先日、大船渡市末崎町の大田団地、門之浜湾を歩きました。
末崎町内では珍しい平坦な地形のあるこの場所には、かつては製塩工場がありました。「居場所ハウス」に来られる方の中も、製塩工場で働いていたという男性がいます。
製塩工場は東北製塩化学工業で、1955(昭和33)年に創業。上で紹介した男性は現在75歳くらいで、学校を出た後「第一号」で製塩工場に就職したとのこと。製塩工場は大船渡市の誘致企業第一号でしたが、わずか6年で閉鎖されたという経緯があります。
前年〔昭和三二年〕十一月から、末崎町門之浜地内に建設されていた東北製塩化学工業は、地域開発の脚光を浴びて、九月に、市民待望の操業開始となった。
当市沿岸の海水塩度が他に比して高いこと、また、塩の国内自給政策に即応して、東北地方の地域的な需給の安定を図ろうと計画され、電気加圧式製塩法として、三十一年にその設置を決定していたものであった。
工場建設費は七億三千万円、九棟千三十五坪で、年間二万五千トンの食料塩の生産が見込まれている。
*大船渡市市制施行五十周年記念誌編集委員会編『大船渡市 五十年の歩み』大船渡市 2005年
市民の熱い期待を集めて操業開始したこの工場は、主として電気製塩法によって年間二五千トン(二億七千万円)を生産目標にしてきたが、内外のさまざまな悪条件が重なり、その企業努力もかいなく、ついに閉鎖に追い込まれた。
その悪条件とは、次のような事項であった。
・外国からの安い輸入塩に押された。
・専売公社の買い上げ価格が下落した。
・生産費の六割を占める電気料金が値上げされた。
・設備が老朽化し故障しがちとなった。
・工場からの排出汚水による農作物や養殖ノリ・カキへの被害補償が大きくなった。
*大船渡市市制施行五十周年記念誌編集委員会編『大船渡市 五十年の歩み』大船渡市 2005年
製塩工場が閉鎖された後、その跡地では1970(昭和45)年から県住宅供給公社による分譲住宅の建設が始められました。これが現在の大田団地となります。
大田団地は1971年(昭和46)年から宅地の分譲が開始。約250戸が建ち並ぶ新興住宅地でしたが、東日本大震災の津波により大きな被害を受け、100戸以下にまで減少しました。
震災から5年が経過した大田団地は、海側がが土砂の仮置き場として利用。そして、浸水域の中央を東西に横切るように道路の新設工事が進められるなど、大きく景色が変化しています。しかし、被災跡地を歩けば、かつて住宅地であった名残を見ることができます。
被災跡地をどのように活用するのかについては、公園になるという話、トマト工場が建設されるという話を聞いていましたが、2016年8月10日に「小河原地区の被災跡地利用に関する懇談会」が開催され、跡地は産業用地として整備されることになったとのこと。現在建設されている道路と海岸線の間の部分が産業用地として整備されるようで、トマト工場もその一環として建設されることになると思われます。
市の買い取り見込みによると、小河原地区の被災跡地数は155筆で、面積は約4.1ヘクタール。住宅団地であったことから防集での買取地が多く、他地区と比べて地続きになっているという。
この被災跡地をめぐって市と地域が進めてきた検討では、当初、運動ができる大規模な広場を方向付けていた。その後、跡地の有効活用や雇用創出、産業振興、地域経済の活性化を見据え、企業誘致に向けた産業誘致に変更。「産業用地の整備」とする方針をまとめた。
*「被災跡地「産業用地」に、末崎町の小河原地区」・『東海新報』2016年8月12日
大田団地が位置する門之浜湾では、現在、東西の両側から防潮堤が建設中。高さは12.8mと、近寄ればその高さには圧倒されてしまいます。将来的には海岸線
海が見えなくなってかえって危険という意見、防潮堤に使うお金があればもっと別の使い道があったのにという意見、高い防潮堤を建設するなら(その内側は安全ということなので)被災跡地の利用は柔軟であってよいのではないかという意見、あるいは、これだけの防潮堤があれば津波の際に逃げる時間が稼げるという意見など、賛否両論があるかと思います。立場により意見は異なると思いますので、その正否を一概に言うことはできませんが、後から振り返った時「海が見えた時はどんな感じだったのか」の参照となる記録を残しておくことは意味あることだと思い、何枚かの写真をご紹介させていただきます。