『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ボランティアで運営されるコミュニティカフェ(居場所)(アフターコロナにおいて場所を考える-39)

田中元子氏の『マイパブリックとグランドレベル:今日からはじめるまちづくり』(以下、(田中元子, 2017)と表記)を読みました。マイパブリックとは「自分で作る公共」、「私設の公共」を意味する田中元子氏の造語。田中元子氏がマイパブリックを提案した背景には、従来の「公共施設やパブリックスペース」は本当に公共性を実現してきたのだろうかという問題意識があります。

「『パブリック』『公共』と聞くと、行政や組織が主体の施設やスペースのことだと思いがちだが、たとえひとりの人間、一個人のふるまいや状況づくり、小さな『マイパブリック』であっても、いやむしろ、小さいからこそリアルな『公共性』を帯びる。『マイパブリック』は、既存の公共よりも、パブリックたりうる可能性があるのだ。」(田中元子, 2017)

「『パブリック』とは、知らない第三者と接触する可能性があり、多様な人々の多様なふるまいの中に自分の居場所、居心地が感じとれること、そして自分も他人も、互いの多様性を許容し合っている状況。・・・・・・
ひるがえって、日本にある、公共施設やパブリックスペースのどれほどが、そのような状況を叶えてくれているだろう。一方で、これまで取り上げてきた、個人によるさまざまな『マイパブリック』は、事実上、公共的な状況づくりを実現していた。リアルなパブリック性を持った“私設の公共”は、提供する側も、提供される側も、楽しい。そこに次世代の『しあわせ』につながる大きな可能性がある、とわたしは考えている。」(田中元子, 2017)

田中元子氏はマイパブリックの試みとして、街の隙間に「パーソナル屋台」を出し、コーヒーを無料で振る舞うという活動を続けてきました。「パーソナル屋台」で振る舞うものはコーヒーである必要はありませんが、「パーソナル屋台」のルールとして「まちの『隙間』でする」、「自分のやりたいことをする」、「無料でする」の3つがあげられています。
従来の「公共施設やパブリックスペース」と違って、あくまでも自分がやりたいことを、無料で第三者に提供すること。田中元子氏はこのような振る舞いを「第三の趣味」、つまり、「社会や世の中に貢献できる・役に立てる趣味」と表現しています。それは、小さく、ささやかな振る舞いである。しかし、そうだからこそ「『公共性』を帯びる」のではないかと。


この本を読んで、2000年頃から同時多発的に開かれてきたコミュニティカフェ、特に無償ボランティアで運営されてきたコミュニティカフェのことを思いました*1)。このような場所は、マイパブリックの1つのかたちではないかと。
コミュニティカフェとは、従来の制度や施設の枠組みでは上手く対応されない課題に直面した人々が、自らの手で開き、運営している小規模な場所で、ボランティアで運営される場所も多いという特徴があります*2)。

田中元子氏は無料で第三者に提供することについて、「第三者とは期待しないで済む存在」であり、そのような他者との関係にお金を介在させないことで解放感を得られると述べています。そのような関係を築くことは、「日常生活では意外と難しい」と。

「おかねのやり取りをしないだけで、どんなに手慣れたとしても、堂々と素人でいられる。相手もわたしにプロの店員であることを求めないし、わたしも相手に、あらゆる意味で良い客であることを求めない。お互いに、期待しない。そんな関係を築くことが、日常生活では意外と難しい。家族だって友だちだって、結局自分にとってそういう関係である以上、つまりある関係を築いてきた過去がある以上、多かれ少なかれ、期待の対象となってしまう。」(田中元子, 2017)

「試しにおかねのやりとりを一度やめてみれば、よくわかる。ものをやりとりする中で、おかねの姿を見ない。たったそれだけのことで、こんなに解放感に溢れた気持ちになれるのか、ということが。おかねだけではない。労働なり交換物なり、相手からの何らかの対価というものを、期待しなければ。」(田中元子, 2017)

無償ボランティアでコミュニティカフェを運営することに対しては様々な問いが出されてきました。以下ではそうした問いを振り返り、改めて無償ボランティアで運営されているコミュニティカフェが実現してきたことについて考えたいと思います。

コミュニティカフェに対する問い

コミュニティカフェをボランティアで運営することについては、実際に運営に携わる人からも、これから開きたいと考えている人からも、行政職員や研究者からも様々な問いが出されてきました。例えば、コミュニティカフェの調査を行ったり、運営を手伝ったりしてきた中で次のような問いが出されるのを見聞きしました。

