『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

サードプレイスと小さな相互扶助的な共同体(アフターコロナにおいて場所を考える-01)

2020年4月16日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大により、全国に緊急事態宣言が出されました。
業種によっては休業が要請されたり、不可欠でない外出を控えることが要請されたり、外出する場合も「三密」を避けることが要請されたり(※ソーシャル・ディスタンシングという表現が用いられることもある)と様々な対応がなされています。これらの対応により、各種店舗や施設が閉まっている、歩いている人が減少したなど、街の景色も変化しています。

アフターコロナの街のあり方については、テレワーク、遠隔医療、通信販売、オンライン飲み会などの情報技術の浸透により、オフィス、病院、商業施設、飲食店といったリアルな場所の役割が小さくなったり、場合によっては不要になったりするという予測がされることもあります。情報技術がさらに浸透することは間違いありませんし、それに伴ってリアルな場所の役割が変わっていくだろうと思います。しかし、人間が身体を持つ存在である以上、身体の置きどころとしてのリアルな場所が不要になるわけではありません。

そこで、ここではサードプレイスを糸口として、アフターコロナにおけるリアルな場所の可能性を考えてみたいと思います。
現時点では新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防止することが最優先の課題であり、今回の感染症が発生したのは不幸なことですが、この出来事から今後につながる可能性を見出すことは大切な作業だと考えています。

サードプレイス

アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグは「第一の家、第二の職場」に続く「第三の場所」としてサードプレイスという概念を提示しています。レイ・オルデンバーグは著書において、十九世紀のドイツ系アメリカ人のラガービール園、戦前の田舎町のアメリカにあった「メインストリート」、イギリスのパブやフランスのビストロ、アメリカの居酒屋、イギリスとウィーンのコーヒーハウスなどを例にあげて、「家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場所の総称」をサードプレイスと呼んでいます。

サードプレイスはコミュニティ構築機能をはじめ豊かな機能を持つとされていますが、新型コロナウイルス感染症の感染防止のために休業が要請される場所とも大きく重なっています。

新型コロナウイルス感染症は、第二の職場から、第三の場所であるサードプレイスから、第一の家に様々な機能が回帰する動きを生み出している。言い換えれば、新型コロナウイルス感染症は第一・第二・第三の場所の境界に揺らぎを与えるものだと言えます。
こうした動きは、以前ご紹介したサードウェーブ・コーヒーの動きに通ずるものがあります。

サードウェーブ

サードウェーブ・コーヒーとはアメリカのサンフランシスコが発祥の動き。サードウェーブとは第三の波の意味であり、それ以前には次のような第一の波、第二の波があるとされています(茶太郎豆央, 2013)。

ファーストウェーブとは、ネスカフェに代表される家や職場でコーヒーを気軽に飲めるようにした動き(19世紀後半から1960年代)、セカンドウェーブとは、スターバックスに代表される「均質な『おいしいコーヒー』と『コーヒーを楽しむ特別な場所』の価値観を作り上げることに成功」した動き(1960年代~2000年ごろ)。ただし、これらはいずれも「大量流通と大量焙煎を前提としたビジネスモデル」を前提としていたとされています。
2000年以降のサードウェーブはこれらと一線を画すものであり、その特徴が次のように紹介されています。

「小規模な焙煎所が、生産者と直接、あるいはフェアトレードでオーガニックの豆を仕入れ、大切に焙煎し、新鮮なうちに地元の人たちにコーヒー豆やドリンクとして提供する。大量消費、大量流通とは一線を画した、持続可能でアース・フレンドリーなコーヒーこそ、サードウェーブの特徴です。」
※茶太郎豆央(2013)『サードウェーブ!:サンフランシスコ周辺で体験した最新コーヒーカルチャー』Amazon Services International, Inc

サードウェーブ・コーヒーのカフェを訪れると、ノートパソコンで作業をしたり、打合せをしたりと、仕事をしている多くの人々の姿が目に飛び込んできます。サードウェーブは第二の職場と、第三の場所であるサードプレイスの境界に揺らぎを与えるもの。

