『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所と住まいを開くこと:地域における親密でない関係(アフターコロナにおいて場所を考える-58)

2024年11月29日、日本建築学会の第19回住宅系研究報告会にて、パネルディスカッション「住まいのコモニング」が開かれました。住宅の私有化、商品化(ジェントリフィケーション)を乗り越え、住まいをもう一度開かれたものにする手立てについて議論することを目的として企画されたもので、このパネルディスカッションにおいて、「居場所と住まいを開くこと:地域における親密でない関係」という話題提供をさせていただきました。
サブタイトルにあげている通り、現在、住まいを開くうえでは、親密でない関係に注目する必要があるのではないか、という内容の話題提供です。空間を作ることで自動的に、人々にとっての居場所になるわけでないのは当然です。以下では、人々の居場所になることを目指して開かれている場所のことを、居場所と呼んでいます。

居場所と住まいを開くこと:地域における親密でない関係

制度が住まいを開くことを求めている

現在において、住まいはどのようなきっかけで地域に開かれるのか。その1つのきっかけとして、地域における助け合いをあげることができます。掃除をしたり、庭の手入れをしたり、家具などの補修をしたり、調理をしたり、買い物に行ったりなどの助け合いは、地域の人を住まいに迎えるものであるため、住まいを地域に開くという側面から捉えることができます。

そして、地域における助け合いは、制度が求めていることでもあります。
厚生労働省は、高齢者が住みなれた地域に住み続けることができるようにするための地域包括ケアシステムの構築を進めています。

「団塊の世代が75歳以上となる2025年(令和7年)以降は、国民の医療や介護の需要が、さらに増加することが見込まれています。
このため、厚生労働省においては、2025年(令和7年)を目途に、高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を推進しています。」*1)

厚生労働省は、地域包括ケアシステムにおける助け合いを、費用負担に注目することで、自助、互助、共助、公助という観点から整理しています*2)。

  • 公助:「税による公の負担」
  • 共助:「介護保険などリスクを共有する仲間(被保険者)の負担」
  • 互助:「相互に支え合っているという意味で『共助』と共通点があるが、費用負担が制度的に裏付けられていない自発的なもの」
  • 自助:「『自分のことを自分でする』ことに加え、市場サービスの購入の含まれる」

厚生労働省は助け合いをこのように整理したうえで、「少子高齢化や財政状況から、『共助』『公助』の大幅な拡充を期待することは難しく、『自助』『互助』の果たす役割が大きくなることを意識した取組が必要」と指摘しています。互助の例として「ボランティア活動」、「住民組織の活動」などがあげられており、地域包括ケアシステムという制度は、地域における助け合いを期待するものになっていることがわかります。

地域における助け合いの困難さ

地域包括ケアシステムでは地域における助け合いが期待されていますが、地域における助け合いを実現するのは容易ではありません。助け合いの活動を立ち上げた方から、次のような話を伺ったことがあります。

「みんな、近所の人に来てもらいたくないんです。交通費がかかってもいい、どんな遠くからでもいい、全然知らない人に来てもらいたい、というのがすごく多くて。」

「『助けて』って言われなきゃ動けないんですよね。『あそことあそこ親戚だから、あの人あの人仲いいから、余計なお節介しても』となる。」

助けを求める側は、知らない人に来て欲しい。一方、助ける側は、「助けて」と言われなければ動くことはできない。しかし、これでは地域における助け合いは行われない。地域における助け合いを実現するためには、自分から地域の人に対して「助けて」と言う必要がある。しかし、地域の人に対して「助けて」と言うのは実は難しい。これが、地域における助け合いが困難な理由です。

高齢者にとって、シルバーカー(手押し車)を押して買い物に行くのが、大きなハードルになるという話を聞いたことがあります。なぜなら、地域の人に、自分の弱った姿を見られたくないからだと。次のような話も伺ったことがあります。高齢の女性が散歩中に道に迷子になった後、女性は身体的には健康だったが、家族は外出を制限するようになったということです。ここには、地域に迷惑をかけたくないという家族の思いがあります。
高齢者に限らず、多くの人が家に来客がある時は掃除をすると思います。なぜなら、家の中が片付いていないのを見られるのは嫌だから。これは、助け合いの場面でも同じ。本当は、自分で、家族で片付けたいと思っている。それができない状況だから、助けを求めざるを得ない。

