『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所と縁食(アフターコロナにおいて場所を考える-21)

縁食と子ども食堂

「ひとりぼっちで食べること」を意味する孤食に対して、共食、つまり、「広義には、共同体の構成員で同じテーブルを囲んで食事すること」が対置されることがあります。こうした状況に対して、農業史と環境史を専門とする藤原辰史は、著書『縁食論:孤食と共食のあいだ』(ミシマ社, 2020年)において、「あまりにも私たちは共食に期待をかけすぎていないだろうか」という問題提起をしています。

「食の研究にたずさわる人間がもっと敏感でかつ論理的であれば、主権者は、もっと広い観点から孤食を分析することができるだろう。その人間たちが用いる道具のなかでもとりわけ問題なのが、孤食と共食というペア概念である。」(藤原辰史, 2020)

「・・・・・・、私たちはしばしば孤食を克服する概念として共食を置いてきた。しかし、あまりにも私たちは共食に期待をかけすぎていないだろうか。こころとからだに痛みを覚えながら、それでもひとりぼっちで食べざるをえない子どもたちに居場所を与えるヴィジョンとして、あまりにも一家団欒というイメージに拘泥しすぎてこなかっただろうか。端的にいえば、孤食という険しい山を登りきることができる集団は、家族だけなのだろうか。」(藤原辰史, 2020)

孤食と共食がペア概念で使われる状況に対して、藤原辰史(2020)が提示するのが縁食で、例えば次のように説明されています。

「縁食とは、孤食ではない。複数の人間がその場所にいるからである。ただし、共食でもない。食べる場所にいる複数の人間が共同体意識を醸し出す効能が、それほど期待されていないからである。」(藤原辰史, 2020)

「縁食とは、すでに関係性がある人間たちが集まって食べる場所であるとともに、縁もゆかりもない人間たちが場所と時間を共有する場所でもある。人間の『へり』と『へり』がすれ違うような場所だが、たまに『へり』どうしが、重なり合うこともある。」(藤原辰史, 2020)

「子ども食堂で実践されているように、孤食ほど寂しくなく、共食ほど規制が強くない食のあり方を『縁食』と名付け、ちょうど建てものの縁側のようなその食のあり方を考えてきた本書で、・・・・・・」(藤原辰史, 2020)

このように説明される縁食はどのような場所で生まれているのか。藤原辰史(2020)は、その例として子ども食堂をあげています。

子ども食堂は、貧困な子どもを支援する場所だというイメージで受け止められる場合がありますが、元々、子ども食堂が対象とする子どもに「貧困な」という限定は付いていませんでした。
社会活動家で、NPO法人「全国こども食堂支援センター・むすびえ」の理事長を務める湯浅誠(2017)によれば、「こども食堂」の名称は東京都大田区の「気まぐれ八百屋だんだん」で2012年に使い始めたものだということです。「気まぐれ八百屋だんだん」におけるこども食堂のモットーは、子どもや大人にかかわらず「孤食を防ぐ」こと。ところが、「子どもには家庭と学校以外の居場所が少なく、特に『ここに来てもいいんだよ』と呼びかける必要がある。そこで『こども食堂』と命名」されたとのこと。湯浅誠(2017)は、「気まぐれ八百屋だんだん」では「こども食堂とは、子どもが一人でも安心して来られる無料または低額の食堂」と定義されていることに触れて、「『子ども』に貧困家庭という限定はついていない」と指摘し、子ども食堂[1]を「多くの人たちがごっちゃに交わる交流拠点のイメージ。みんなでわいわいやりながら、食卓を囲み、思い思いに過ごす、寄り合い所のイメージ。地域の子どもや大人が誰でも参加できるプレイパーク(子ども広場)の食堂版」と表現しています。

