『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

大阪府豊中市における郊外住宅地開発とお寺

大阪府が開発した千里ニュータウンでは、政教分離の考えから宗教施設は計画されませんでした。千里ニュータウンがモデルとしたクラレンス・ペリー(1975)の近隣住区論において、住区の中心に配置される施設の1つとして教会があげられています*1)。これに対して、千里ニュータウンでは住区の中心に近隣センターが配置されました。これは、千里ニュータウンの近隣住区論が、クラレンス・ペリーの近隣住区論との違いの1つとなっています*2)。

千里ニュータウンでは宗教施設が計画されませんでした。しかし、郊外住宅地の開発にあたって宗教施設を街の核に位置付けようとした事例があります。ここでは、大阪府豊中市における阪急沿線の住宅地開発、島熊山の住宅地開発をご紹介したいと思います。

東光院萩の寺

東光院萩の寺は、阪急宝塚線の曽根駅の北東に位置する曹洞宗常恒会別格地寺院。元々は大坂豊崎の里(現在の北区中津)にありましたが、1914年(大正3年)、現在地に移転したという歴史があります。この移転には、阪急宝塚線の沿線に郊外住宅地を開発していた小林一三氏が関わっています*3)。
東光院萩の寺のウェブサイトでは、この経緯が次のように紹介されています。

「宝塚線が開通し、沿線の宅地開発が進む大正元年、地域の繁栄を願う小林一三(こばやしいちぞう)翁の肝煎りで、別院があった豊中・曽根に寺基を移転します。町の核として有力な寺院を設置し、寺を精神的なよりどころとして住民の連帯感と沿線への愛着心を高めようという、一三翁の町づくり構想に基づく招聘でした。」
※東光院萩の寺「阪急電車敷設による移転と沿線七福神(西国七福神)霊場の創設」のページより。

また、東光院萩の寺を含む阪急宝塚線沿線の7つの社寺と、阪急電鉄が阪急七福神会を結成し、「西国七福神集印めぐり」が始められました。

  • 清荒神・清澄寺(布袋尊):最寄りは清荒神駅
  • 中山寺(寿老神):最寄りは中山観音駅
  • 呉服神社(恵比寿神):最寄りは池田駅
  • 瀧安寺(弁財天):最寄りは箕面駅
  • 西江寺(大黒天):最寄りは箕面駅
  • 圓満寺(福禄寿):最寄りは蛍池駅
  • 東光院萩の寺(毘沙門天):最寄りは曽根駅

豊中不動尊

「豊中のお不動さん」の愛称で親しまれている豊中不動尊は、千里ニュータウン新千里西町の西側の島熊山に鎮座する真言宗のお寺。境内には、万葉集に詠まれている「玉かつま 島熊山の夕暮れに ひとりか君が 山路越ゆらむ」の歌碑が建てられています。
1962年(昭和37年)、豊中牧野建設(現・牧野組)の牧野庄太郎氏が、豊中駅前市街地整備のため移転を余儀なくされた民間信仰の不動尊守護尊教会を現在の地に移転し、豊中不動尊として建立したという歴史があります。豊中牧野建設は島熊山一帯の住宅地開発を行なっており、住宅地として姿を現しはじめた1962年(昭和37年)に、最初に豊中不動尊が建立されました。豊中市立小路小学校のウェブサイトでは、牧野庄太郎氏の次の言葉が紹介されています。

「阪急の創始者である小林一三先生との出会いもあり、豊中を阪急沿線一の良い町にしようと思っていました。
昭和27年頃、私は終生の仕事としてこの地を開発しようと発起しましたが、当時、小林一三先生すら反対されるような未開の土地でした。手をつけ始めると次から次へと難工事にぶつかり、指揮者の私自身が体を張って工事に打ち込んだものでした。
・・・・・・
この島熊山一帯は、万葉集にも歌われてた由緒ある山野でしたので、これが私の気持ちをなごませ、支えもしてくれたように思います。心をこめて町づくりをすすめようとね。
住宅地として姿を現しはじめた頃、丁度、昭和37年頃にまず最初に、この地に工事の安全と住民の安寧・発展を祈願して豊中不動尊を建立しました。」
※小路小学校「地域開発に当たられた牧野庄太郎さん(当時(株)牧野組会長)の話」(2021年1月5日)のページより。