地域の人に弱いところを見られたくないというのは、誰にとっても当然の思いかもしれません。このような思いをふまえるなら、地域の人に「助けて」と言えるようになるためには、助けを求めた時に家で見たり聞いたりしたことを、他に漏らされたり、地域に噂話として広げられたりしないなど、プライバシーが守られることが前提となります。

それでは、これはどのようにして可能なのか? ここで、新潟市東区の「実家の茶の間・紫竹」の取り組みが思い起こされます。
「実家の茶の間・紫竹」は、地域における助け合いにおいて重要なプライバシーを守るためには、「矩(のり)を越えない距離感」、つまり、適度な距離をおいた関係が必要と考え、地域の人々がこのような関係を築くための場所として運営されています。

実家の茶の間・紫竹

実家の茶の間・紫竹」は、任意団体「実家の茶の間」と新潟市の協働事業として、「『助けて!!』と言える自分をつくる、『助けて!!』と言い合える地域をつくる」ことを目的として2014年10月から2024年10月までの10年間運営されてきた場所です*3)。

先に紹介した通り、「実家の茶の間・紫竹」は、地域の人々が「矩を越えない距離感」を大切にする関係を新たに築いていくための場所であり、それゆえ、電話をして待ち合わせをしたり、「こっちこっち」と手招きして仲間同士で固まったりするなど、「仲良しクラブ」を作ってしまうことになる振る舞いは好ましいと考えられていません。
「実家の茶の間・紫竹」で次のような話を伺ったことがあります。

「行き続けないと、皆さんの仲間に入っていけないんじゃないかみたいな気持ちもあったりしたんですけど、そういったことをもう見抜いているかのように、もう月1回でも、3ヶ月に1回でも、ここはいつ来ても変わらないからって言ってくれたのが安心して。」

「私の後から当番になって、最初は隅の方で大人しくしてた人が、みんな次々とこう〔堂々とするように〕なっていくんですよ。普通なら、やきもち焼きますよね。〔ここではそれが〕すごくね、心地いいの。」

これらの話は、地域における助け合いを実現するために、なぜ仲間になることでなく、「矩を越えない距離感」を大切にすることが必要なのかという問いにも答えてくれています。地域における助け合いの関係が、仲間の関係と重ねられてしまうと、その関係を維持しようと負担になったり、仲間内での自分の立場を守ろうと新しい人を快く迎えることができなくなったりする可能性がある。そのような関係に基づいた助け合いは、地域には広がっていかない。

「実家の茶の間・紫竹」では、次の3つが茶の間の約束事とされています。

「その場にいない人の話はしない。」

「どなたが来られても『あの人だれ!!」という目をしない。」

「プライバシーを聞き出さない。」

注意が必要なのは、「矩を越えない距離感」を大切にする関係とは、かつての地域に存在したと言われる濃密で、抑圧的な性格をもつ関係でなく、人々がこれから新たなに築いていくべき関係ということです。それでは、「矩を越えない距離感」を大切にする関係はどのようにして築くことができるのか。ここで紹介した茶の間の約束事は、その具体的な方法でもあります。
例えば、「その場にいない人の話はしない。」という約束事について。自分自身のことを振り返っても、ついつい、その場にいない人の話をしていることに思い当たります。「その場にいない人の話はしない。」は実は容易でないかもしれません。仲間同士の会話であれば、その場にいない人の話は盛りあがりますが、「実家の茶の間・紫竹」のような多様な人々が訪れる場所では、その場にいない人の話をすることで、その人のことを知らない人を会話から排除してしまう、そして、「仲良しクラブ」を作ってしまうことになる。
このように考えると、「実家の茶の間・紫竹」は、「その場にいない人の話はしない。」ことで、どうやって目の前の相手と接して、居心地よく過ごすことができるのかという方法を学ぶ場所になっていると捉えることができます。