  • ボランティアでは、運営に関わる人が集まらないのではないか。
  • ボランティアというかたちでの運営では、運営に関われる人が限られるのではないか(ボランティアをする余裕のない現役世代が運営に関われない)。
  • ボランティアでは続かないのではないか。
  • ボランティアは無責任ではないか(ボランティアは好きな時に来て、好きな時に帰る)。
  • ボランティアとは言え、運営に関わってもらう以上は最低賃金を出す必要があるのではないか。
  • 補助金を受けるのではなく、自立して運営する必要がある。そのためには収益事業を行う必要があり、そうするとボランティアでは難しいのではないか。
  • 住民によるボランティアでは限界があるため、きちんとした運営体制を作る必要がある。

なお、言葉の本来の意味でのボランティアとは「自ら進んで」ということであるため、この意味での善し悪しを外部から議論することはできません。そして、ボランティアを「自ら進んで」という意味で捉える場合、上にあげた問いは意味を捉えにくいものもあります。
しかし、日本ではボランティアが、「自ら進んで」という意味でなく、無償で奉仕するという意味で捉えられることがあり、そこから、人件費を抑えるための手段とされることもあるように思います。上のような問いが出されること自体に、このことが現れています。

コミュニティカフェに対して上のような様々な問いが出されることは、コミュニティカフェに大きな期待が寄せられていることが現れていると言えますが、その背景として、特に近年ではコミュニティカフェをめぐる次の2つの状況があるように感じます。
1つは、コミュニティカフェの収益を重視する状況。コミュニティカフェを含めた地域の活動も補助金に依存せず、きちんと事業計画を立てて、収益のことを考える必要がある。そして、人件費もきちんと支払う必要があるという考え方が広がってきたように感じます。実際、ある地域では、集会所を運営するために賃料をとることが重視され(そのため学習塾など営利活動に集会所が貸し出される)、集会所で運営するコミュニティカフェもコンペのようなかたちで事業計画を審査し、運営者を決定するということが行われていると聞いたことがあります。
もう1つは、コミュニティカフェの課題解決の機能を重視する状況。自助・共助・公助という考え方が浸透し、例えば、コミュニティカフェを制度化した「通いの場」のように、コミュニティカフェに介護予防の役割が期待されるようになってきました*3)。これによって「通いの場」という類型が登場する前から運営されてきたコミュニティカフェも「通いの場」と見なされる場合があること、体操と介護予防を直接的に結びつけることによって、「通いの場」(と見なされたコミュニティカフェ)は高齢者が集まって体操をする場所と捉えられる場合があることを聞いたことがあります。
こうした状況において、無償ボランティアで運営するというのは、ささやか過ぎると見なされるのかもしれません。

地域で仕事をすること、介護予防をはじめ地域の課題を解決することを否定するつもりはありません。また、無償ボランティアで運営されているコミュニティカフェが完全だと言うつもりもありません。それぞれのコミュニティカフェごとに検討すべき点もあると思います。
さらに、コミュニティカフェがその時々の状況において、運営のあり方を変える必要があるのも当然かもしれません。もしかすると、無償ボランティアでコミュニティカフェの運営が成立していたのはある特殊な状況がそろった場合であり、いずれ、その状況がそろわなくならなくなる可能性も否定できません。
しかしそうだとしても、無償ボランティアで運営されてきたコミュニティカフェが存在してきたのは事実であり、そこで何が実現されてきたのかを振り返っておくことは意味あることだと考えています。

緩やかな主客の関係

無償ボランティアによる運営を長期にわたって続けてきた2つのコミュニティカフェ、「下新庄さくら園」、「ひがしまち街角広場」を紹介したいと思います*4)。

「下新庄さくら園」は2000年5月15日、大阪府による「ふれあいリビング」の第一号として、府営下新庄鉄筋住宅に開かれた場所。「ふれあいリビング」は「高齢者の生活圏、徒歩圏で、『普段からのふれあい』の活動があれば、高齢でも元気で、お互い元気かどうか確認できて、何かあったら助け合うこともできるのではないか」という考えから、「前もって予約して、かぎを借りて、使う時だけ開けるという使い方がどうしても多い」集会所とは異なり、「気軽に立ち寄ることができる協同生活の場」(植茶恭子・広沢真佐子, 2001)として開かれる場所で、コーヒーなどの飲物とトーストなどの軽食が100円を提供する喫茶の場所として運営されてきました。建物の建設などオープン時には大阪府の補助を受けていますが、オープン後は大阪府からも補助を受けておらず、自治会からも独立した任意団体による運営が継続されてきました。

