『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

コミュニティについて@居場所ハウス

「居場所ハウス」は5月3日(水・祝)に「鯉のぼり祭り」という大きな行事を開催した後、2日間の休みを挟み、5月6日(土)から運営を再開しました。
ゴールデンウィーク中の5月6日(土)、5月7日(日)は来訪者も少なかったですが、週明け5月8日(月)、9日(火)はオープンの10時からほぼ来訪者が途切れることはありませんでした。2日間には主に次のような出来事がありました。

5月8日(月)、和室では朝から4人の女性が同級会の打合せ。お昼過ぎまで打合せが続き、食事をして帰って行かれました。偶然、知り合いがいたようで、久し振りの再開の場年も。午後からは参加者有志の主催で続けられている草月流生け花教室が行われました。生け花教室が終わった後、いつものように講師・参加者はお茶の時間。ちょっとした打合せに使いたい、何人かで集まって活動がしたい。「居場所ハウス」はそのような場所にもなっています。

5月9日(火)は朝から近所のUさんがお孫さんと一緒にやって来ました。ゴールデンウィークを利用して帰省していたとのこと。Kさんも2人の男の子と一緒に遊びに来ました。3人の子どもたちがいる時間、周りの大人は子どもたちに声をかけたり、抱いたり、走り回っているのを見守ったり。お昼には何人かの人が食事に来られました。

お茶を飲みながら話をしたり、ちょっとした打合せをしたり、何人かで集まって活動をしたり。あるいは、食事をしたり、子どもたちと遊んだり、子どもたちが遊ぶのを見守ったり。日常の暮らしの豊かさを感じさせられる光景です。

2日間の「居場所ハウス」の様子を見ていて、次のようなことを感じました。

お茶を飲みながら話をしたり、ちょっとした打合せをしたり、何人かで集まって活動をしたり。あるいは、食事をしたり、子どもたちと遊んだり、子どもたちが遊ぶのを見守ったり。こうした光景が見られるのは「居場所ハウス」だけに限りませんが、こうした関係の中に身をおきながら地域で暮らせることは豊かなことだと思います。しかし、この豊かさはお金を出して買えるものではありません。誰にでも同じように豊かさがもたらされるわけではなく、ある程度、地域への関わりが求められる。これまで地域でどのように住んできたのか、どのような関係性を築いてきたのか、周りからどのように見られているかという履歴の上に成立している。履歴は少しずつ変えていける可能性があるとしても、このような関係を煩わしいと考える人がいるのも不思議ではありませんし、かつて(そして現在でも)人はこうした煩わしさから逃れるために都市に出ていったというのも事実。人間関係が真っさらな郊外の団地暮らしが輝いて見えたのも、そう昔のことではありません。
「居場所ハウス」で生まれている日常の暮らしの光景を豊かなものだと感じる度に、「地域がもつこの豊かさは煩わしさとセットなのか?」、「いいところだけ取り出すことはできないものか?」と思わずにはいられません。
コミュニティは便利な言葉で、今ではコミュニティを称揚する流れがありますが、コミュニティとは煩わしさもあわせ持っており、その煩わしさから逃れようとした人々がいたという歴史は忘れてはならないと思います。この歴史を忘れて安易にコミュニティを称揚することは、人々を押しつぶす重苦しいものを生み出すだけであり、また、そこから逃れようとする人々を生み出すという歴史を繰り返すだけ…


この点について、「居場所ハウス」の今後の課題になることとも関連して、考えるべきは2つあると思います。1つは、今なぜコミュニティが称揚されているのか? ということ。もう1つは、煩わしさを少しでも軽減する工夫は可能か? ということ。

1点目については、コミュニティがしっかりした地域は自然な見守り、助け合いが行われるため、犯罪も少なく、子どもの教育にもよく、歳をとっても入院したり、施設に入居したりする期間を短くすることができる。特に高齢化が進む日本では、健康寿命を延ばし、社会保障費を抑えることは喫緊の課題ですが、コミュニティは何かを実現するための手段ではない。
もしコミュニティが(社会保障費を抑えるために)健康寿命を延ばすことが目的であるならば、健康寿命を延ばせる薬でも、治療でも、代替できることになります。しかし、コミュニティはこうしたものと横並びにあるものなのか? 場合によってこれらに取って代われるものなのか? コミュニティを何かを実現するための手段として捉えて称揚することは、かえってコミュニティの価値を損なってしまうことにつながるのではないかと思います。

コミュニティと一口に言っても、それは結局どのようなものなのか? 人々のどのような関係が築かれているのが好ましいのか? というのが2点目に関わってきます。
この点については、新潟市の「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ)である「実家の茶の間・紫竹」を主宰するKさんの、「矩を越えない距離感」を大切にする関係という言葉が思い出されます。従来の人間関係を煩わしいものとして根こそぎ捨て去るのでも、自分を押し殺して周りに同調するのでもない関係。みなが仲良くなるのでも、仲間以外を他人と退けるのでもなく、たとえ仲間になれなくても互いに気持ちよく居られるような関係。
上に書いたように「居場所ハウス」ではお茶を飲みながら話をしたり、ちょっとした打合せをしたり、何人かで集まって活動をしたり。あるいは、食事をしたり、子どもたちと遊んだり、子どもたちが遊ぶのを見守ったりというような豊かな光景が見られます。このような光景が見られることは紛れもない事実なので、このような関係を多くの人に(その中には仲間にはなれない人も含まれるかもしれない)どうやって広げていくかを、次の段階として目指していければと思います。

(社会保障費を抑えるために)健康寿命を延ばすためにコミュニティを称揚するのではなく、「矩を越えない距離感」を大切にする関係に身をおきながら暮らすことで、結果として健康寿命が伸びていること。そのような地域に住めたら豊かだなと思います。