他の2つの茶の間の約束事、そして、テーブル配置、掲示、当番の振る舞いなど数多くの配慮*4)についても同じことが言えます。
今、目の前にいる相手は仲間ではない。これからも親しくなることはないかもしれない。そうであっても、今、目の前にいる相手とどのようにして、居心地よく過ごすことができるのか。その方法を学ぶことが、結果として、「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築くことになる。言い換えれば、「矩を越えない距離感」を大切にする関係は、そのぐらい意識的に学ぶことなしには築くことができないということでもあります。

居場所と施設

「実家の茶の間」代表の河田珪子さんは、次のように話されています。

「私がやってること、全ては空論でやったことひとつもなくて、一人ひとりの悲しみや、切なさや、苦しみ、それらを受け止めた結果でしかない。・・・・・・。だからね、誰かのつぶやきや、誰かの苦しみを解決することに、私にできることないだろうかっていう、それが今日までの活動なんですよね。」

「実家の茶の間・紫竹」では、今、目の前にいる一人ひとりに向き合うことが大切にされている。ここで話されている「結果でしかない」という言葉は、居場所と、制度・施設(=Institution)との本質的な違いを指摘しています。

建築計画学者の大原一興(2005)は、宅老所(居場所)と、高齢者施設を比較して、次のように指摘しています。

「実は、これらの宅老所活動の存在意義は、提供されるサービス機能ではなく、地域の要求を引き出すための装置として有効となる点にある。」

「実際の高齢者居住施設では、機能が単独で先行し施設が建設され、しかるのちにそれに適した居住者(例えば要介護度の高い人、認知症の人など)が入居者として募集される。これは機能が要求よりも先行していることを意味する。先に要求があり、それに対して機能が発生する、という本来の『要求-機能』関係が倒立しているということができる。」(大原一興, 2005)

居場所と施設とでは「要求-機能」関係が倒立している。この指摘をふまえれば、「実家の茶の間・紫竹」は、「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築いて、地域の人に「助けて」と言えるような要求が生まれてくる状況を実現することが目指されており、地域における助け合いは、あくまでもその結果として実現される効果だと捉えることができます。
地域における助け合いは、直接の目的ではなく、結果として実現される効果だということ。これは決して些細なことでなく、「実家の茶の間・紫竹」を、そして、居場所と施設の違いを捉えるうえで決定的に重要なポイントだと考えています。

なお、ニーズ(needs)に対応するという言い方がされることがありますが、ニーズは複数形。目の前の一人ひとりの要求とはニード(need)という単数形であること。単数形のニードが、複数形のニーズとして捉えられていく過程で、一人ひとりの顔が消えてしまう。居場所が対応するのは、ニーズでなく、ニードであるというのも重要なことだと考えています。

他者との緩やかな関係

「矩を越えない距離感」と表現は異なりますが、仲間でない緩やかな関係については次のような指摘がされています。

統計数理研究所の岡檀(2013)は、日本で最も自殺率の低い地域(自殺希少地域)の1つである徳島県海部町(現在の海陽町の一部)を対象とする調査から、次の5つの自殺予防因子が見出しています。

  • いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい
  • 人物本位主義をつらぬく
  • どうせ自分なんて、と考えない
  • 「病」は市に出せ
  • ゆるやかにつながる

4番目に挙げられている「『病』は市に出せ」というのは海部町の人々が口にする格言。「『病』とは、たんなる病気のみならず、家庭内のトラブルや事業の不振、生きていく上でのあらゆる問題」、「『市』というのはマーケット、公開の場」を意味しており、「『病』は市に出せ」というのは、問題が起こったら「早めに開示せよ、そうすれば、・・・・・・、周囲が何かしら対処法を教えてくれる。まずはそのような意味合い」であり、同時に、「やせ我慢すること、虚勢を張ることへの戒め」でもあるとされています。
先に、多くの人は地域の人に弱いところを見られたくないという思いについて触れましたが、これに対して、「『病』は市に出せ」という格言は、住まいを開くことに言及するものだと捉えることができます。