ところが、次のような経緯で、子ども食堂は「過度に子どもの貧困問題と結びついていった」ということです。

「ところが、幸か不幸か、近藤さんが『こども食堂』の看板を掲げた翌年の二〇一三年、子どもの貧困対策推進法が成立した。その後、子どもの貧困に対する社会的注目の高まりの中で、こども食堂は、学習支援(無料塾)と並ぶ子どもの貧困対策の主要メニューとなっていく。その中で、ケア付食堂も増えていった。結果的に、性質の異なるものが『こども食堂』という名称の下に同居する形になった。
ただし、それは必ずしも悪いことではない。共生食堂とケア付食堂という二つの中心を包み込む楕円だったからこそ、こども食堂はさまざまな考え、指向性をもつ人々の思いを受け止める存在になりえた。だから広がった。同時に、社会的には、こども食堂はある意味では過度に子どもの貧困問題と結びついていった。だから違和感も広がった。」(湯浅誠, 2017)

「『こども食堂』が急速に広まり、普及する中で、どうしても先駆者が込めた思いは薄められていってしまうから。・・・・・・。しかし『こども食堂』は『こどもの食堂』ではない。もっと多様で、雑多で、豊かなものだ。『こども食堂』の取り組みを盛り立て、広げつつ、その理念も失わずにいたい。」(湯浅誠, 2017)

湯浅誠の議論を受けて、藤原辰史(2020)は次のように、子ども食堂は「『縁食』がはらむ弱目的性と解放性」を体現する場所だと捉えています。

「湯浅誠が繰り返し述べるように、子ども食堂は、貧困家庭の子どものためという目的だけで成り立っているのではない。地域の交流活性化(もう少し砕けた言い方をすればダベリ場)という目的も重要であり、これらの「二本足」で立つ実践だ、というところが興味深い。「縁食」がはらむ弱目的性と解放性を、子ども食堂は見事に体現しているからだ。「弱目的性」というのも私の造語だが、目的をあえて強く設定せず、やんわりと複数の目的に目配せしながら大きく広く構えてみる、という程度の意味である。」(藤原辰史, 2020)

公衆食堂

藤原辰史(2020)は、子ども食堂を公衆食堂の歴史の一部として捉える視点を提供しています。

公衆食堂とは、例えば、日本では第一世界大戦がきっかけとなり開かれた東京市の市設食堂のように、「忙しく、所得の低い都市生活者のために、安くて簡単に食事を供給すること」を目的として開かれた場所のこと。東京市の市設食堂は、関東大震災の際には炊き出しを担うことで被災者が生き延びる拠り所となったということです。その後、「震災後、東京が落ち着いてくるとだんだんと利用者が減ってきて、最終的には経営難に陥る食堂が増えていった。そして、いつしか姿を消してしまった」(藤原辰史, 2020)とされています。

藤原辰史(2020)は、次のように、子ども食堂を、公衆食堂の歴史の一部として捉える視点を提供していますが、ここで注目したいのは、「困や労働条件の問題そのものの解決にはならない」という批判に対して、藤原辰史(2020)が「子ども食堂の理念を考える」ときには「貧困対策という目的は後景に退く」と記していることです。

「こうした「子ども食堂」の試みを「公衆食堂」の歴史の一部としてとらえ、その歴史的展開と現在の展望をある研究会で発表したとき、私は、ベテランの研究者から、「公共の食堂は国家の手の届かないところを補完するだけであって、その原因となる貧困や労働条件の問題そのものの解決にはならない」という批判を受けた。
たしかに、国家が進める経済政策、とくに規制緩和の矛盾を緩和する補助機関として子ども食堂を位置づけることは間違いではない。地域のボランティア精神が社会保障の欠陥を補うために用いられているという見方もありえよう。
だが、私のとらえ方は少し違う。子ども食堂にみられるような、家族の枠を超えた食のあり方は、人と人の交わる公共空間を活発化し、さらに創造していくポテンシャルを内包している。食べものを通じた人と人の結びつき方は、宗教や思想とは異なる率直さを持つ。すでに国家が市場経済の補完的役割をかなり強めている現在、国家が公共空間を設定することは、それこそ道徳的になってしまい面白くない。学校の場を離れ、しかも学習塾でもない場所で、人が、ただご飯をおいしく、しゃべりながら食べる、食べさせるという目的だけのために集まる。こんなシンプルな子ども食堂の理念を考えるとき(そこには貧困対策という目的は後景に退く)、じつはもう、孤食と共食というセットの概念はそれほど役に立たない。」(藤原辰史, 2020)

