『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

人を信頼することがベースにある社会

先日、「まちの居場所」と制度・施設についての記事を書きました。制度・施設は社会を成立させるために必要なものですが、時として制度・施設は人々振る舞いを抑え込んでしまう息苦しいものに感じてしまう。制度・施設との関係を考えるとき、モヤモヤとするのはこの部分です。

これについては制度・施設を生み出す社会について、その社会が人を信頼することをベースとして組み立てられているか、それとも、人を疑うことをベースとして組み立てられているかの違いがポイントになるような気がします。

社会が人を信頼することをベースとして組み立てられているというのは抽象的な表現ですが、例えば、次のような時に感じることです。
ヨーロッパの街を訪問して気づくことの1つは、公共交通の仕組みが日本とは大きく異なること。日本では改札機を通って駅に入場したり、乗車・降車時に運賃を支払ってトラム・バスに乗りますが、ヨーロッパではそもそも乗車・降車時の改札というものが存在しない。

ヨーロッパの駅には改札口はありません。写真はスイスのチューリッヒ(Zurich)にあるスターデルホッフェン(Stadelhofen)駅。建築家のサンティアゴ・カラトラバが設計した駅です。駅は高低差のある部分にあり、1階レベルに3つのホーム。改札口がないため周囲の街とホームとが連続しており、街の広場の中に電車が停まっているような雰囲気。
ホームの上の歩道、ホームをまたがるブリッジにより人はあらゆる方向からホームにアクセスしたり、ホームを通り過ぎたりすることができます。駅は人々が行き交う街の交差点のような場所だという印象を受けました。また、スターデルホッフェン駅の地下には商店が並ぶモールになっています。

日本でも地方では、例えば、一ノ関と気仙沼間のJR大船渡線のいくつかの駅には改札はありませんが、これらの駅では下車する時に車掌さんが検札する点が、ヨーロッパの駅とは異なります。

写真は同じくスイスのジュネーブ(Genève)で撮影したものですが、トラム、バスについてもヨーロッパでは乗車・降車時に改札が行われないため、どの扉からも乗車・降できるのが、日本との違いです。

ヨーロッパでは乗車・降車時に改札行われないとしても、切符を購入しているのが前提とされている。時々車内を車掌さんが巡回して切符の検札を行い、もし切符を持っていなければ罰金を取られることになりますが、必ずしも車掌さんが巡回して来るわけではない。「検札されなくても切符を購入するものだ」という人を信頼することがベースになって社会が組み立てられているという印象を受けます。ヨーロッパはキリスト教という一神教に基づいた個人が成立していると言われますが、それがここにも現れている気がします。

「検札されなくても切符を購入するものだ」という信頼ベースで組み立てられている社会。それに対して、乗車・降車時に必ず改札を通すことで、個人の意識に関わらず無銭乗車ができないようにと考えられて組み立てられている社会。

もちろん、ヨーロッパのように車掌さんが時々しか検札しなければ、無銭乗車する人を見過ごしてしまうのではないかという意見はあると思います(これこそが、人を疑うことがベースになる思考ですが)。けれども、車掌さんが検札しなかったことで見過ごす無銭乗車によって受ける被害額と、無銭乗車を完璧に防ぐため駅に改札機を導入する費用。これらを比べた時、どちらが大きいだろうかと考えてしまいます。

人を信頼することがベースになる社会、人を疑うことがベースになる社会と表現するのは言い過ぎかもしれませんが、人を信頼することがベースになければ風通しのよい制度・施設は作れないのではないのか。人を疑うことがベースにあり、人の不正をいかに防止するかという発想からスタートするのでは、風通しのよい制度・施設は作れないのではないか。
もしも日本ではヨーロッパのような個人が成立していないとすれば、そのような国で人を信頼することがベースとなる風通しの良い制度・施設はどのように成立させ得るのか。「まちの居場所」と制度・施設の関係を考えていく上で、重要なポイントではないかと思います。