今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大とその対応について、建築学を専攻した者が強く感じたことは、今回の出来事はリアルな場所が大きく変わっていく転換点になるのではないかということです。そうだとすれば、転換点となる現在体験したことや考えたことをなるべく記録しておくことが大切な作業になると考えました。
いずれワクチンが開発された後には、新型コロナウイルス感染症のことなど何事もなかったように以前の暮らしが戻ってくる可能性、つまり、現在はリアルな場所にとっての転換点にはならなかった可能性もあります。その場合でも、現在の自らの考えが的外れだったか否かを振り返る意味でも、記録は大切だと考えています。
大学の時、製図の演習がありました。演習では住宅(一戸建て住宅)、ポケットパーク、小学校、オフィス、ホール、美術館、共同住宅などの課題が出されたのを思います。
建築の基本となる代表的な例としてこれらの課題が出されたと思いますが、住宅以外の場所や施設は、新型コロナウイルス感染症への対応として休館・休校の措置が取られたり、訪問自粛が要請されたりしたことに気づかされます。つまり、新型コロナウイルス感染症への対応は、多様な場所や施設と関わらずに暮らすことの要請だったと言えます。病院などの医療施設や高齢者施設が閉鎖されることはありませんでしたが、入院患者や入居者の訪問が禁止されるなど、施設との関わりは大きく制限されました。
2020年5月25日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応として出されていた全国の緊急事態宣言が解除されました。しかし、第二波、第三波のリスクがあるとされ、厚生労働省により「新しい生活様式」が公表されています。「新しい生活様式」では基本的な感染対策として2メートル(最低1メートル)の身体的距離(フィジカル・ディスタンシング)の確保、マスクの着用、手洗いの3つがあげられた上で、日常生活や働き方として次のような実践例があげられています。
■通販も利用
・1人または少人数ですいた時間に
・電子決済の利用
・計画をたてて素早く済ます
・サンプルなど展示品への接触は控えめに
・レジに並ぶときは、前後にスペース■娯楽、スポーツ等
・公園はすいた時間、場所を選ぶ
・筋トレやヨガは自宅で動画を活用
・ジョギングは少人数で
・すれ違うときは距離を取るマナー
・予約制を利用してゆったりと
・狭い部屋での長居は無用
・歌や応援は、十分な距離かオンライン■公共交通機関の利用
・会話は控えめに
・混んでいる時間帯は避けて
・徒歩や自転車利用も併用する■食事
・持ち帰りや出前、デリバリーも
・屋外空間で気持ちよく
・大皿は避けて、料理は個々に
・対面ではなく横並びで座ろう
・料理に集中、おしゃべりは控えめに
・お酌、グラスやお猪口の回し飲みは避けて■冠婚葬祭などの親族行事
・多人数での会食は避けて
・発熱や風邪の症状がある場合は参加しない■働き方の新しいスタイル
・テレワークやローテーション勤務
・時差通勤でゆったりと
・オフィスはひろびろと
・会議はオンライン
・名刺交換はオンライン
・対面での打合せは換気とマスク
※厚生労働省「新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」を公表しました」のページより。
自宅以外での場所や施設では一人ひとりが「新しい生活様式」に従うことが要請されることになりますが、同時に場所や施設においても感染防止のための様々な対策がなされています。
例えば、居合わせた他者との距離を確保するためにテーブルを2メートル間隔で配置する、会話禁止で1人でのみ入店可能、テーブルの間にアクリル性の仕切り板を設置する飲食店も開かれているようです。長居しないよう椅子が撤去された図書館もあるようです。今後も感染防止のために様々な対策が取られると思います。
現時点ではこれらの対策を否定することはできませんが、感染防止の対策が徹底した場所や施設はどうなるのか。
