『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

理念の部分的な実現@居場所から考える

哲学者の鷲田清一氏は『濃霧の中の方向感覚』(晶文社, 2019)の中で、次のようにな指摘をされています。

「それは、わたしたちが何かを変えようと思うなら、そういう改革について議論する場そのものが、それをすでに部分的には実現しているのでなければならないということです。たとえば、コミュニケーションのかたちを変えようというときには、コミュニケーションの新しいあり方について語りあう場が、部屋のレイアウトであれ、座席の並べ方であれ、議論の仕方であれ、それをつうじて実現すべきものをすでに実現しているのでなければならないということです。古い会議室では新しい会議のあり方は生まれません。」

「あるべき社会の姿を訴えるときには、そう訴える集団のなかにすでにそのあるべき社会の萌芽が生まれていなければならない。どこにその芽を見つけるか、あるいは植え付けてゆくか。」

この文章を読み、新潟市の「地域包括ケア推進モデルハウス」として開かれた「実家の茶の間・紫竹」の河田珪子さんの言葉を思い浮かべました。
「実家の茶の間・紫竹」では「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子『河田方式「地域の茶の間」ガイドブック』博進堂, 2016)を実現することが目指されています。これを実現するために、初めて訪れた人には「できるだけ外回り」に座ってもらい、茶の間で人々が思い思いに過ごしている光景を見てもらうことを通して、この理念を伝えることが配慮されています。

「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです」。

「実家の茶の間・紫竹」を初めて訪れる人は、まだ理念を十分に理解していないかもしれない。そのような人々をも迎え入れていく「実家の茶の間・紫竹」全体で、理念が実現されているとは言えないかもしれない。
けれども、茶の間の光景は、理念の部分的な実現、理念の萌芽としてそこにある。鷲田清一氏の議論を受ければ、理念が部分的に実現されているからこそ、理念は他の人々に共有されていくことになる。

訪れた人には「できるだけ外回り」に座ってもらうという「実家の茶の間・紫竹」における配慮は、この意識的な実践だと考えることができます。


  • 「実家の茶の間・紫竹」の詳細はこちらもご覧ください。