2024年6月24日、新潟市東区の「実家の茶の間・紫竹」を訪問させていただきました*1)。2016年8月1日に初めて訪問し、その後、何度か訪問する機会がありましたが、訪問の度に新たなことに気づかされる場所です。
地域における助け合い
「ここにはサービスの利用者はひとりも居ない。居るのは‘場’の利用者だけ。」。「実家の茶の間・紫竹」で大切にされている言葉ですが、先日訪問した時に目にしたのは、まさにこの言葉通りの光景でした。昼食の配膳を手伝う、お知らせを掲示する、昼食の食材を買い出しに行くなど、それぞれにできるかたちで運営に関わっている方々。当番は台所の外ではエプロンを外すことになっているため、茶の間で過ごしている方々の中でどなたが当番なのか、お聞きするまでわかりませんでした。
自分はもう歳だけど、ここでは必要としてもらえる。自分はここで成長したし、他の人もそうだと思う。月に何度か当番を担当しているという方から、このような話を伺いました。何歳になっても誰かに頼りにされている、誰かの役に立てているという手応えをもてること。何歳になっても成長できたと思えること。人が尊厳をもって生きるとは、このようなことなのだと気づかされました。これは、誰かが一方的にお膳立てして、相手をお客さん扱いすることとは対極にある姿です。
今、様々な場面で地域における助け合いの必要性が議論されています。しかし、その議論は助ける側と暗に想定される人によってなされている可能性はないか。弱い立場の人をどう助けるかという議論になっている可能性はないか。もしそうであれば、それは助けるための議論であっても、助け合いのための議論でない。弱い立場の人を助けることが重要なのは言うまでもありませんが、助けることと、助け合うことは違うことを、「実家の茶の間・紫竹」の光景は現しています。
助け合いとは、自分が相手を助けると同時に、自分が相手から助けてもらうこと、そのような可能性を想像できること。そのためには、自分から「助けて」と言えることが大切になる。それゆえ、地域における助け合いの拠点として開かれた「実家の茶の間・紫竹」では、「『助けて!!』と言える自分を作る、『助けて!!』と言い合える地域をつくる」*2)ことが目的として掲げられています。
矩(のり)を越えない距離感
自分から「助けて」というのは実は簡単でありません。それゆえ、「実家の茶の間・紫竹」ではこれを実現することが目的として掲げられているわけですが、それでは、どういう状況であれば自分から「助けて」と言えるようになるのか。「実家の茶の間・紫竹」が示しているのは、自分から「助けて」と言えるのは、相手との適度な距離を保てるからというもの。このような距離感を河田珪子さんは「矩を越えない距離感」と表現されています。
一般的には、助け合いとは、相手との距離を縮めて、仲間になることで行われるものと捉えられていることが多いように思います。もちろん、仲間同士の助け合いは重要。けれども、「地域における」という部分に注目するなら、「矩を越えない距離感」が大切である。このような思いの背景には、河田珪子さんらによる30年以上に及ぶ助け合いの取り組みがあります。
河田珪子さんらは、1991年に会員制の有償の助け合い活動「まごころヘルプ」を設立しました。この助け合い活動を通して作られた「まごころヘルプ」のガイドブックは、「他人の家に入るにあたっての心がまえと具体的なアドバイス」(横川和夫, 2004)がまとめられたもの。ガイドブックには、プライバシーを侵さない、プライバシーを他に洩らさないことなどが記されており、これが「実家の茶の間・紫竹」にも継承されています。「まごころヘルプ」について、河田珪子さんは次のように話しています。
「みんな近所の人なんか来てもらいたくないんです。できるだけ交通費かかってもいい、どんな遠くからでもいい。全然知らない人に来てもらいたいっていうのがものすごく多くて。それじゃ助け合いにつながっていかないので、まず私が頼む。代表者の私が傷つかない仕組みであれば、助けてもらえる仕組みであれば、みんなが広がっていくのが早いだろうと思って、まず〔私の〕家に来てもらった。」(※河田珪子さんの発言)