藤原辰史(2020)を読み、公衆食堂という場所が日本に存在していたことを初めて知りましたが、「公衆」という表現について、次の議論が思い起こされます。

山本哲士は、日本語では公が「公衆」と「公共」と使い分けられていることに注目して、次のように「『公』には社会と相容れないものと社会にリンクしていくものとの二つがある」と指摘しています。

「『公』とつく用語を列記しよう。
公園、公衆浴場、公衆便所、公立学校、公民館、公的資金、公共建築、公共事業・・・・・・・微妙な意味がしっかりと区別されて使われている。同じ『公』においても、『公便所』とも『公資金』ともいわないし、『公事業』ともいわない。公でも、『公衆』、『公共』、『公的』とそれぞれ意味がちがうのだ。しかも、極めて論理的に識別されている。
さらに、これらの『公』に『社会』をはめてみると、『社会』とは決して言っていないのがはっきりする。社会園、社会立学校、社会便所、社会浴場とはいわない。しかし、社会事業、社会建築とはいう。決定的な違いがそこには表現されている。にもかかわらず、『公』は社会であるかのように物象化されている。この意味は深い。そして、社会と重なるものはそのように区別されて使われている。
つまり、『公』には社会と相容れないものと社会にリンクしていくものとの二つがある。後者の理解が一般的になっていて、公=お上=役人=国家という連結がなされているとき、公的なものが社会とくっついている。それが『公共』である。『公的なもの』と『公共』との間には本質的な違いがある。そして、日本語には、『公』と『社会』とを対立させている『もの=場』がはっきりとあるのだ。」(山本哲士, 2006)

「公共浴場などとは言いませんね、日本語は論理的にはっきりと区別しています。『公』というのは、プライベートなものが生かされる場所なのです。しかし、公共というのは、社会へそれを構成変えしようとする搾取です。
公的なものは、オープンなのですが、それ自体は閉じられます、プライベートさを守るためです。公衆浴場を外へ開いたならたいへんなことになります、内部では真っ裸でオープンですが、外へは閉じています。ここが、デザインとして大事なポイントです。公共は全部開いているのです、なぜならプライベートなものはそこに存在しないからです。」(山本哲士, 2010)

日本語では「公衆~」、「公共~」と使い分けられているように[2]、公的なもの(パブリック)は「プライベートなものを生かす」もので、それは「社会と相容れないもの」。それに対して、公共は「社会にリンクしていくもの」で、そこにはプライベートなものは存在しない。

この議論をふまえれば、公衆食堂、そして、その系譜としての子ども食堂は「プライベートなものを生かす」公的なもの(パブリックなもの)であり、それは「社会と相容れないもの」ということになります。
湯浅誠(2017)が、子ども食堂が貧困対策と見なされる傾向にある状況に対して、子ども食堂は「もっと多様で、雑多で、豊かなものだ」と指摘していたように、藤原辰史(2020)が「そこには貧困対策という目的は後景に退く」と指摘していたように、子ども食堂は必ずしも貧困対策のための場所ではない。ところが、子ども食堂を貧困対策のための場所と捉えることは、本来、公的なもの(パブリックなもの)であった場所を、公共のものと捉え、社会にリンクさせていく作業だと捉えることができます。これは、コミュニティカフェ、地域の茶の間などの居場所が制度に取り込まれるに際して、介護予防という機能が前景化することと重なっています(田中康裕, 2021)。

