『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

末崎町の史跡めぐり

2017年10月29日(日)、「居場所ハウス」にて末崎の歴史を学ぶ会を開催しました。
「居場所ハウス」ではこれまで2度(2016年1月11日(月)、2016年11月20日(日))、講演会形式で末崎の歴史を学ぶ会を開催してきました。今回は、「居場所ハウス」の外に出て実際に末崎町内の史跡を巡るという初めての試みです。講師はこれまでと同じく、「末崎の昔を語る会」事務局長のNさんがつとめてくださいました。

この日は台風の影響であいにくの雨で、参加者も10人と少なかったですが、以下のようなコースで末崎町内の史跡を巡りました。


通岡峠の稲子沢地蔵尊
通岡峠展望台のすぐ下にある稲子沢地蔵尊。参加された方の何人かが、三陸道が完成してから通岡峠を通ることはなくなったと話されていました。

大平(おおだいら)採金跡
船河原の杉林の中に、1600年頃の土金を採掘した跡が見られる。かつて船河原には西光寺というお寺があった。当時、お寺は鉱山に付いて移動したので、お寺が存在していたことも、この辺りで金が採れたことを裏付けている。

雷神社
現在は船河原地域で管理されている神社。雷神社は水を祀る神。土金を掘るためには水が必要であることから、雷神社も採金に関わっているとのこと。

長源寺境内の津波慰霊塔
朝日新聞からの義捐金により昭和10年3月3日に建立。慰霊碑に合わせて、末崎村内に28ヶ所の津波襲来地点標石も設置。東日本大震災前には、28のうち20の標石が確認されたが、東日本大震災で中の、小細浦の2つの標石がなくなり、現存するのは18の標石。28の標石を復元したいと考えているという話でした。

太鬼之神(たきのかみ)
神坂熊野神社から少し歩いたところにある神社で、神坂熊野神社の発祥の地。昔は太鬼之神の社が建っている場所に神坂熊野神社があったが、台風でなんども社が倒れるので神坂熊野神社は現在の場所に移転したとのこと。太鬼之神の後、神坂熊野神社を参拝。

中森熊野神社
かつて、社殿の周りの3本の椿があったが(三面椿)、現在残されているのは1本だけ。この椿は日本最大・最古の椿。なお、中森熊野神社は現在、碁石神社にもなっています。

末崎城跡
西舘地域にある城跡で、本丸跡には「末崎の昔を語る会」によって建立された記念碑がある。絵図面によると、末崎城(西舘城と呼ぶ人もいる)と泊里湾を挟んだ反対側には「東館」の名も確認される。現在、末崎城跡は年に1回、「末崎の昔を語る会」のメンバーが草刈りをしているとのこと。東日本大震災後、末崎城跡を広場にしたいと考えたボランティアにより記念碑のすぐ後ろの松の木に櫓が設置されたが、その後、松の木が枯れてしまったという話でした。

この日の史跡巡りは、10時に「居場所ハウス」をスタートし、「居場所ハウス」に13時半に到着。3時間半のコースとなりました。


翌日、「居場所ハウス」で史跡巡りの話になりました。

神坂熊野神社について、宮司の姓は「宮崎」であり、宮崎家から分家した人々は「紀室」姓を名乗っている。宮司は紀州(和歌山県)出身で、「紀室」とは宮司の出身である紀州の室町からとられているという話でした。

以前、泊里にお住まいだった女性からは、子どもの頃は末崎城のことを「舘ヶ城」と呼んでいたこと、現在は林になっている部分も昔は畑だったという話を伺いました。