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大船渡市末崎町の人口・世帯数の推移と地域振興の目標

大船渡市末崎町(まっさきちょう)は、岩手県大船渡市に10ある行政区の1つ。東日本大震災による被害を受け、人的被害は死者32名、行方不明者29名、家屋の被害は全壊606戸、大規模半壊53戸、半壊58戸、一部損壊40戸となっています(岩手県大船渡市「地区別の被害状況について」2011年6月2日より)。

震災後、末崎町内の5ヵ所に313戸の仮設住宅が建設されましたが、高台移転の進展に伴い、2018年3月末で全ての仮設住宅が閉鎖となっています。
東日本大震災から間もなく9年。統計資料から現在の末崎町の姿を見ていきたいと思います。

末崎町の人口・世帯数の推移

末崎町の人口推移

末崎町の長期的な人口の推移を見ると、大正から昭和の後半にかけて人口は増加傾向にあり、1985年(昭和60年)にピークの6,077人となります。
1970年に一度人口が減少した後、急激に人口が増加しているのは、大田団地が開発されたため。大田団地は1971年5月に宅地分譲が始まった、約250戸からなる新興住宅地ですが、東日本大震災の大きな被害を受けました。

人口は1985年にピークを迎えた後、減少が続きます。末崎町にとっての平成は、人口が減少し続けた時代だったということになります。
2015年の人口は4,103人であり、ピーク時の約68%に減少。この人口は1940年代と同じくらいの人口です。

現在の大田団地

末崎町の近年の人口・世帯数の推移

末崎町の近年の人口の推移を見ると、人口は一貫して減少し続けていることがわかります。東日本大震災の2011年には人口が大きく減少していますが、東日本大震災前から人口は減少し続けていたこと、そして、東日本大震災後も人口は減少し続けていたことがわかります。

東日本大震災前年の2010年の人口は4,951人、それに対して2019年の人口は4,077人であり、東日本大震災後に874人減少していることになります。2019年の人口は震災前年の約82.3%となっています。

世帯数については、東日本大震災の2011年には大きく減少しましたが、その後はほぼ一定となっています。2019年の世帯数は震災前年の94.3%であり、減少の割合は人口ほどではありません。

人口が減少し続けているにも関わらず、世帯数がほぼ一定であることから、世帯あたりの人員は減少し続けることになります。人口がピークを迎えていた1985年の世帯あたりの人員は4.04人でしたが、2019年では約2.67人まで減少しています。
こうした状況は、高齢夫婦の世帯、あるいは、高齢の単身世帯の増加という状況を生み出していると思われます。

末崎町の将来推計人口

末崎町の人口は今後もさらに人口減少が予想されています。国立社会保障・人口問題研究所の『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』によると、大船渡市全体の2045年の人口は、2015年の人口の約56%にまで減少するとされています。

これを末崎町に当てはめると、2045年の人口は2,425人。第1回目の国勢調査が行われた1920年(大正9年)の人口2,861人よりもさらに少ないことになります。大正の前半、あるいは、明治の人口に近づいていくことになります。

ただし、この人数はあくまでも推計。来年度で統廃合により末崎町から中学校がなくなるなどの状況を考えれば、人口はこの推計よりさらに減少している可能性は十分にあり得ます。
そうなると、次は小学校がなくなる、2つの熊野神社のお祭り、虎舞は今と同じかたちでは行えなくなるなどの状況に直面することもあると思います。


統計資料により末崎町の人口が減少していることを見てきましたが、こうした状況は決して末崎町のことだけではありません。東日本大震災の被災地に、そして、日本の地方に広く見られる状況だと思います。

地域振興の目標

少し前、社会学者の小熊英二氏の『地域をまわって考えたこと』(東京書籍 2019年)を読みました。

小熊英二氏は「地域とは、そこにいる人々の活動や社会関係の総体のこと」であり、人がその地域にいるのは「そこに人が集まる理由があったから」と述べています。これを逆に考えれば、地域から人口が減っているのは、そこに人が集まる理由が薄れているから、ということになります。

「このようにみると、人口が減っている地域とは、「かつては人が集まる必然性のあった地域」であり、「いまでは人が集まる必然性が薄れている地域」であることがわかる。
いわば地域社会とは、「ヒト・モノ・カネ」という川の流れのなかにできた、渦巻きや水溜まりのようなものだ。「なぜここに渦巻きがなくなったのか」「どうしたらここに渦巻きを作れるのか」といった問題は、全体の流れの変化を踏まえずに考えることはできない。地域社会とは、そこにいる人々の活動や社会関係の総体のことであって、そこに山や川があることではないからだ。」