親密でない関係を許容する

藤原辰史(2020)は、アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグのサードプレイスに言及し、「『縁食』という食の形式」とレイ・オルデンバーグのサードプレイスは、「『居心地のよさ』や『空気づくり』といった点を注視するのは共通している」が、レイ・オルデンバーグは「排除的な社会をほぐしていく機能」を見落としていると指摘しています。

「『サードプレイス』が持つ機能のなかで、オルデンバーグは重大な機能を見落としている。それは、排除的な社会をほぐしていく機能にほかならない。パンデミックの孤独を生きるひとり親たちにとって、オルデンバーグの『サードプレイス』に浮上するきっかけはあらかじめ閉ざされている。ひとり親に向けられる眼差しを再生産することはあるだろうが、それを解体していくことはできない。『サードプレイス』の『居心地のよさ』は、こうした眼差しに支えられることになる。
だが、本来の縁食的『サードプレイス』とは、そうではない。逃げ場であり、異議申し立ての場であり、異種混交の場であるのだが、それら以前に、とりあえず食べものにありつける場所である。人と群れることが嫌いな人でも、少なくとも居ることを阻害されない場所である。そこで食べものをもらっても、先ほどのサイトへのコメントにあったように、「くれくれ、ばかりいってないでもっと自分でできることを探したら?」とは誰も言えない空間である。なぜなら、誰もが「くれくれ」と言っているからである。」(藤原辰史, 2020)

藤原辰史(2020)が指摘する常連意識と、それがもたらす排除性については、コミュニティカフェ、地域の茶の間などの居場所対して向けられる問題提起でもあります。例えば、コミュニティカフェ、地域の茶の間は、集会所や公民館と異なり、目的がなくてもふらっと立ち寄れることを目指していると言っても、常連ばかりで入りづらい、という問題提起です[3]。

しかし、一般的なイメージと異なるかもしれませんが、筆者がこれまで調査させていただいた居場所では、地域の人々の関係を築くことを重視していても、親密な関係にある人だけでなく、そうではない人でも居られるような緩やかな関係が大切にされています[4]。

このことを明確に意識して運営しているのが、新潟市の最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」として開かれた「実家の茶の間・紫竹」で、他者との適切な距離をおいた「矩(のり)を越えない距離感」を大切にする関係を築くことが目指されています。

「矩(のり)を越えない距離感」を大切にする関係を築くことの背景には、「実家の茶の間・紫竹」の運営に携わっておられる河田珪子さんらの長年にわたる経験があります。
河田珪子さんは、自らが立ちあげた会員制の有償の助け合い活動「まごころヘルプ」を振り返って、次のように話しています。

「町内で始めると、人は頼まないんですよね。なかなか家の中のことを外に漏らしたくないですし、見られたくないですし、評価されたくないからね。『まごころヘルプ』は全市を相手にした、あるいは、市外も相手にしたわけ。だから上手くいったんですね。」

「みんな近所の人なんか来てもらいたくないんです。できるだけ交通費かかってもいい、どんな遠くからでもいい。全然知らない人に来てもらいたいっていうのがものすごく多くて。それじゃ助け合いにつながっていかない。」

同じ地域の人には、自分の家の中を見られたくないし、家の中のことを評価されたくない。「共助」という言葉がしばしば使われるように、地域住民同士の助け合いの重要性が指摘されますが、河田珪子さんの言葉からは、「共助」の実現は容易でないことが伺えます。だからと言って、全市、あるいは、市外という大きな範囲を対象とするのでは、地域住民同士の助け合いの関係は広がらない。ここで求められるのは、親密だから助け合うのではなく、同じ地域に住んでいる住民同士だから助け合うのだという考え方の転換です。「矩(のり)を越えない距離感」を大切にする関係は、この根幹になるもの。

