『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

場所に居られること①(アフターコロナにおいて場所を考える-12)

居場所と施設

フリースクール、フリースペース、コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、宅老所、子ども食堂など、各地に様々な居場所が開かれてきました。目的も、運営のあり方も様々ですが、これらの居場所に共通するのは従来の施設では上手く対応できない課題に向き合うために開かれた施設ではない場所であること。

ここで注目したいのは、施設でない場所として開かれた居場所が、施設のモデルになったり、制度に取り込まれたりする動きです(居場所の制度化)。居場所の制度化として、例えば、次のような動きをあげることができます。

  • 不登校の子どもとその親のためのフリースクール、フリースペース(1980年頃~)
    →文科省による「子どもの居場所づくり新プラン」の「地域子ども教室」(2004年~)、文科省・厚労省による「放課後子どもプラン」の「放課後子ども教室」(2007年~)*1)
  • 宅老所(1995年頃~)
    →介護保険法改正により「小規模多機能ホーム」が制度化(2006年~)
  • コミュニティカフェ、地域の茶の間など(2000年頃~)
    →介護予防を主な目的とする「通いの場」(2015年~)
  • こども食堂(2012年~)
    →子どもの貧困問題を解決する場所として注目*2)

施設ではない場所として開かれた居場所は、なぜ施設のモデルになったり制度に取り込まれたりしてきたのか。これらの動きを振り返れば、このような疑問が生じてきます。
こうした問題意識を受けて考察を行い、佐々木嘉彦(1975)と、佐々木嘉彦の議論を受けた大原一興(2005)の「要求-機能」関係の議論をふまえ、居場所と施設との違いを次のように捉えました*3)。

  • 居場所:機能は、要求への対応を通して備わる
  • 施設:機能は、要求に先行してあらかじめ設定される

このように捉えると、居場所の制度化とは、要求への対応を通して居場所に備わった機能(例えば、介護予防、子どもの貧困問題の解決など)を抽出し、実現すべきものとしてあらかじめ設定していくプロセスだと捉えることができます。
このことは、居場所と施設の機能は全く別物でないことも意味しており、「要求-機能」関係を入れ替えることで居場所を施設のモデルにすることが可能になるということです。

居られる場所

このように居場所と施設の違いを捉える時、それぞれの空間(建物)の違いをどう捉えることができるのか。以下ではこのことについて考察を試みたいと思います。

施設においては、あらかじめ機能が設定されるため、その空間は機能主義、つまり、機能を空間に割り当てる方法によって作られる。実現する機能があらかじめ決まっており、その機能をどうやって実現するかを考えて空間を作り上げることは広く行われていることで、当然のことと受け止められると思います。
ただし、施設(の機能)の類型は何かは先験的に確定しているわけでなく、機能主義によって空間を作ることが、結果として施設(の機能)の類型を補強することにつながる。機能主義に対しては、このような指摘がなされることがあります*4)。

これに対して、居場所は、運営を通して生じた要求への対応を通して機能が備わることで徐々に多機能化してくる*5)。とは言え、新築する場合でも、空き家や空き店舗など既存の建物をリノベーションする場合でも、何らかのかたちで空間を作らなければ、居場所の運営を始めることはできないのも事実。空き家や空き店舗にほぼ手を加えず、清掃だけで運営を始める場合でも、家具をどうレイアウトするか、掲示や展示をどうするかなどを考えねばならないという点で、空間を作ることが不要になるわけではありません。

このような居場所の空間はどう作られていると捉えることができるのか。
この問いに対しては、居場所が多機能化するとしても、当初の段階では何らかの機能が想定されている。従って、居場所の空間も、当初の段階で想定された機能を空間に割り当てる方法によって作られているのではないかと捉えることは可能だと思います。
しかし、居場所は運営を通して多機能化することをふまえれば、必ずしも当初の段階で想定された機能だけが重視されているわけではない。アンリ・ルフェーブル(2000)は次のように指摘しています。