さらに、サードウェーブは効率化とは真逆の「ていねいな暮らし」を大切にするものであり、それは「家の中でのサードウェーブ体験」として、第一の場所である家を変えていくものであることが指摘されています。

「セカンドウェーブと同じように、快適な空間を提供するサードウェーブですが、店舗では語れない、今までと大きく違うコーヒー体験の場を作り出そうとしています。それは、ファーストプレイスたる我々の家。もともとファーストウェーブでコーヒーが安価で大量に流通することによって、家庭がコーヒー消費の場所として定着しました。サードウェーブでは再び、家をコーヒー体験の基本に据える重要な変化を見ることができるのです。」

「ていねいに作られたコーヒー豆を家に持って帰ってきて、飲む人がていねいに淹れる。豆によっておいしいコーヒーのドリップの仕方が違うことを発見したり、自分の好みの豆の量やお湯の温度を見つけたり、豆と対話しながらコーヒーを淹れる行為そのものからして、家の中でのサードウェーブ体験と位置づけることができるのです。」
※茶太郎豆央(2013)『サードウェーブ!:サンフランシスコ周辺で体験した最新コーヒーカルチャー』Amazon Services International, Inc

家事・命に近い仕事

サードウェーブ・コーヒーは効率化とは真逆の「ていねいな暮らし」を大切にする場所であり、それは第一の家、第二の職場、第三の場所としてのサードプレイスの境界に揺らぎを与えるもの。これは、新型コロナウイルス感染症への対応として生じている状況と重なりますが、「ていねいな暮らし」という点でも重なりを見出すことができます。

新型コロナウイルス感染症に対して、業種によってはテレワークになったり、各種店舗や施設が休業になったりという対応がなされています。家で過ごす時間が増えたり、これまでの外部サービスが利用できなくなったりした影響で、料理をしたり、掃除や洗濯をしたり、野菜や花を育てたり、大工仕事をしたり、介護や看病をしたりというように、家事、あるいは、「命に近い仕事」にあてる時間が増えたという方も多いと思います。

哲学者の鷲田清一氏は、「命に近い仕事」について次のように記しています。

「『命に近い仕事ほどお金が動かない』
周防大島で、ある農家の人がこんな言葉をつぶやいていたと、数学者の森田真生が紹介している(二〇一五年三月一〇日付のツイッターより)。『命に近い仕事』とは、いうまでもなく子育てであり、食材の調達であり調理であり、排泄物の処理であり、日々の語らいであり、看病や介護であり、防災であり、また地域の行事といったものであろう。『命に近い』これらの仕事もまた、行政や企業に、税金やサーヴィス料を支払って委託するというかたちをとっているのが、わたしたちの社会である。そういう『命に近い仕事』を代行するシステムが停止あるいは機能不全に陥ったときに、ほとんど為す術がないのが現代社会の市民である。」
※鷲田清一(2016)『素手のふるまい アートがさぐる〈未知の社会性〉』朝日新聞出版

新型コロナウイルス感染症の感染拡大に際しては医療崩壊ということがしばしば言われていますし、感染拡大が続けば外部サービスが停止あるいは機能不全に陥る可能性がないとは言い切れない。そうなれば、好むと好まざるとに関わらず家事、「命に近い仕事」に向いあわざるを得なくなる。
外部サービスを利用することに慣れた者には不便なことではありますが、家事、「命に近い仕事」がまず持って顔の見える他者を宛先とする行為であることは、新型コロナウイルス感染症によってもたらされた状況が、効率化とは真逆の「ていねいな暮らし」へとつながる可能性ではないかと思いますし、可能性へとつなげていくべきことだと考えています。

思想家、フランス文学者、武道家である内田樹氏は家事について次のように記しています。

「私は家事仕事が好きだし、けっこう得意だけれど、いつでも時間を忘れて熱中できるというわけではない。『誰かに尽くす』とか『誰かを守る』というマインドセットにならないとこういう仕事にはうまく集中できないのかも知れない。自分のためだけだと今ひとつやる気にならない。」