地域における助け合いとして想定されているものの中には、調理、掃除など家の中に入ってもらわないとできないことが多い。けれども、同じ地域の人に家の中に入ってもらった時、自分の家が片付いていないのを見られ、地域に噂として広められるのは嫌。だから、遠くから、知らない人に来てもらいたい。しかし、これでは地域における助け合いにならない。プライバシーを侵さない、プライバシーを他に洩らさないことなど、矩を越えない距離感がなければ、地域における助け合いは実現されないということです。
このことを理解すれば、「実家の茶の間・紫竹」に掲示されている「その場にいない人の話はしない。」、「プライバシーを聞き出さない。」という約束事も違ったかたちで見えてきます。相手と仲間になることを目的とするのであれば、これらの約束事はよそよそしいものに見えてしまうかもしれません。しかし、「実家の茶の間・紫竹」では、人々が仲間になることでなく、矩を越えない距離感を大切にする関係を築くことが目指されている。
ただし、「実家の茶の間・紫竹」は決して昔に戻れと主張しているわけでないことには注意が必要です。矩を越えない距離感を大切にする関係とは、かつての地域に存在したと言われる濃密で、抑圧的な性格をもつものでなく、人々が築いていくべき新たな関係だということ。「『地域の茶の間』の『地域』とは『社会性のある茶の間』という意味」(河田珪子, 2016)が込められていますが、訪問時にお会いした方は、社会性というのは他者との距離感のことで、「実家の茶の間・紫竹」は、それぞれが、多様な距離感をもつ他者との関係を作り直していく場所だと思うと話されていました。
究極の居心地
地域における助け合いが大切だとしても、助け合いが一人歩きしてしまえば、人は役に立つかどうかという有用性で判断されてしまう恐れがある。これに対して、「実家の茶の間・紫竹」では、人は居るだけで尊いのだというさらに深いところが追求されています。これを実現するような場所のあり方を現すのが、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)という表現。訪問時にお会いした方から、ここは大勢の中で一人で居られるのがいいところだという話を伺いました。河田珪子さんからも、以前、次のような話を伺ったことがあります。
「奥様が亡くなられて一人になった方が、・・・・・・、こうやってみんな話してる時にただこうやってる〔テーブルにうつぶせになってる〕んですよ。こうやってる姿見た時ね、普通であれば一人で孤独な姿と思うでしょ。・・・・・・。『お身体、具合悪いですか?』って傍にそっと座って聞いたんですね。『いやぁ、この賑やかなのを自分は楽しんでるんだ』って。子どもの頃、こんなだったって、自分の家が。いっぱい親戚とか集まってね、賑やかで、こんなだったって。『だから今みんなの人の話し声とか、それを味わってるんだ』って男性の方おっしゃったの。」(※河田珪子さんの発言)
「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”」は、居心地が良いのだということ。それゆえ、「究極の居心地の場」と表現されていたのだと改めて気づかされました。
このことは地域における助け合いのために、なぜ、「実家の茶の間・紫竹」という具体的な場所が必要なのかという問いに答えてくれるように思います。これまで、具体的な場所が必要なのは「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築くためだと捉えていましたが、先日訪問して、これは表面的な理解だったと思わされました。
「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”」は、他者との関わりに参加することが強いられず、かといって、他者との関わりが遮断されるわけでもないという意味で、矩を越えない距離感が大切にされるからこそ実現されるもの。そして、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”」は「究極の居心地の場」である。つまり、矩を越えない距離感を大切にすることは、実は居心地が良いのだということ。このことを身体によって体験するために、「実家の茶の間・紫竹」という具体的な場所に身をおくことが大切にされているのだと考えることができます。
視線と会話
