる。居住者の要求や行動や居方は当人だけの問題ではなく、他人の環境の一部であり、それが他者にどの様な影響や認識を与えるかを考える必要がある。」(鈴木毅, 2004)

この文章を初めて読んだ時、頭では理解できても、具体的にどのような方法があり得るという例をあげることができませんでした。
しかしその後、居場所に関わりを通して、居場所はこのような方法論によって開かれていることに気づきました。特に新潟市の最初の地域包括ケア推進モデルハウスとして開かれた「実家の茶の間・紫竹」が思い起こされます。
「実家の茶の間・紫竹」では「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)にする。全ての人の平等を大切にする」ことが目指されており、プログラムは行われていません*13)。このような場所を実現するために数多くの配慮がなされていますが、例えば、テーブル配置だけでも次のような配慮がなされています。

  • テーブルの位置は、会議風のロの字はさけて、5~6人単位で座れる様に散らばる配慮をする。
  • テーブルの配置を常に変える。
  • 当番や初回の人、視察、見学の人は会場全体が見渡せる場所に案内する。
  • 戸を開けたとき、視線が集中しない配置にする。

さらに興味深いのは、次のように初めて訪れる人には「できるだけ外回り」に座ってもらう配慮がなされていること。「実家の茶の間・紫竹」の河田珪子さんは次のように話されています。

「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」(河田珪子さんの発言)

初めて訪れた人に対して「思い思い」に居られる場所であることを伝えるために、実際に「思い思い」に居る人々の姿を見てもらうということ。「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」ことが考慮されていることがわかります。河田珪子さんは次のようにも話されています。

「今度、迎える側は全ての人が、その人が居てもいいよというメッセージを出していくという。表情とか振る舞いで。みんな、どの人が来ても『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージを、みんなして出していく。」(河田珪子さんの発言)

「色んな人がいていいんだっていうメッセージ」を受け取った人は、今度は「「よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね」っていうメッセージ」を伝える側の人になるということ。つまり、「私がここにこう居ることは、あなたにとっても意味があり、私の環境は、あなたにとっての環境の一部でもある」ことが考慮されている。

「実家の茶の間・紫竹」を初めて訪れた私は、既に「思い思い」に過ごしている人々に居合わせている。そして、次に初めて訪れてくる人に対して、既に「思い思い」に過ごしている私が居合わせる。私は外部から観察するだけの存在だけでなく、私自身が「居合わせる」状況を作り出す存在として観察される存在でもあるということ。「実家の茶の間・紫竹」が大切にしている価値を伝える連鎖が生じるのは、「居合わせる」が私自身を含んでいるからこそです。

居場所を「参加ではなく居合わせる」と捉えることで、「「ただ居る」「団欒」などの、何をしていると明確に言いにくい行為」を表現できることに加えて、居場所が大切にしている価値が共有されていくプロセスを表現できる。これらの意味で、「居合わせる」概念は重要だと考えています。