これを実現するために、「実家の茶の間・紫竹」で配慮されているのが「居心地のいい場づくりのための作法」[5]。多くの作法が考慮されていますが、例えば、茶の間のよく見える位置には「その場にいない人の話はしない(ほめる事も含めて)」、「プライバシーを訊き出さない」、「どなたが来られても『あの人だれ!!』という目をしない」という約束事を掲示するのもその配慮です。

「実家の茶の間・紫竹」のように明確に意識されていなくても、噂話をしないことを意識している場所は多いと感じます。東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」の運営者は筆者に対して次のように話しています。

「ここで語ったことなどは、人の噂話などは外に行って絶対にしないことにしましょうって、これだけは決めてあるんですね。」

大阪府千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」の初代代表も次のように話しています。

「ここでしゃべったことが、あちこちに聞こえたら具合が悪いような、嫌なことって、やっぱり困るじゃない。だから、お互いはこの場所だけでおさめるようにね、この場所で起こったことはこの場所でおさまるようにしていこうっていうことは言いましたね。」

同じ地域に住んでいたとしても、頻繁に顔を合わせたり、深く付き合ったり、年代が近かったりするのでなければ共通する話題はそれほど多くない。この時、他の住民のことは数少ない共通点として話題にしやすい。噂話は人々の関係を媒介する紐帯としての機能を果たしますが、同時に、噂話に入れない人々に対して排他的になってしまう。阿部謹也(1995)の指摘を踏まえれば、噂話は世間を作り出しているということになります。

「世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている」もので、それは「排他的であり、敢えていえば差別的ですらある。」(阿部謹也, 1995)

親密でない関係を許容することは、「個人個人を強固な絆で結び付けている」がゆえに排他性を有してしまう世間を解除しようとする試み。先に、居場所では地域の人々の関係を築くことを重視していても、親密な関係にある人だけでなく、そうではない人でも居られるような緩やかな関係が大切にされていると書きましたが、これは修正しなければなりません。地域の人々の関係を築くことを目指すからこそ、緩やかな関係が大切にされているということです。


以上のような議論をした時に、筆者がしばしば受けた質問は、緩やかな関係を大切にすることには、どのような効果があるのか? というものです。このような質問をする人は、「孤立防止になる」、「災害の時に助け合える」、「介護予防になる」などの効果があるという回答を期待しているように感じます。けれども、このような議論の仕方こそが、パブリックなもの(公衆)を公共に回収する作業であることに注意しなければなりません。

こうした作業に与することなく、緩やかな関係そのものの価値を表現すること。藤原辰史(2020)における「縁食」という概念は、この価値そのものを記述する概念だと考えています。そしてこれは抽象的なことではなく、「人が、ただご飯をおいしく、しゃべりながら食べる、食べさせるという目的だけのために集まる」(藤原辰史, 2020)というシンプルな場所をきちんと見つめれば、自ずから目に入ってくることなのだと考えています。


■注

  • 1)湯浅誠(2017)では「こども食堂」と表記されているが、ここでは藤原辰史(2020)にあわせて、引用部分を除いて「子ども食堂」と表記している。
  • 2)藤原辰史(2020)は、次のように「ちなみに私が「公衆」という言葉にこだわるのは、学生時代に銭湯にお世話になったからである」と述べている。
  • 3)筆者は居場所には常連「も」必要だと考えています。居場所に常連という内部の人が存在することの意味については、劇作家の平田オリザによる「セミパブリックな空間」の議論を参照。
  • 4)筆者は「親密な関係にはないが、かといって全くの他人でもないような顔見知りという関係」を「中間的な関係」と呼んでいる。「『中間的な関係』がより親密な関係へと変わっていくこともあり得る」が「『中間的な関係』が『中間的な関係』なままであることが許容される」(田中康裕・鈴木毅, 2008)ことが重要だと考えている。
  • 5)「居心地のいい場づくりのための作法」の詳細は河田珪子(2016)、田中康裕(2021)などを参照。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。