「家事というのは、本質的には、他人の身体を配慮する技術なのだと思う。
清潔な部屋の、乾いた布団に寝かせ、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる。どれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求する。具体的な技術以上に、その想像力が大切なのだと思う。」
※内田樹(2019)『生きづらさについて考える』朝日新聞出版

家事とは「他人の身体を配慮する技術」だが、そこでは具体的な技術以上に「他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力」が必要とされる。内田樹氏が「一人一人が帰属できる共同体、相互扶助的な手触りのたしかな共同体」、「小さな相互扶助的な共同体」という表現を用いているように、ここでいう他者とは、まずは顔の見える他者と考えることができます。

内田樹氏が言及している想像力に関して、鷲田清一氏も「いっしょにごはんを食べているときに、『おいしい?』と訊く」ことを想像力の働きだと指摘しています。

「現実は想像力のはたらきによってより現実的になる、と言えば、あるいは戸惑われるかもしれない。しかし、現実を知る、理解するには、想像の力を欠くことができない。・・・・・・ひとはそれらをとおして、ただ生きるのではなく、生きながら生きることの意味を考える。そういうかたちで、ある見えないものにかかわるのである。いや、もっと近くでも想像力ははたらいている。いっしょにごはんを食べているときに、『おいしい?』と訊くのもやはり想像力のはたらきに拠る。そこから、いま飢えに苦しんでいるひとがこの世界には数多く存在するということに思いをはせるのも、想像のはたらきである。
想像力というと、よく論理的な思考力と対比される。感性的な知性的かというふうに。しかしそのいずれも、いまここにはないもの、不在のものへと向かう心の動きとしてはひとしい。想像はファンタジー(空想や夢想)と同じではない。眼の前にあるものを手がかりとして、眼の前に現われていない出来事や過程を想像すること、あるいはそれを論理的に問いつめてゆくこと、そういう不在のものへの心のたなびきがここでいう想像のはたらきなのであって、その意味では、科学にも政治にも、あるいは芸術や(他人への)思いやりにも、いきいきとした想像の力が不可欠なのだ。」
※鷲田清一(2002)『死なないでいる理由』小学館

「(他人への)思いやり」にも、「眼の前にあるものを手がかりとして、・・・・・・不在のものへの心のたなびき」としての想像力が必要だということです。

アフターコロナにおけるリアルな場所

新型コロナウイルス感染症は他者から感染する性質を持つがゆえに、周りにいる他者を「ひょっとしたら感染者ではないか?」と怖がったり、排除したりする状況も生まれている。社会とは、他者に対する信頼に基づいて成立するものであることを考えると、新型コロナウイルス感染症は社会の基盤である他者に対する信頼を切り崩していく恐れがあります。これは社会に対して大きなダメージをもたらします。

それゆえ、アフターコロナにおいては、他者に対する信頼をどうやって回復するかが大きな課題になると考えています。ここで大切になるのが、「眼の前にあるものを手がかりとして、・・・・・・不在のものへの心のたなびき」としての想像力ではないか。「小さな相互扶助的な共同体」における顔の見える他者を宛先とする家事、「命に近い仕事」は、「他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取り」したり/されたりする機会となる。これが、他者に対する信頼を回復させる基盤になるのではないかと考えています。

「小さな相互扶助的な共同体」として、まず家をあげることができますが、先に見た通り、新型コロナウイルス感染症によって第一の家、第二の職場、第三の場所としてのサードプレイスの境界は揺らぎつつある。そのため、次のように第一・第二・第三の場所それぞれから、「小さな相互扶助的な共同体」へ迫り出してくる動きが必要とされると思います。

  • 第一の場所(家):住み開き、シェアハウス、宅老所、ホームホスピス、脱施設化、職住近接
  • 第二の場所(職場):コワーキング・スペース、ファーマーズ・マーケット、個人経営のお店
  • 第三の場所(サードプレイス):まちの居場所、コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、コミュニティ農園
  • →それぞれの場所から「小さな相互扶助的な共同体」へ