「ひがしまち街角広場」は2001年9月30日、建設省(現・国土交通省)の「歩いて暮らせる街づくり事業」と、それを受けた大阪府豊中市の社会実験がきっかけとなり、千里ニュータウンの空き店舗を活用して開かれた場所。目的は、「みんなが何となくふらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所」(「ひがしまち街角広場」初代代表の発言)を実現すること。この背景には、地域の集会所が日常的に出入りできないという状況があります。

「集会所なんかに用事がなかったら行けないですよ。申し込んでね、『何々に使う、会議があります』とか『どういう集まりがあります』って言って、その集まり以外の人が集会所へ出入りすることはまぁできない。・・・・・・。きちっとした目的があって、何かをしなきゃならない、その関係者しか出入りできなくって。ただ暇やからそこへ行ってますっていうのは、ちょっと集会所にはそぐわない。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

「ひがしまち街角広場」は半年間の社会実験期間中は豊中市からの補助を受けていましたが、社会実験終了後は補助を受けない自主運営として、任意団体での運営が継続されてきました。食事は提供されておらず、コーヒーなどの飲物が100円の「お気持ち料」で提供されてきました*5)。


「下新庄さくら園」でも「ひがしまち街角広場」でも、飲物は無料でなく100円ですが、スタッフは無償ボランティアであり、飲物の売上がスタッフ個々人の収入にはなりません。

無償ボランティアで運営することで何が実現されるのか。2つの場所の初代代表は次のように同じことを話しています。

「私は、ボランティアさんとお客さんは同じ立場だと思ってるわけね。というのは、『ふれあい』だからお金もらってませんしね、全くの奉仕でしょ。だから、ボランティアさんも『ふれあい』の仲間なんですよね。お客さんも『ふれあい』ですね。だから、私、お客さまもボランティアさんも等々(とうとう)、対々(たいたい)だと思うのね、立場上ね。ただし、お客さんに100円でも飲んでいただくっていうことは、『ありがとうございます』、『いらっしゃいませ』は言わないけない。でも、揉めた時、お客さんとトラブルあった時は、私は絶対にお客さんの方にじゃなくって、どっちが正しいかでボランティアさん守る時もあれば、・・・・・・、いいか悪いかで判断しないけないいうのは、常に。」
※「下新庄さくら園」初代代表の発言

「いくらかでもお金をもらってるとなったら、・・・・・・、お金を出した方ともらってる方になりますよね。それよりも、みんなどっちもボランティア。来る方もボランティア、お手伝いしてる方もボランティアっていう感じで、いつでもお互いは何の上下の差もなく、フラットな関係でいられるっていうのがあそこは一番いい。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

「ボランティアさんとお客さんは同じ立場」、「互いは何の上下の差もなく、フラットな関係でいられる」。表現は異なりますが、2人は同じことを話しています。無償ボランティアであることで、主客の関係が緩やかなものになるのだと。

けれども、そもそも来訪者(客)が訪れる場所でなければ、主客の関係すら生まれない。従って、スタッフは来訪者と全く同じように振る舞っているわけでなく、スタッフは来訪者を迎えるための様々な配慮をしている。例えば、「下新庄さくら園」では「『ありがとうございます』、『いらっしゃいませ』は言わないけない」というように声かけをすることが意識されていました。「ひがしまち街角広場」の初代代表は次のように話しています。

「行政の手を離れましてからは、何の型にはまったものも言っておりません。スタッフにも肩肘はらないでゆったりとして、もう何の規制もしておりません。『コーヒー、紅茶をいれる時は、気持ちをいれて紅茶、コーヒをいれること、雑に扱わないでください』っていうことだけは言ってはございますけど、あとのことは何の決まりもなくやっております。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

無償ボランティアではないコミュニティカフェでも、そもそも、通常のカフェでも、来訪者に対して声かけをしたり、飲物を丁寧にいれたりすることは当然。それでは、無償ボランティアは何が違うのか。それが、田中元子氏のいう「お互いに、期待しない」ということ。2つのコミュニティカフェの初代代表は次のように話しています。

「お客さんにゆっくりしてもらいましょ。〔出すのが〕遅れたらごめんね、〔お客さんが〕3人以上来たらパニックよっていうような感じ」
※「下新庄さくら園」初代代表の発言

「1円でもお金もらったらサービスする方とされる方になってしまうでしょ。そしたら、『お茶遅いなぁ』とか、『わしのコーヒーどうなってる?』って言われたって、〔ボランティアはお客さんに〕文句言えないでしょ。ここはそんなんじゃない、みんな、ボランティアと同じレベルの人間同士だから、暇やったら座って一緒にしゃべる。それができるわけでしょ。ボランティアが椅子に座って新聞読んでるのを、お客さんが後ろから立って覗きこんでるなんていう、どっちがお客かボランティアかわからない風景もある。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