「寺を精神的なよりどころとして住民の連帯感と沿線への愛着心を高め」るために建立された東光院萩の寺、「工事の安全と住民の安寧・発展を祈願」して建立された豊中不動尊。郊外住宅地の開発において、お寺に重要な役割が期待されたことがわかります。

最初に、千里ニュータウンで宗教施設は計画されなかったと書きましたが、千里ニュータウンにも宗教にまつわる場所は存在します。
千里ニュータウンの中心にあり、ニュータウンとして開発されなかった上新田には寺社があります。例えば、上新田の天神社は「千里の天神さん」として、千里ニュータウンの人々が初詣などに訪れる場所になっています。
また、新千里西町の近隣センターにあった千里西町マーケットの屋上には、大阪府の承認を得て「団地神社」が建立されました。千里西町マーケットはマンションとして建て替えられましたが、団地神社の鳥居は、上新田の天神社の御旅所に現在も残されています。

哲学者の鷲田清一氏は、次のように、「古い都会にあってニュータウンにないもの」の1つとして宗教施設をあげています。

「古い都会にあってニュータウンにないものが三つある。大木と、宗教施設と、いかがわしい場所である。
これら三つのものに共通しているものはなんだろう。
大木は、せいぜい親子三代の同時代をはるかに超えてそれとは別に流れる時間、自然の悠久の時間に属している。お寺や社や教会といった宗教施設は、わたしたちが日常生活のなかで共有しているごくふつうの世界観や感受性とは別次元の、脱俗的な価値や超越的な価値を宿している。近づくのがちょっと怖いような薄暗くていかがわしい場所は、鬱屈した不良たちがたまり場にする都市の闇を象徴している。
大木と宗教施設といかがわしい場所に共通しているのは、どうもこの世界の〈外〉に通じる入口や裂け目であるということらしい。」
※鷲田清一(1998)『普通をだれも教えてくれない』潮出版社

ここで見たように、千里ニュータウンには宗教施設が存在するわけですが、このことはかえって、街には宗教にまつわる場所が欠かせない、ということを裏付けているように思います。


■注

  • 1)ただし、教会は幹線道路の境界部分にも配置することが考えられている。
  • 2)クラレンス・ペリー(1975)は、住区における店舗の配置について「住区の周辺、できれば交通の接点か隣りの近隣住区の同じような場所の近くに配置すべきである」と述べている。住区における店舗の配置も、千里ニュータウンの近隣住区論と、クラレンス・ペリーの近隣住区論との違いの1つである。ただし、千里ニュータウンでも、最後に開発された竹見台と桃山台では、2つの住区の近隣センターが幹線道路を跨ぐように向かい合って配置されており、クラレンス・ペリーの近隣住区論に近くなっている。
  • 3)内田樹氏がブログで以下のように言及しているお寺は、東光院萩の寺だと思われる。「釈老師から伺った話では、かつて千里ニュータウンが造成されたときに、その巨大団地に寺社が一つも含まれていないことに激怒したある僧が、阪急電鉄の小林一三に『霊的呪鎮をしない土地に人をすまわせるとはどういう了見だ』と噛みついたことがあった。小林一三はさすが大人物で、その僧に千里山の頂上を与えて、『じゃあ、あんたがそこに寺を建てなさい』と言った。そのお寺の住職さんがいま三代目で、釈老師のご友人だそうである」。内田樹の研究室「オフなので三度寝」2006年11月1日より。

■参考文献

■参考ウェブサイト