サードプレイスの概念を提唱するアメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグ(2013)は、アメリカの居酒屋を取り上げた章で、居酒屋を「致命的な居酒屋」、「BYOFの居酒屋」、「サードプレイスの居酒屋」の3つのタイプに分類しています。
■「致命的な居酒屋」:
「こういう店にいる客は、不機嫌な顔をしている。「親しみやすい居酒屋」であるべき場所で、客はエレベーターに乗り合わせた他人どうしのように、互いにわれ関せずを決めこんでいる。新米の客が直面するものは、生き物の集合体というより、蠟人形館にそっくりだ。この種の店とその陰気な棲息者たちは、社交上の欲求を満たすどころか、ますます欲求不満をつのらせる。絶望へと向かう無気力な空気が満ちている。」■「BYOFの居酒屋」(Bring Your Own Friends=各自で友だちを連れて来てね):
「初めのうち、とくに混んでいるときには、まるでサードプレイスであるかのような錯覚をいだかせるかもしれない。会話がおもな活動だし、誰もがおしゃべりをしている。ここでいう錯覚とは、まとまりがあるという錯覚、みんなが一緒に楽しんでいるという錯覚だ。よくよく見てみると、しかし、まとまりなどないのが分かる。そういう店の客は、二人組か大人数の集団でやって来て、カウンターやボックス席やテーブルに自分たちの陣地を確保し、そこに根を生やす。彼らは内輪の小さな集団内でなら十分に聞きとれる程度の声量で話す。・・・・・・。一人で入ってきた客は、ほぼ間違いなく一人のままだ。座席の選択と、身体の置きかた、抑えた声量、目の動きによって、客は、自分たちの集団によそ者が入りこむのを期待も歓迎もしていないことを示している。一つの集団から別の集団へと渡り歩く者はいない。誰ひとり、部屋の向こう側の友人に声をかけはしない。
BYOFの店は快適志向が強く、応接間のような雰囲気や、絨毯、座り心地のいい椅子をそなえていたりする。ハッピーアワー〔通常夕刻の、サービスタイム〕には、無料のおつまみや女性向けの南国風カクテルも出す。」■「サードプレイスの居酒屋」 :
「サードプレイスの居酒屋の客は、ほとんどが一人でやって来て、先客に温かく受け入れられるが、一人だろうと連れがいようと、彼らはBYOFバーに入ると客とは違った行動をとる。・・・・・・。サードプレイスの居酒屋では、急いで席を取ることがない。それどころか、入店はしばしば入場行進のようであり、その間に店内の仲間が新来者に気づく一方、新来者は店内の仲間を見渡す(・・・・・・)。出迎えが長々と続く途中で、着いたばかりの客は自分たちの居場所を見極め、それから席に着くかカウンター前に行くかして、飲み物を注文する。
いったん飲み物を手にしたら、サードプレイスの居酒屋にいる人びとは、BYOFの居酒屋の場合とちがって、自分の席に居つづけることを強いられない。彼らは一般に、アメリカのほとんどの居酒屋が許している「移動の自由」を利用する。馴染み客は、しばらく立ち、しばらく座り、ほかの集団や会話をつまみ食いしながら、ぶらぶら歩き回るかもしれない。果ては、楽しそうにしている見知らぬ客に近づいて、声をかけることさえあるかもしれない。」
※レイ・オルデンバーグ(忠平美幸訳)(2013)『サードプレイス:コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』みすず書房
感染防止の対策が徹底すればするほど、その場所はレイ・オルデンバーグが描く「BYOFの居酒屋」、「致命的な居酒屋」に近づいていくように感じます。
今回の新型コロナウイルス感染症は他者から感染する性質を持つがゆえに、他者との接触がリスクと見なされ、心理的にも、「ひょっとしたら感染者ではないか?」という他者への不信感が生じてしまう。特に、見ず知らずの多くの他者との接触が生じる都市はリスクが高く、怖い場所ということになってしまう。
社会とは他者に対する信頼に基づいて成立するものであることを考えると、新型コロナウイルス感染症は社会の基盤である他者に対する信頼を切り崩していく恐れがある。これは社会に対して大きなダメージをもたらします。
こうした状況を乗り越えるための可能性として、第一の家、第二の職場、そして、第三の場所としてのサードプレイスの境界の揺らぎを契機として、他者に対する信頼を回復させる基盤としての「小さな相互扶助的な共同体」が実現していくということを考えました。