「究極の居心地の場」を実現するため、「実家の茶の間・紫竹」には、茶の間に掲示されている「どなたが来られても『あの人だれ!!』という目をしない。」、「その場にいない人の話はしない。」、「プライバシーを聞き出さない。」という約束事、気候や天候に関わらず玄関の戸を開け放しておくこと、テーブル配置は会議室風のロの字型は避けて、戸を開けた時に視線が集中しないように5~6人ずつで座れるようにすること、コップを洗わせて申し訳ないと思わせないように、また、感染防止のために名前を書いた紙コップを使うことなどの作法、そして、「当番全員の最も大切な役割」である「目配り、気配り、気遣い」など、数多くの配慮がされています(河田珪子, 2016)。「実家の茶の間・紫竹」を見学する方の中には、ここは「特別なことをしていない」という感想をもつ人がいるとのこと。もし、特別なことをしていないというのが「何もしていない」という意味なら、「実家の茶の間・紫竹」ではこのように数多くの配慮がされていることを見落としているように思います。
先日訪問して、約束事、作法、当番の「目配り、気配り、気遣い」には、視線と会話に関連づけられるものが多いことに気づきました。これは、先に書いた居心地の良さを身をもって経験するための具体的な方法として、視線と会話が重視されているということではないかと。
視線と会話は、居心地の良さも、居心地の悪さも生み出してしまうもの。視線は、「あの人だれ!!」という視線を向けることが相手を拒絶することになれば、反面、相手を見守ることにもなる。「実家の茶の間・紫竹」では茶の間にいる人々の姿を見てもらうことによって、「色んな人がいていいんだっていうメッセージ」を伝えることも考えられています。
「戸を開けた時、みんなが『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする。だから、来てくださった方にどこに座ってもらうかまで考えてる。初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」(※河田珪子さんの発言)
会話にも似たような側面があります。会話が大切なコミュニケーションの方法であることは言うまでもありませんが、その場にいない人の噂話で盛りあがることは、その人を知らない人を排除してしまうことになる。自分がいない時には、自分もこのように噂されているのかと感じる場所には怖くて立ち寄れない。プライバシーを話題にすることは、相手との距離を縮めて仲間になる方法だとしても、「実家の茶の間・紫竹」ではそのような関係を築くことが目指されていない。
「実家の茶の間・紫竹」で目指されているのは、たとえ会話をしないでも「孤独感を味わうことがない」場所にすること。先に紹介した、ここは大勢の中で一人でいられるのがいいところで、駅の待合室と似ていると話されていた方は、まさに、「実家の茶の間・紫竹」がこのような場所になっていることに魅力を感じておられるように思います。
会話をしないでも「孤独感を味わうことがない」のはなぜか。「実家の茶の間・紫竹」の茶の間には様々な大きさ、高さ、形のテーブルが、様々な向きに置かれており、座る位置や姿勢によって他者との距離を調整できることも理由かもしれないと思いますが、何よりも、当番によって見守られているという安心感が重要だと考えています。
「当番さんたちに大事なことは、〔一人を〕味わってる人なのか、誰も話をしてくれる相手もいなくて、溶け込めなくて孤独でいるのかの見極めができないといけない。」(※河田珪子さんの発言)
会話の相手がいなくて、あるいは、会話が続かなくて、孤独感を味わってしまう人がいる可能性は常にあるということ。それゆえ、当番は茶の間の人々を見守っている。見守りというかたちでの視線が、会話を支えていると言えるかもしれません。
会話に関して、先日の訪問で印象に残ったのが昼食です。新型コロナウイルス感染症を受けて、「実家の茶の間・紫竹」では今でも様々な感染防止の対策がとられています。その1つが、黙食をすること。昼食時には、テーブルに3~4人ずつ散らばって座り、話をせずに食べる。この時にだけ、茶の間にはBGMの音楽が流されます。「実家の茶の間・紫竹」の黙食は、会話の間がもたないという居心地の悪さとも、満員電車の中がシーンとしているのとも異なるということを感じました。感染防止の対策というやむを得ない事情から始められたものですが、結果として黙食は、会話をしなくても居心地の悪い思いをすることなく、同じ場所にいられる状況を、言い換えれば、会話をしなくてもいい状況を安心して味わえる状況を、身をもって経験する機会を生み出したのかもしれないと考えていました。