■注

  • 1)以下、居方について特に明記しない場合は鈴木毅(2004)に基づいている。
  • 2)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染防止対策として広く使われるようになったソーシャル・ディスタンス(Social Distance)という表現は、エドワード・ホールがプロクセミクス(Proxemics)としてあげている4つの対人距離の1つである。なお、感染防止対策として日本語ではソーシャル・ディスタンス(Social Distance)という名詞として表現されているが、英語ではソーシャル・ディスタンシング(Social Distancing)と「距離をとること」という動名詞で表現されている。
  • 3)Wikipediaの「居合術」のページには、「日本武術の基点は立居振舞い、その中でも「居る」ということ、居方自体・・・・・・」というように、居方が立居振舞いに関連させて使われている。「もともと居合(居相)とは刀を抜く技術に限らず、座って行う技の事を指している。居合が抜刀術の意味として使われる事となったのは、多くの抜刀術(居合)の流派が座った状態での抜刀技術を重視していたためとも言われる。そのため流派によっては、居とは座っているという意味で、立って行うものは立合であると説明している場合もある。日本武術の基点は立居振舞い、その中でも「居る」ということ、居方自体が、日常の体の使い方から転換が求められる。礼法や弓術の座射、柔術の座捕りなど、どれも手足の動きを制限することによって、末端ではなく体幹の使い方を発展させてきた。居合いはその原点といえる」。
  • 4)以下にあげるのは、Googleアラートで、キーワード:「居方」、ソース:「自動」、言語:「日本語」、地域:「すべての地域」、件数:「すべての結果」の条件で2020年12月1日〜2021年2月28日の3ヶ月間にヒットした記事である。ヒットした全ての記事は59記事だが、このうち実際に居方の表現が用いられていたのが以下にあげる18記事である。このことから、ほとんどが俳優によって居方が語られていることがわかる。
  • 5)「居方食堂」は千葉県印西市に開かれている食堂である。
  • 6)新型コロナウイルス感染症の感染防止対策として、他者との距離をとること(ソーシャル・ディスタンシング)が求められる状況において他者への信頼を回復するためには、対人距離とそれに結びついた「行動と関係の型」との組み合わせのセットを意識的にずらし、組み直していくことが重要ではないかと考えたことがあるが、「あなたと私」、「公共の中の自分の世界」という居方はそのための手がかりになるのではないかと考えている。なお、「あなたと私」、「公共の中の自分の世界」において、観察の対象となる他者が本当に親密かどうかという内面的なことはわからないが、内面ではなく親密であるように見えるということは、特に初対面の状況では重要だと考えている。
  • 7)鈴木毅(1995)では、「自分自身について「たたずんでいる」と言うことは少なく、たたずんでいる人を別の人が描写する時に使うことが多い言葉のように思う(本人が使う場合も、自分を外から見ている視点が存在していそうである)」と指摘されている。このことからも、私は「たたずむ」状況を外部から観察していると言える。
  • 8)3つの分類は、鈴木毅(1995)が「居方における環境と人間の関係」としてあげている「環境の中に自分(達)の場所・世界を造る」、「環境を活動の舞台・フィールドとして使う」、「環境を見守り認識することが中心となる」に概ね対応していると言えるが、鈴木毅(1995)は「1つの居方が1つの環境へのかかわり方を持っているだけではなく、複数のかかわり方を含む場合ももちろんある」と指摘している。
  • 9)鈴木毅(1994a)では、パリのカフェやレストランの例をあげて、「「(別に会話をするわけではないが、この人達と)ここにいっしょに居られてよかったな」という感覚」というように、「居合わせる」が自らの経験として記述されている。また、鈴木毅(2004)では、居方の10の類型それぞれに、その居方を表現する代表的な写真が添えられているが、「居合わせる」に添えられた写真が最も他者との距離が近いと感じられる。用いるレンズの焦点距離が異なる可能性があるため、実際の他者との距離と、写真から感じられる距離感は必ずしも対応していると言えないにしても、写真から感じられる距離の近さも、私が「居合わせる」状況の一部に含まれていることの傍証になると考えている。
  • 10)山本哲士(2011)は、「合わすというのは、結合ではない、分離していたものを非分離へと表出することをいう」、「「合わせ」の述語状態が、そこに=場所に生み出されている」と指摘している。「合わす」は「一致すること、いっしょにすること」ではないということである。これは、鈴木毅(1994a)が「居合わせる」を「個人、他人、さまざまの人、たまたま」という観点から定義していることに重なる。
  • 11)鈴木毅(1994b)では、写真を資料として居方を考察することに関して、「佐伯胖氏、上野直樹氏には「そのシーンを撮ろうとした自分、撮ることができたこと自体の意味を考えるべきだ」をはじめとして貴重なアドバイスを戴いた」と記されているが、私が他者を近距離で撮影できたのは、私はそこに居合わせたからである。
  • 12)心理学者のジェームズ・ギブソンの議論を受け、鈴木毅(2004)は次のように人間の身体が遮蔽縁になるからこそ、他者が居ることが環境の知覚に役立つと指摘している。「人間自体も遮蔽縁を持っているから、ある人の背景がどう流れるかが周囲の人の知覚に役立っているのである。こうした独立型の遮蔽縁は環境の中では木や人間ぐらいなので、環境の変化の手応えによる認知を考える時には、人間も非常に重要な要素と言えるのではないか」。精神科医の斎藤環(2014)は、ジェームズ・ギブソンの議論を受け他者が居ることの意味を次のように表現している。「さまざまな思惑が交錯する(かに見える)デイケア空間の「包囲人配列」において、常に「不変項」としての「親密さ」をアフォードしてくれる存在、それがデイケアスタッフと言うことになる」。斎藤環はこれを「比喩的に言うなら」と前置きしているが、鈴木毅の議論をふまえれば、デイケアスタッフは知覚的にも、私にとっての遮蔽縁であり、不変項になっていると捉え得るのではないかと考えている。
  • 13)「実家の茶の間・紫竹」について、特に明記しない場合は河田珪子(2016)による。

■参考文献

  • 河田珪子(2016)『河田方式「地域の茶の間」ガイドブック』博進堂
  • 斎藤環(2014)「「親密さ」のアフォーダンス」・『建築雑誌』Vol.129 No.1659
  • 鈴木毅(1994a)「「居合わせる」ということ」(人の「居方」からの環境デザイン5)」『建築技術』1994年6月号
  • 鈴木毅「人の「居方」からみる環境」(1994b)・『現代思想』1994年11月号
  • 鈴木毅(1995)「たたずむ人々(人の「居方」からの環境デザイン10)」・『建築技術』1995年4月号
  • 鈴木毅(2004)「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会
  • 山本哲士(2011)『哲学する日本:非分離/述語制/場所/非自己』文化科学高等研究院出版局

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。

(更新:2021年3月1日)