岡檀(2013)で、「他の四つの要素の根源であると同時に帰結でもあると言える」と指摘されているのが5番目の「ゆるやかにつながる」で、海部町における人々の関係について次のように述べられています。

「先に述べたとおり、海部町は物理的密集度が極めて高いコミュニティであり、好むと好まざるとにかかわらず住民同士の接触頻度は高い。特に密集した居住区では、隣家の電話での会話まで聞こえてくるというような生活を送っている人たちもいて、彼らにとってはプライバシーの保護などまるで現実味がない。
その一方で、隣人間のつきあいに粘質な印象はない。基本は放任主義であり、必要があれば過不足なく援助するというような、どちらかといえば淡泊なコミュニケーションの様子が窺えるのである。」(岡檀, 2013)

また、自殺希少地域である海部町と、自殺多発地域であるA町を比較して、次のようにも指摘されています。

「試行錯誤しながら研究を進めた結果、自殺希少地域である海部町では、隣人とは頻繁な接触がありコミュニケーションが保たれているものの、必要十分な援助を行う以外は淡白なつきあいが維持されている様子が窺えた。
対する自発多発地域A町では、緊密な人間関係と相互扶助が定着しており、身内同士の結束が強い一方で、外に向かっては排他的であることがわかった。二つのコミュニティを比較したところ、緊密な絆で結ばれたA町のほうがむしろ住民の悩みや問題が開示されにくく、援助希求(助けを求める意思や行動)が抑制されるという関係が明らかになった。」(岡檀, 2013)

この指摘は、人々が仲間になるのでなく、「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築くことで地域における助け合いが実現されるという、「実家の茶の間・紫竹」の考えと合致しています。

居場所においても、緩やかな関係についての話を伺ったことがあります。
1つは、多摩ニュータウンの近隣センターの空き店舗を活用して、2002年1月に開かれた「福祉亭」。「福祉亭」では、当初はコミュニティとして「疑似家族」のようなものを目指していたが、「疑似親族」ぐらいの距離のある関係がちょうどよいかもしれないという話を伺ったことがあります。
もう1つは、杉並区に2015年3月に開かれた「荻窪家族レジデンス」。「犬も、子どもも大人も、誰もが風のように生き交えるような場をつくりたい」という思いから開かれた地域の人々が集えるラウンジや工房など、会員制のコモンスペース(百人力サロン)を持った賃貸住宅で、血縁という濃密な関係に埋め込まれた存在でも、他者との関わりを持たない孤立した存在でもなく、自立した個人と個人が、地域の人々と家族のような関係を築いていけることが目指されています。「荻窪家族レジデンス」における「百人力」という表現には、地域の多くの人々からの助けという「百人力」を得ることができると同時に、自分自身も他の誰かにとっての「百分の一の力」になれること、という意味が込められていると伺いました。個人と個人が一対一で向き合うのでなく、「百分の一」であるという意味で、緩やかな関係が目指されていると捉えることができます。

アメリカの社会学者であるリチャード・セネット(1991)は、親密さについて次のように指摘しています。

「親密さとはひとつの限られた視野であり、人間関係によせる期待である。それは人間の経験を局所に限ることであり、そこで直接的な生活環境に近いものが至上のものとなる。・・・・・・。親密な付き合いの障害となるものを取り除こうとして人々が捜し求めているのは熱烈な種類の社交性であるが、この期待は行為によって裏切られる。人々が近づけば近づくほど、人々の関係はより社交性の乏しい、より苦痛な、より兄弟殺し的なものになるのである」

「都市は・・・・・・、他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になることが意味のあるものになるフォーラムでなければならない。」(リチャード・セネット, 1991)

「他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になること」の結果として、地域における助け合いというかたちの、住まいを開くことが実現されていく。居場所とは、このような場所だと考えることができます。


■注

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。