言葉
「実家の茶の間・紫竹」を見学、視察、調査する人の多くが考えるのは、このような場所を、他の地域にどのようにして開けばいいのかということ。しかし、「まごころヘルプ」の頃から蓄積されてきた約束事、作法、当番の「目配り、気配り、気遣い」などの方法をそのまま真似するだけでは、「実家の茶の間・紫竹」のような場所を開くことはできないかもしれません。
この点について、現時点では確かなことを言い切る自信はなく、これからも考えていきたいことですが、まず、「実家の茶の間・紫竹」では、一人ひとりの尊厳を大切にするために、「矩を越えない距離感」を大切にすることが目指されていることをおさえる必要があると考えています。
そのうえで、それぞれの地域なりの「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築いていく。しかし、最初は「矩を越えない距離感」というのは言葉によって表現されているだけで、具体的な中身はない。そういうかたちで運営を始めざるを得ませんが、実際に運営を始めると様々な出来事が発生していく。その中には、「矩を越えない距離感」には相応しくないと思うような出来事も発生すると思われます。その時に、このような出来事が再び起こらないように何らかの対応をする。それが定着したものが、約束事や作法。それと同時に、「矩を越えない距離感」という言葉の中身が、このような具体的な出来事に直面することを通して、徐々に肉付けされていく。
この仮説が間違いでなければ、大切なのは、最初は言葉として方向性を示すものであった「矩を越えない距離感」というものを、運営において生じる具体的な出来事によって肉付けしていくことで、豊かなものに育てていくというプロセス。そして、「矩を越えない距離感」には相応しくないと思うような出来事が起こった時には、その場で対応し、それを約束事や作法として定着させていくプロセス。もしその約束事や作法に問題があれば、柔軟に変えていくプロセスということになります。これこそが、「実家の茶の間・紫竹」で大切にされている現場から学ぶ、人から学ぶ姿勢と言えるかもしれません。河田珪子さんは「まごころヘルプ」のガイドブックについて、次のように話されていました。
「色んな事象にぶつかるじゃないですか。癌の末期の人が切なくて、もうやめたいなんて言って来たりね。そういうのも全部、体験としてみんなでもった時、研修に事例がどんどこ入っていくわけ。・・・・・・。それを今度体験として、これ〔ガイドブック〕に肉付けしていくわけ。」(※河田珪子さんの発言)
「実家の茶の間・紫竹」は2024年10月に運営を終了します。一人ひとりがそれぞれのやり方で「実家の茶の間・紫竹」から教わったことを描いていくこと。その重ね合わせによって「実家の茶の間・紫竹」を立体的なものとして描くことができれば、「実家の茶の間・紫竹」を継承することに寄与できるかもしれない。この文章が、ささやかでもその1つのピースになればと願っています。
■注
- 1)「実家の茶の間・紫竹」は、新潟市最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」として、2014年10月18日に開かれた場所。空き家を活用して運営されている。詳細はこちらのページ、及び、田中康裕(2021)を参照。
- 2)「実家の茶の間・紫竹」に掲示されている「『実家の茶の間・紫竹』終了のプログラム(予定)のお知らせ」より。
■参考文献
- 河田珪子(2016)『河田方式「地域の茶の間」ガイドブック』博進堂
- 篠田昭(2023)『「実家の茶の間」日誌(2020年2月~2022年10月):み~んなで生きてこ』幻冬舎
- 田中康裕(2021)『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』水曜社
- 横川和夫(2004)『その手は命づな:ひとりでやらない介護、ひとりでもいい老後』太郎次郎社エディタス
※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。