実際、サンフランシスコのコワーキング・スペースのCovoでは、メンバー、メンバーのゲスト、チームやオフィスで一緒に仕事をしているメンバーが「ポッド」というまとまりを作り、「ポッド」内ではソーシャル・ディスタンシングの要件が緩和されるという仕組みがとられています。これは、アフターコロナにおける「小さな相互扶助的な共同体」を立ち上げようとする具体例と言えるかもしれません。

なお、ここであげた動きは、日本では2000年頃から同時多発的に生じていたもの。今回の新型コロナウイルス感染症はその動きを加速させたと捉えることができると言えます。

重苦しい共同体を越える

アフターコロナにおいては、「小さな相互扶助的な共同体」としてのリアルな場所が一人ひとりの暮らしにとっての足場になることが求められる。ただし、共同体を無条件で礼賛することの危険性には注意する必要があります。

現在、新型コロナウイルス感染症の感染防止のため様々な対応がとられていますが、これらの対応が共同体を閉じるという性格を持っていることを指摘することができます。国際的には、各国が国境を閉じています。国内では都市から地方への帰省を控えたり、都道府県をまたく移動を控えたりすることが要請されています。病院や高齢者施設では面会禁止の措置をとっているところも多いようです。このようにそれぞれのレベルで共同体を閉じることで、人の行き来に制限をかけることが行われている。
それでは、共同体を閉じることで、その内側が穏やかな雰囲気になっているかと言えば、必ずしもそうではない。医療従事者や都会から帰省した人への偏見や差別が起こっている、感染者が見つかった大学に脅迫の電話がかかっているというニュースも見聞きします。他者を信頼できないがゆえに、他者を怖がったり、排除したりする動きが生じている。共同体の内側は決して風通しのよいものになっておらず、共同体が一人ひとりに重たくのしかかっているという印象を受けます。

こうした状況を乗り越えるためにも「小さな相互扶助的な共同体」としてのリアルな場所が求められると考えますが、このような共同体は決して個人に重くのしかかるものではない。
内田樹氏は、「中枢的なもの、同心円的なもの」ではなく、「サイズも機能も異なる無数の共同体がネットワーク」でつながる状態を描いています。相互扶助を築くためには、全ての人々に覆いかぶさる「中枢的なもの、同心円的なもの」ではなく、「どこかで境界線を引いて、『こっちは身内、あっちは他人』という切ない区切りをしなければならない」。しかし、このことについて「疾しさ」を感じるべきだと。

「僕の抱く『統合』のイメージは中枢的なもの、同心円的なものではありません。サイズも機能も異なる無数の共同体がネットワークでつながっていて、相互扶助・相互支援する仕組みを僕はイメージしています。でも、地球に住む70億人をカバーする相互扶助の仕組みというのは設計不能なんです。どこかで境界線を引いて、『こっちは身内、あっちは他人』という切ない区切りをしなければならない。それが相互扶助ネットワークの根本的な背理です。どこかで『ここまで』という区切りをしないと、限りあるリソースを有効に分配してゆくことができない。でも、そのことについては『 疚しさ』を感じるべきだと思います。
・・・・・・。『身内』の範囲が狭いほど相互支援はこまやかで密になる。それは当たり前のことなんです。住みやすい社会は『身内』の数を限定することで実現されている。それについていくばくかの『疚しさ』を感じることが必要だということを申し上げているのです。」
※内田樹(2019)『生きづらさについて考える』朝日新聞出版

一人ひとりが、それぞれのかたちで相互扶助のネットワークに帰属できる状態。このような状態こそ、公共と表現すべきだと考えています。次に紹介するように、鷲田清一氏、内田樹氏は公共について同じことを指摘しています。

「そういうふるまいをこそわたしたちは『公共』と名づけたはずである。だが、その『公共』を『お上』に預ける、委ねるという習性を、わたしたちは未だに脱しえていない。『公共』は、上から下りてくるもの、つまりは『だれのものでもないもの』として受けとめられ、じぶんたちの私財や労力を提供するなかでともに担い、維持すべきもの、つまりは『みんなのもの』とは、未だ十分になりえていない。いま『憲法』を論じるなかで、わたしたちはこの前提をこそしっかり築いていかねばならないのだとおもう。それぞれの場所で。」
※鷲田清一(2019)『濃霧の中の方向感覚』晶文社

