『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「実家の茶の間・紫竹」から教わったこと

2024年6月、新潟市の「実家の茶の間・紫竹」を訪問しました。この日訪問して感じたことをまとめた文章「地域における助け合いの拠点『「実家の茶の間・紫竹』から教わったこと」を、さわやか福祉財団が発行する冊子『さぁ、言おう』に掲載していただきました。


「実家の茶の間・紫竹」は、新潟市最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」として、2014年10月18日にオープン。任意団体「実家の茶の間」と新潟市の協働事業として、空き家を活用して運営されています。
「実家の茶の間・紫竹」は、

  • 地域における助け合いのためには、他者と親密になることでなく、他者との適切な距離感(矩を越えない距離感)が大切になること
  • 居場所は、このような距離感が心地良いことを身をもって経験するためのものであること

という意味で、地域における助け合いの拠点の新たなモデルを示しています。目指されているのは「『助けて!!』と言える自分をつくる、『助けて!!』と言い合える地域をつくる」こと。

「実家の茶の間・紫竹」で話を伺い、アメリカの社会学者、リチャード・セネットによる親密性の専制の議論を思い浮かべます。

「親密さとはひとつの限られた視野であり、人間関係によせる期待である。それは人間の経験を局所に限ることであり、そこで直接的な生活環境に近いものが至上のものとなる。・・・・・・。親密な付き合いの障害となるものを取り除こうとして人々が捜し求めているのは熱烈な種類の社交性であるが、この期待は行為によって裏切られる。人々が近づけば近づくほど、人々の関係はより社交性の乏しい、より苦痛な、より兄弟殺し的なものになるのである」

「都市は・・・・・・、他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になることが意味のあるものになるフォーラムでなければならない。」
※リチャード・セネット(北山克彦 高階悟訳)(1991)『公共性の喪失』晶文社

「実家の茶の間・紫竹」は、地域における助け合いだけでなく、現在の地域において、公的(パブリック)なものはどのように成立し得るのかという意味においても、1つのモデルを示しています。


見学、視察、調査というものは、相手に負担をおかけしてしまうもの。どうすれば見学、視察、調査をさせていただいた場所にお返しできるのかと考えます。なかなか実践できていませんが、このようなことを思いつつ書いた文章が、思いがけずさわやか福祉財団の方に読んでいただく機会があり、今回、『さぁ、言おう』に掲載していただくことになりました。よろしければご覧ください。