無償ボランティアでなければ、例えば、飲物を出すのが遅ければ来訪者から文句を言われてしまう。文句を言われないようにしようとすれば、サービスをする側とされる側という関係ができてしまう。けれども、無償ボランティアであれば飲物を出すのが遅くても来訪者が文句を言うことはない。緩やかな主客の関係とは「お互いに、期待しない」ことを前提として成立していることがわかります。

眼の前の「あなた」への対応

スタッフが無償ボランティアでなく、賃金を得ている場合には、お金をもらっているのだからサービスするのは当然のことと考えてしまう。逆に来訪者の方も、自分はお金を払っているのだから(スタッフはお金をもらってるのだから)サービスしてもらうのは当然のことと期待してしまう。このような関係においては、サービスの対象となる人、お金を稼いでいる人というように、相手の属性が前景化していることになる。田中元子氏のいう人間関係における期待とは、相手の属性に対する期待なのかもしれません*6)。
これに対して、「お互いに、期待しない」関係においては、相手の属性が後景にひき、眼の前の「あなた」そのものの存在が前景に浮かびあがってくる。この場合、相手との関係は、相手がある属性の人だから対応するのではなく、眼の前にいるから対応するのだという性格を持つことになります。

「『ふれあい』の場所でありながらね、団地の中の拠点、色んなこと言ってくる場所、それから駆け込み寺みたいに緊急の場所にもなってます。」

「〔組織や役割を〕つくらなくてもね、ほんとにこういうとこで、みんなできるんですわ、役なしでいっぱいできるんですわ。」
※「下新庄さくら園」初代代表の発言。〔 〕内は本稿著者による補足

「応じたっていうことがものすごい大事なんですよ。それぞれに応じたものを、その場でできるというのが。青少年とか、成人期とか、高齢者とかに応じたじゃなくて、同じ成人でも色んなレベルの人がいるでしょ。だから、どこにも応じたことがやれる場所じゃないといかんわけでしょ、こういうところっていうのは。枠にはまってない、枠からはみ出た人には対応できないって言ったらだめじゃないですか。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

「役なしでいっぱいできる」、「枠からはみ出た人には対応できないって言ったらだめ」という言葉からは、2つの場所が、ある属性の人だから対応するのではなく、眼の前にいる「あなた」に対応し続けてきたことが現れています。
これは、事業計画や課題解決のためにあらかじめ対象となる属性の人を想定し、その人にサービスを提供するというあり方とは異なっています。しかしだからこそ、このような対応が行われる場所には、「駆け込み寺みたいに緊急の場所」など結果として多様な機能が備わってくことになります*7)。


田中元子氏は、「期待しないで済む存在」である第三者との関係について次のように述べています。

「第三の趣味は、何が起きるか、誰が来るかわからない、予測不可能な状況に自分を置くことができる。だから些細なことにさえ新鮮な気持ちになれるし、敗北も失敗もない、やればやるだけ、ただ楽しい気持ちでいられるのだ。」(田中元子, 2017)

「お互いに、期待しない」関係に自分を置くことは「ただ楽しい」。「下新庄さくら園」、「ひがしまち街角広場」の初代代表も次のように同じことを話しています。

「私ここでも言ってる、感謝と思いやりがなかったら人間だめですよ。・・・・・・。だから私、いっつもそれを基本にしとかないとねぇ。だから喜びは、してあげると思ったらだめよ。・・・・・・。自分が何かもらうっていう考え方ね。」
※「下新庄さくら園」初代代表の発言

「自分たちが楽しんで来てる。来る人とのコミュニケーションも、自分たちも楽しくやってる。だからだと思う。そこが一番大事だと思うんですね。何か今日はお仕事で、義務的に何時までいなきゃならないと思って来てたら、やっぱりその気持ちっていうのは何にでも出てくると思う。」
※「ひがしまち街角広場」初代代表の発言

「公」と「公共」の違い

田中元子氏が「個性と公共って、相反する言葉に見えるけど」と記しているように、通常、私と公共は相対立するものと捉えられます。私を大切にし過ぎると公共的ではなくなり、逆に、公共のことを考え過ぎると私が息苦しくなる。住民が独自に運営しているコミュニティカフェは、行政のお墨付きのない私的な場所だと格下に見られるという話を聞いたことがありますが、このような状況が発生してしまうのは私と公共とを相対立するものと捉えられているから。

