『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所:自らが身銭を切って開く公共の場所

日本では2000年頃から居場所をキーワードとする場所(まちの居場所)が同時多発的に開かれてきました。
地域住民が気軽に集まれる場所が欲しい、地域で働きたい、地域で子育てしたい、何歳になっても地域で住み続けたいなど、居場所は既存の制度や施設の枠組みでは上手く対応されない切実な思いに対応するために開かれ続けてきました。

居場所は暮らしを支える公共の役割を担っきました。その一方で、個人、あるいは、ボランティアで運営されている小規模な場所が多いこと、運営費の獲得を課題にしている場所が多いことなどの理由から、居場所に対しては、運営に持続性はあるのかという意見は常に出されてきました。それゆえ、居場所の運営を継続させるために、どのような制度的なサポートが必要かという議論もされています。

居場所は公共の役割を担う場所ではあるが、その運営基盤は、既存の施設のように安定しているわけではない。

このことに関連して、最近、同じようなことが指摘されている文章を見かけました。

1つは、哲学者の鷲田清一氏の次の言葉です。

「そういうふるまいをこそわたしたちは「公共」と名づけたはずである。だが、その「公共」を「お上」に預ける、委ねるという習性を、わたしたちは未だに脱しえていない。「公共」は、上から下りてくるもの、つまりは「だれのものでもないもの」として受けとめられ、じぶんたちの私財や労力を提供するなかでともに担い、維持すべきもの、つまりは「みんなのもの」とは、未だ十分になりえていない。いま「憲法」を論じるなかで、わたしたちはこの前提をこそしっかり築いていかねばならないのだとおもう。それぞれの場所で。」
*鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社 2019年

もう1つは、フランス文学者で思想家、武道家でもある内田樹氏の次の言葉です。

「平川君は、国や地方自治体に頼ったり、力ある人から支援を引き出すのではなく、「弱者を支援するのは弱者である」とよく言っています。僕も同じ意見です。「公共を支えるのは公共ではなく、私人である」。
公共というのは、そこに自然物のようにあらかじめ存在するものではなく、私人が「身銭を切って」立ち上げる他ないものです。」
*内田樹「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク」・『内田樹の研究室』2020年3月2日

公共とは「じぶんたちの私財や労力を提供するなかでともに担い、維持すべきもの」であり、「私人が「身銭を切って」立ち上げる他ないもの」だということ。

これはまさに居場所にも当てはまると思います。
居場所がこの意味での公共だとすれば、制度的なサポートを行うことで、つまり、「お上」に委ねることで、居場所が「私財や労力を提供」したいと思える場所でなくなれば、「身銭を切って」もいいと思える場所でなくなれば本末転倒ということになります。
居場所は、公共という概念の問い直しを迫る動きでもあるということです。