「私たちは『公共』というと、とりあえず国家とか地方自治体とか、公教育とか社会福祉制度とか、そういうできあいのものを思い浮かべる。しかし、発生的に言うと、公共は自然物のようにそこにあらかじめ用意されて転がっているものではない。公共は私人の自己犠牲と信用供与によって創り出されるものである。」
※内田樹(2019)『生きづらさについて考える』朝日新聞出版

公共とは「お上」でも、「国家とか地方自治体とか、公教育とか社会福祉制度」といったできあいのものでもなく、「じぶんたちの私財や労力を提供する」ことによって、「私人の自己犠牲と信用供与によって」生み出されるものであること。全ての人々に覆いかぶさる「中枢的なもの、同心円的なもの」を断念しなければならないが、そのことに「疾しさ」を感じるべきであること。

文芸評論家の加藤典洋氏は、ナチスを逃れアメリカに亡命した哲学者・思想家のハンナ・アーレント(ハンナ・アレント)に触れた文章で、公共性について次のように記しています。

「・・・・・・、アーレントは、この同じ公共性という考えを近代原理からではなく、古代ギリシャ、古代ローマからとりだしてくる。その出発点はけっして個人原理といった近代的なものではない。彼女の公共性という概念は、ハーバーマスのそれとは違い、むしろ名誉、誇り、政治といった反個人主義的な、近代以前の思考を母胎とするのである。
その理由をわたしは、彼女が自分の思想の溶鉱炉を自分がそうであるユダヤ人の思想経験の磁場に求めた事実に見ることができると考えている。これは、アーレントのいっていることではなく、わたしの考えだが、アーレントはいわばユダヤ民族の民族性、その思想の共同性を殺すため、ここでその対置物として、公共性という古典古代の概念を、自分に必要としているのである。その、彼女の前に現れた共同性が、かつてはシオニズム、さらにナチズム、人種主義、そしてイスラエル建国といった多様な現れをもったことは、彼女の思想にある種のわかりにくさとともに、未知の新しさをもたらしている。そしてその核心をわたしの関心にひきよせていえば、それは、ある種の共同性をどうすれば解体できるか、という問題である。
・・・・・・
そもそも共同性を否定する、とはどういうことか。・・・・・・。わたしはそれをかつて共同体の「内から出る」ことと「外へ出る」ことは違う、それは内側からしか開かない扉をもつ閉鎖空間であり、その外に出ることはその解体を意味しない、その内にいるものにしかそれは解体できない、という言い方で述べたことがあるが(2)、アーレントのぶつかった問題もそれであり、彼女がユダヤ人の思想家、知識人、文学者の一系譜に見ているものも、そこに連なる経験なのである。」
※加藤典洋(2015)『敗戦後論』ちくま学芸文庫

「ある種の共同性をどうすれば解体できるか」という点において必要とされる公共性という概念。加藤典洋氏が展開されている議論は十分に捉えることができていませんが、「小さな相互扶助的な共同体」を「中枢的なもの、同心円的なもの」に回収してしまわないために、公共(性)の概念を捉え直していくことの必要性を強く感じます。


第一の家、第二の職場、第三の場所としてのサードプレイスの境界が揺らいでいることを糸口とすることで、アフターコロナにおけるリアルな場所の行方について考えてきました。アフターコロナにおいて他者に対する信頼を回復するためには、「小さな相互扶助的な共同体」としてのリアルな場所が大切になること、そして、それは具体的には住み開き、コワーキング・スペース、コミュニティカフェ、地域の茶の間などのかたちであることを見てきました。
ここであげた場所は小規模であるがゆえに、既存の公共施設のような公共の役割は担い得ないのではないかという指摘がなされてきました。けれどここで見てきたように、アフターコロナにおいて他者に対する信頼を回復りするためには、小規模であるがゆえに公共の役割を担える。ただし、小規模であり、全ての人々を対象にできないことへの「疾しさ」を感じるべき、ということになります。


参考文献

(更新:2020年7月4日)

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。