『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

日々の活動や思考の蓄積としてのアーカイブ

先日、ある方が「本当に、ニュータウンスケッチとディスカバーのウェブサイトは貴重なアーカイブに育ってきたと思います」と書いてくださいました。

日々の活動や思考を蓄積していくことで、アーカイブを作りあげるということ。これはアメリカのグリーンベルト(Greenbelt)、イギリスのミルトン・キーンズ(Milton Keynes)など、海外の計画住宅地・ニュータウンの試みから教わったことです。
海外の計画住宅地・ニュータウンから教わったことは、

  • オフィシャルな視点からの歴史だけでなく、その町における暮らしの歴史も重要であること
  • そのためには、日々の暮らしの記録を蓄積することが重要であること

つまり、歴史とは自分たちの手の届かないところにあるものではなく、自分たちの手で作りあげていくものだということです。

千里ニュータウンでの活動も、日々考えたことも、1つひとつを取り出してみればささやかなことかもしれません。けれども、その時々で記録することを継続し、蓄積していくことで参照にできる資料としての価値をもってくる。

これは、千里ニュータウンの略年表人口・世帯数などの統計データ、公園や池のリストなどの情報は、千里ニュータウンのことを知りたい人にとっての情報となる。参照にできる資料というのは、まずこのような意味があります。

けれども、それだけではありません。情報の蓄積は一般の方々にとっての情報となると同時に、今までどんな活動をしてきたのか? どこを訪問したのか? あの時どんなことを考えていたのか? というように、「自分が知りたいと思った情報が、そこにある」という意味で、自分自身が参照できる情報にもなる。
自分自身の思考というものは時間によって変わっていくもの。その時々で考えたことを書き留めたブログを振り返ることで、「この時は、こんなことを考えていたのか」と思わされることがあります。これは、元々は自分自身で書いた文章であっても、それが時間の経過に伴って蓄積されていくことで、自分自身の手を離れたものとして立ち上がってくるという経験と表現してもよいと思います。

日々の活動や思考の蓄積は、自分自身にとって意味ある情報となる。だからこそ、アーカイブを自分たちの手で作りあげていくことが重要なのだと思います。