ここで重要なのは、公共と表現されているものの概念を捉え直すこと。山本哲士氏は次のように「公」と「公共」とは全く違うものであり、「公」は「私」が「生かされる場所」であり、「公共」は「私」を「捨てさせるもの」であると指摘しています。

「公園、公衆浴場、公衆便所、公民館、公立学校などを、『公共』園とか公共浴場などとは言いませんね、日本語は論理的にはっきりと区別しています。『公』というのは、プライベートなものが生かされる場所なのです。しかし、公共というのは、社会へそれを構成変えしようとする搾取です。」(山本哲士, 2006)

「『プライベートなもの=わたし』を生かすのがパブリックな場であり、それは『私=自己』を捨てるのではない。私を捨てさせるものは『ソーシャルなもの』『社会』であって、『公/パブリックなもの』は、本来は《わたし》を生かす原理である。この『公』を社会へ一致させてしまうのが『公共性』であり、それが国家へリンクされる。この、連鎖を、もうひとつの教育は断ち切らねばならない。
プライベートなものの存在原理は『場所』である。『わたし』は場所に於いて生きているのである。」(山本哲士, 2007)

田中元子氏は「個性と公共って、・・・・・・、ほんとは表裏一体なんじゃないか」と記していましたが、山本哲士氏の議論をふまえれば、マイパブリックとは、「マイ」と付けなくても、「公」(パブリック)そのものだということになります。
相手がある属性の人だから対応するのではなく、眼の前にいる「あなた」だから対応すること。相手への期待にとらわれるのでなく、眼の前にいる「あなた」に丁寧に対応し、その時々で豊かな時間を作りあげること。実はそれが結果として、場所を多機能にしていくこと。このように書くと魔法のように思われるかもしれませんが、これこそが、「公共」ではない「公」の場所であること。「下新庄さくら園」、「ひがしまち街角広場」このような場所の1つのかたちであり、その価値が消えることはありません。


■注

  • 1)コミュニティカフェについては、地域の茶の間、まちの縁側、まちの居場所、あるいは、居場所などと呼ばれることもあるが、ここではコミュニティカフェと表記することとする。
  • 2)例えば、2011年1~2月にかけて、全国のコミュニティカフェを対象とするアンケート調査を実施した大分大学福祉科学研究センター(2011)によると、「スタッフの種類」について「『常勤」がいる割合は8割弱、『ボランティア』がいる割合は6割強と、『常勤』と『ボランティア』が運営の軸となっています」、「任意団体(常勤:61.5%<ボランティア:88.9%)やNPO(常勤:71.1%<ボランティア:75.4%)では『ボランティア』に頼る割合が高くなっています」と指摘されている。アンケート調査の有効配布数は478か所、有効回収数は166か所、有効回収率34.7%である。
  • 3)「通いの場」とは、2015年4月から始まった介護予防・日常生活支援総合事業(新しい総合事業)に盛り込まれたものである。「新しい地域支援事業における『介護予防・日常生活支援総合事業』(以下、新しい総合事業)のなかに、『居場所・サロン』の取り組み(サービス)が盛り込まれています。新しい総合事業では、これを『通いの場』と呼んでいます」、「厚生労働省が名づけた『居場所・サロン』のこと」(さわやか福祉財団, 2016)と指摘されているように、コミュニティカフェなどをモデルにしたものである。
  • 4)2つのコミュニティカフェについては、田中康裕(2021)も参照。
  • 5)マイパブリックで重要なのはグランドレベル、つまり、「地階・地上・地平」(田中元子, 2017)だとされているが、「下新庄さくら園」、「ひがしまち街角広場」はいずれも1階に開かれている。「下新庄さくら園」は、下新庄鉄筋住宅という団地敷地内に開かれたが、団地以外の人にも立ち寄ってもらいやすいように、あえて団地の敷地の端に建設された。「ひがしまち街角広場」は、千里ニュータウンにおいて地域の中心として位置付けられている近隣センターの空き店舗を活用して開かれている。いずれも、グランドレベルが重視された場所だと言うことができる。なお、グランドレベルへの注目とは、「街角」を作ることだと本稿筆者は考えている。「街角」についてはこちらの記事を参照。
  • 6)もちろん、属性が明確であることが人間関係を円滑にすることにつながる場合もある。逆に、コミュニティカフェのように誰がスタッフで誰が来訪者かがパッとわからない場合、初めて訪れた人は誰に声をかけていいかわからず、入りにくいという意見を聞いたこともある。
  • 7)「ひがしまち街角広場」が結果として多様な機能を担うようになっていることは、例えば、こちらの記事を参照。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。