『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

日常の場所を実現するために@居場所ハウス

少し前、「居場所ハウス」に来られている高齢の女性、2人から次のような話を伺いました。2人とも東日本大震災の津波の被害を受け、「居場所ハウス」の近くに高台移転して来られた方です。

1人の方は次のように話されていました。

「ここに来るの楽しみ。昔みたいに隣の家に行くこともないから。今は隣の人もわからない。」

この方は以前、昔の家は縁側があり、前を通りかかった人に寄っていかないかと声をかけていたが、今の家は扉が閉まってるとも話されていました。

もう1人の方は、「居場所ハウス」は用事がなくても来ていい場所だという話に対して、次のように話されてていました。

「〔特に用事がない時に〕1回来たことがある。そうすると、〔居場所ハウスにいた人に〕「今日、何?」って言われた。それでドキっとした。何?と聞かれても、返事のしようがないから。」


お2人の話からは大切なことに気づかされます。

1つは、震災前後での近所づきあいの変化。
震災前、近所の家は気軽に立ち寄れる場所だったが、今はそのような関わりがなくなってしまったこと。高台移転により、近所の人をあまり知らないという状況もありますが、住宅の造りの変化、つまり、以前は縁側のように外部に開かれた場所があったが、現在の家は外部に対して閉鎖的になっていることも大きな要因です。
この方は毎日のように「居場所ハウス」に来てくださるのですが、この方にとって「居場所ハウス」は地域の人との関わりを持てる接点になっていると考えることができます。

もう1つは、だからこそ、2人の方は「居場所ハウス」に対して、用事がなくても訪れることができる場所になることを期待されていること。そして、「今日、何?」と言われた時、返事のしようがなくてドキッとしたという発言は、人は自らの行為に対して何らかの名分を必要とするということに気づかされます。
何らかの活動に参加したり、食事に来たりする場合は、活動に参加する、食事をするというわかりやすい名分があります。それに対して、用事がないけれど来たというのは、このようなわかりやすい名分はありません。用事がなくても訪れることができる場所というのは、脆い基盤の上にかろうじて成立しているということです。
だからこそ、その場所にいる人が迎える姿勢をとることで、名分を不要とすることを意識する必要があるのだと思います。