今でも「小さな相互扶助的な共同体」が大切だという考えは変わりませんが、自粛警察、あるいは、戦時中の隣組のようだと表現されるような共同体による重圧(営業している店があることや公園で遊んでいる子どもがいることを警察に通報する、県外ナンバーの車に嫌がらせをする、医療従事者や都会から帰省した人への偏見や差別、初期に感染者が見つかった大学に脅迫の電話など)が生じていることを見聞きすれば、アフターコロナにおけるリアルな場所の行方を共同体だけで考えるのは十分ではないとも思います。
人には、共同体の同調圧力から逃れたり、共同体を越えた価値に触れたりすることが必要。そのような場所として、都市があるのではないか。
このような考えから、これまでに読んだ本を読み直していました。以下で紹介するのは、この作業を通して改めて目にとまった文章です。
都市についての文章
■「都市的であることの本質とは、人々が同じであることを強制されることなく、ともに行動できることなのである。」(リチャード・せネット, 1991)
■「人々が積極果敢に社会における自分たちの利益を追求できるようになれる限度が、人々が非個人的に行動するようになる限度である。都市はその行動を教える教師でなければならず、他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になることが意味のあるものになるフォーラムでなければならない。」(リチャード・せネット, 1991)
■「都市というのは、・・・・・・、自由な人間が安定して暮らせる場所であり、言葉をかえていえば異質者が共存して生きられる世界です。」(山崎正和, 2002)
■「都市には人間同士の理解の努力が不可欠です。理性的なコミュニケーション、つまりは「文明」が必要です。・・・・・・。都市民たちは、そうした「文明」を介して相互に理解しあい、説得し合わねばなりません。しかも、その反面、都市民たちの間には、先ほどいった身体性の共鳴、つまり「文化」も共有されているわけです。都市の雑踏を歩く人は、理性で交通規則に従いながら、体では都会らしい作法を守っていると感じています。いいかえれば、都市というのは「身についた制度」であり、「論理化された習慣」であるといえるわけで、ほかならぬこの点にこそ、都市の文化の強さを見いだすことができるのです。」(山崎正和, 2002)
■「都市空間の多様性は、ある「環境」が生まれ得る数多くの機会を提供することだろう。・・・・・・。「環境」に開かれた空間を創出できるのは、芸術でありアーティストなのだろうか? この場合「環境」というのは、さまざまな社会階層の人々が自らを見い出す場という意味である。このような場は出会いや交流、共通のプロジェクトを受け入れる。つまり実際に交わされる言葉を生み出す可能性やその歓びだけでなく、ある集団性において共に生成しているという意識を受け入れる場所のことである。」(カトリーヌ・グルー, 1997)
■「人が都市に魅力を感じて集まる理由の一つは、都市には、さまざまな便利さや幅広い選択の可能性があり、また、情報の量の大きさと多様性とがあるからに違いない。それらを支えているのは、言うまでもなく、大勢の多様な人々の存在であり、そうした多様性や刺激とのふれあいである。」(清水忠男, 1998)
■「社会的共通資本としての都市とは簡単にいうと、ある限定された地域に、数多くの人々が居住し、そこで働き、生計を立てるために必要な所得を得る場であるとともに、多くの人々がお互いに密接な関係をもつことによって、文化の創造、維持をはかってゆく場である。」(宇沢弘文, 2000)
■「人々は、喧騒から逃げ出そうとしているのではない。・・・・・・。人の多い活気のある場所へ足を向けている。しかも自ら選択して出かける。都市から逃げるのではなく、都市に参加するために。」(ウィリアム・ホワイト, 1994)
■「場所が人々によって創設されるものだとしたら、そのためには人々が比較的密に集まっていることが必須の条件となる。人口のある程度の集中によって都市生活の多様性が生まれ、その多様性が生活に活気を与えることになる。ところが都市を土地の上にたつものとみなすと、都市への人口の集中は多様性よりは混雑をもたらすとみなされがちである。」(間宮陽介, 1992)