地域振興の目標として「「かつての賑わいを取り戻す」という発想には限界がある」。小熊英二氏は、地域振興の目標は基本的には地域住民が決めるしかないと断った上で、その方向性として「「他から必要とされる地域」および「持続可能で人権が守られる地域」という目標の立て方がありうると思う」と述べています。

「このような前提に立つならば、地域振興はどのように可能なのかもみえてくる。
まず、「かつての賑わいを取り戻す」という発想には限界がある。こうした発想では、その地域のピーク時と比較して、どれだけ人口が減ったか、賑わいが減ったかが述べられがちだ。
しかしこれまで述べてきたように、地域社会とは、それ単独で人口が増えたり減ったりしているのではない。日本社会あるいは国際社会の「ヒト・モノ・カネ」の流れの変動のなかで、ある地域に富や人口が集まっていた時期があった、というのが実情である。過去の社会条件を再現するのが不可能である以上、「かつての賑わいを取り戻す」ことも非現実的だ。イベントなどで一時的に人を集めても、それを契機に社会全体の流れが変わるのでもなければ、期待するような効果はあがらない。
では、地域振興の目標は、どんなものであればよいか。これについては、基本的には地域住民が決めるしかない。しかしあえて示唆を述べるならば、「他から必要とされる地域」および「持続可能で人権が守られる地域」という目標の立て方がありうると思う。」

「他から必要とされる地域」

「他から必要とされる地域」というのは、例えば、「農産物や原材料を出荷」したり、「景色や文化遺産を鑑賞」してもらったり、産業を誘致したりすること。
これを末崎町に当てはめれば、海の幸や、椿をいかした特産品を販売したり、穴通磯をはじめとする景観、虎舞などをいかした観光、夏は涼しく、冬はほとんど積雪がない気候を売りにした人や企業の誘致などを考えることができる。また、東日本大震災の記憶を伝えたり、ワカメの漁業の体験する機会をもうけたりすることも、他の地域にはないものということで、「他から必要とされる地域」につなげることができる。こう考えると、末崎町にはまだまだ多くの可能性があると思います。

小熊英二氏は、「他から必要とされる地域」を実現する上では「地域にまとまり意識がないとむずかし」く、それがないと「特定の企業や特定の個人が評価されても、その地域社会を盛り立てることにはつながりにくい」と指摘しています。

「地域として認知を得ることを目的とするなら、地域としてのアイデンティティないし集合意識が存在することは重要である。物産や産業をブランド化したり、街なみを整備して観光客をひきつけるには、地域にまとまり意識がないとむずかしい。それがない場合、特定の企業や特定の個人が評価されても、その地域社会を盛り立てることにはつながりにくい。」

「持続可能で人権が守られる地域」

「他から必要とされない地域は存在意義がない、というわけでもない」。そこで、小熊英二氏がもう1つの目標としてあげているのが「持続可能で人権が守られる地域」で、「地域社会の最大の存在意義は、その地域に生きている人々の幸福や人権が、持続的に守られることであるはずだ」と述べられています。
この観点に立つと、地域の人口が減少すること自体や、地域の活気がなくなることが問題なわけではない。「人口が減少しても、減った人数で持続可能な社会に移行し、住んでいる人々の人権が守られていればよいという考え方もできるはずである」、「インフラや財政をふくめた地域の持続可能性が確保され、地域で「健康で文化的な生活」が維持できるなら、活気がなくても「困る」ということはない」と小熊英二氏は指摘しています。そのためには、「まず、人口の構成を適正にすること」が重要だと。

「いずれにせよ、「地域振興」の目的は、自治体財政の改善や域内GDPの増大だけではない。その地域の人権を守り、人口バランスとインフラを維持して地域を持続させることも、目的として認められてよい。少なくとも地域によっては、そうした目標の立て方のほうが、「かつての賑わいを取り戻す」という目標の立て方よりも、現実的である地域はありうるのだ。」

ここで統計を見てきたように、今後、末崎町の人口が増加することは考えにくい。だとすれば、末崎町を維持するためには何人くらいの人口がいればよいのか、そのための適正な人口規模はどうあるべきかを考えていく、という作業が求められることになります。

人口が減少していくというのは暗い話ではありますが、考えてみれば、末崎町に人が住み始めたのははるか昔の出来事で、それ以来、末崎町はずっと持続してきたとも考えることができる。人口が急増した昭和が特異な時代だったのだとすれば、これから少しずつ持続可能な人口へと戻っていくということかもしれません。


参考