■「都市にはどこか不幸を吸収する装置がいる。不満や鬱屈をガス抜きする場所がいる。じぶんをゆるめることのできる場所、つんとすましていなくていい場所がいる。」(鷲田清一, 1998)
■「そんな「別の世界」への想像を駆る都市のすきまが、古木であり寺社であり場末だった。そして現代、消費の記号で埋めつくされてどこにもすきまのない都市、すきまさえも記号としてただちに消費されてしまうそんな都市において、古木と寺社と場末に代わるのが、ひょっとすればアートなのではないか。」(鷲田清一, 2005)
■「都市とは、その通りを歩いているひとりの少年が、彼がいつの日かなりたいと思うものを感じとれる場所でなくてはならない。」(ルイス・カーン)(香山寿夫, 2003)
■「子供が都市を必要なものと気付くためには、潮が引く際の海のように、都市は大人からそっと離れたりしてはならない。大人もまたそれを再び見たいと思わねばならない。・・・・・・。一方にとって良いことは、他方にとっても良いことなのである。」(フィリップ・アリエス, 1999)
■「都市の「かたち」が表現するのは、建物の様相だけではなく、そこに住む人たちの生き方の「かたち」である。空間と社会が多数の人たちに開かれ、ライフチャンスを提供し続ける、という条件があってはじめて都市が成り立ち、ライフスケープの豊かさが持続する。」(平山洋介, 2011)
■「さまざまな人たちが、家を借りたり、買ったり、仕事をみつけたり、転職したり、結婚したり、子どもを育てたり、単身のままですごしたり、老親を支えたりして、どうにかこうにか、生きようとする。都市の形姿は、人びとのそうした実践の集積から織り上げられる。」(平山洋介, 2011)
■「生活が消費とは異なっているように、場所は土地とは異なっている。現代の都市は土地の上に構築され、そこでは消費が人々の主要な活動様式になっている。これに対してほんらいの都市は場所としての都市であり、そこで営まれるのは人々の生活であるといえるだろう。生活は土地の上で営まれるものではなく、場所の占め方のさまざまな様態が生活である。あるいは場所を生きることが生活だといってもいい。だから善き生活を営むことは善き場所をもつことと同じである。」(間宮陽介, 1992)
ここで紹介した本は、何らかの基準に沿って網羅的にピックアップしたものではなく、紹介してもらったり、偶然手に取ったりなどの出会いによりこれまでに読んだものです。当然偏りがあると思いますが、これらの文章からは次のような都市の価値に改めて気づかされます。
都市とは、多様性や異質性を許容する場所、多様性や異質性を見出せる場所であること。そのためには、文明を介した理解の努力が不可欠であり、「他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動」、つまり、親密さへの脅迫的な衝動から解放されなければならないこと。
多様性や異質性のためには、「人々が比較的密に集まっている」ことが重要である。「人々が比較的密に集まっている」ことは、人々が忌避する喧騒や混雑ではなく、人々は自らの足で活気ある場所へ足を向けること。
さらに都市においては、「不幸を吸収する装置」、「不満や鬱屈をガス抜きする場所」、あるいは、子どもが「いつの日かなりたいと思うものを感じとれる場所」という様に、「別の世界」との接触も大切であること。
都市とは、決して建物や道路など物理的なものだけを意味するのではなく、人々の「生き方の「かたち」」であり、「場所の占め方のさまざまな様態が生活」だということ。
繰り返しになりますが、様々な感染防止の対策の必要性を否定することはできません。感染防止の対策をほどほどにして、都市を楽しめばよいとも言えません。けれども感染防止の対策を見れば見るほど、都市は感染リスクの高い、怖い場所と思えてしまう。
しかし、本来、都市とは豊かな価値をもつ場所であることは見落としてはならないと思います。「都市とは、その通りを歩いているひとりの少年が、彼がいつの日かなりたいと思うものを感じとれる場所でなくてはならない。」と建築家のルイス・カーンが表現されている都市を回復しなければならないと思います。
新型コロナウイルス感染症を収束させるためには、現時点での大規模な検査、接触者追跡(Contact Tracing)と、将来的なワクチン開発を待つしかないのかもしれません。一方、新型コロナウイルス感染症によって損なわれた他者への信頼はどのように回復することができるのか。
現時点で答えを持ち合わせていませんが、アメリカの文筆家・運動家のジェイン・ジェイコブズによる次の指摘が参考になるように思います。
「都市街路の信頼は、街頭で交わす数多くのささやかなふれあいにより時間をかけて形づくられています。ビールを一杯飲みに酒場に立ち寄ったり、雑貨店主から忠告をもらって新聞売店の男に忠告してやったり、パン屋で他の客と意見交換したり、玄関口でソーダ水を飲む少年二人に会釈したり、夕食ができるのを待ちながら女の子たちに目を配ったり、子供たちを叱ったり、金物屋の世間話を聞いたり、薬剤師から一ドル借りたり、生まれたばかりの赤ん坊を褒めたり、コートの色褪せに同情したりすることから生まれるのです。慣習はさまざまです。飼い犬についての情報交換をする近隣や、家主についての情報交換をする近隣もあります。 大部分は、表面上は実にささやかなものですが、すべて合わせると全然ささやかではありません。このような地元レベルの何気ない市民交流の総和が——ほとんどは地元レベルの何気ない市民交流の総和が——ほとんどは突発的で、何らかの雑用のついでで、すべて当の本人が加減を決めたもので、だれにも強いられていません——公的アイデンティティの感覚であり、公的な尊重と信頼の網であり、やがて個人や近隣が必要とするときに、それがリソースになるのです。信頼の欠如は、市街地においては惨事です。その育成は制度化できるものではありません。何よりも、それは私的な関わりがないことを示しているのです。」
※ジェイン・ジェイコブズ(山形浩生訳)(2010)『[新版]アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会
「都市街路の信頼は、街頭で交わす数多くのささやかなふれあいにより時間をかけて形づくられ」ていくということ。この指摘を受ければ、都市における他者への信頼は、やはり他者との「ささやかなふれあい」が必要ということになる。
他者との物理的な距離をとっていても、マスクを着用していても、「ささやかなふれあい」は起こり得る。感染防止の対策がなされた都市における「ささやかなふれあい」のアイディアや事例を収集することも大切な作業だと考えています。
参考文献
- フィリップ・アリエス(1999)「子供と街、市街から反市街へ」・フィリップ・アリエス(成瀬駒男 伊藤晃訳)『歴史家の歩み』法政大学出版局
- 宇沢弘文(2000)『社会的共通資本』岩波新書
- レイ・オルデンバーグ(忠平美幸訳)(2013)『サードプレイス:コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』みすず書房
- カトリーヌ・グルー(藤原えりみ訳)(1997)『都市空間の芸術』鹿島出版会
- 香山寿夫(2003) 『ルイス・カーンとはだれか』王国社
- ジェイン・ジェイコブズ(山形浩生訳)(2010)『[新版]アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会
- 清水忠男(1998)『ふれあい空間のデザイン』鹿島出版会
- リチャード・セネット(北山克彦 高階悟訳)(1991)『公共性の喪失』晶文社
- 平山洋介(2011)『都市の条件』NTT出版
- ウィリアム・H・ホワイト(柿本照夫訳)(1994)『都市という劇場』日本経済新聞社
- 間宮陽介(1992)「都市と社会的共通資本」・宇沢弘文 高木郁郎編『市場・公共・人間』第一書林
- 山崎正和(2002)『二十一世紀の遠景』潮出版社
- 鷲田清一(1998)『普通をだれも教えてくれない』潮出版社
- 鷲田清一(2005)『〈想像〉のレッスン』NTT出版
※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。
(更新:2020年5月29日)