「機能主義は機能を強調する。そしてそれぞれの機能は支配された空間の内部に位置づけられることによって、ついには多面的機能の可能性が排除されることになる。」

機能主義は「多面的機能の可能性」を排除してしまう。だとすれば、「多面的機能の可能性」が排除されない居場所の空間を、機能主義によって作られていると捉えることで、居場所のある側面を捉え損ねてしまう可能性がある。
エイドリアン・フォーティー(2005)は、「機能主義の方程式のもうひとつの係数である『使用者』」と表現していますが、この表現からは機能主義と使用者(User/利用者)という概念は機能主義と不可分であると考えることができます。実際、施設では利用者(利用者さん)という表現が日常的に用いられるのに対して、居場所では利用者(利用者さん)という表現はほとんど用いられていません。


ここで改めて居場所の空間がどのように作られているのかを見直すと、「居られる」ことを大切にして空間が作られていることに気づかされます。

例えば、東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」のSさんは次のように話しています。

「たとえば家族なんてそうでしょ。何かあった時に、『ヘルプ』って言った時にはぱっと飛び出せるっていうか。だけどもいつもいつも『大丈夫、大丈夫、大丈夫?』って聞いてたら、それこそあれよね。お互いにそれぞれが自分のところに座ってて、誰からも見張られ感がなく、ゆっくりしてられるっていう。だけども、『何か困った時があったよね』って言った時には傍にいてくれるっていう、そういう空間って必要だなぁと思ってね。」

「喫茶店で自分の本開いて読んでる時、『いつまでこの人読んでるの?』なんて思われちゃうと嫌だなって思うじゃない。だけど、ここに本があれば、『ここの本を読んでもいいんだよ』って言えば、自分の本でも読んでいいのかなって思う発想になるじゃない。」

「親と子の談話室・とぽす」の空間は、Sさんのこのような話を聞いた設計者によって設計され、大きさや形、高さの違うテーブルを置いたり、前の通りの桜並木が見渡せる大きな窓をもうけたり、多くの本棚を設置したりされています*6)。

新潟市の「実家の茶の間・紫竹」は空き家を清掃して開かれた場所で、建物が新たに建てられたわけではありませんが、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)を実現するために、机を配置を工夫したり、約束事を掲示したり、囲碁、将棋、麻雀、オセロ、本、縫い物、折り紙、習字、絵の具など希望されたものを揃えたりすることで空間が作られています。代表のKさんは次のように話しています。

「笑い声とか話し声とか、外に漏れ漏れですね。楽しげですね。そのとき、戸を開けた時、みんなが『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする。だから、来てくださった方にどこに座ってもらうかまで考えてる。初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」

「誰からも見張られ感がなく、ゆっくりしてられるっていう。だけども、『何か困った時があったよね』って言った時には傍にいてくれるっていう、そういう空間」、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”」という表現は、次の2つの点で注目すべきだと考えています。
1つは、これらが表現しているのは、明確な目的のある活動にみなが参加するのではなく、人々がどのように居られるかという状況であること。もう1つは、「そういう空間」、「“場”」とされているように、こうした状況は空間とセットでしか表現できないこと。


居場所においては、人々がどのように居られるかが大切にされている。そして、居られることは既に空間の次元が含まれている。それゆえ、それは空間を作っていく手がかりになる。これは、機能主義では捉えきれない領域だと考えています*7)。

そして、人々にとって居られる場所であるからこそ、居場所は(あらかじめ設定した機能に囚われていては漏れ落ちてしまう)要求に対応し、結果として多機能化していくのではないかと考えています。

居られる場所から活動に参加する場所へ

居場所の空間がどのように作られているのかについて、やや回りくどい考察をしてきたのは、居場所の制度化においては居られるという視点が抜け落ちているのではないかという問題意識を抱いているからです。

2015年4月から始まった介護予防・日常生活支援総合事業(新しい総合事業)に「通いの場」がサービスの1つとして盛り込まれました。「通いの場」は、ここで紹介した「親と子の談話室・とぽす」、「実家の茶の間・紫竹」をはじめとするコミュニティ・カフェ、地域の茶の間などをモデルとして、介護予防を目的とする場所として位置づけられています*8)。
通いの場は年を追うごとに増加しており、2018年度では1,558市町村(全市町村の89.5%)の106,766か所の通いの場が活動。その活動内容は「体操(運動)」が56,366か所(52.8%)、「茶話会」20,276か所(19.0%)、「趣味活動」18,068か所(16.9%)、「会食」5,032か所(4.7%)、「認知症予防」4,466か所(4.2%)の順に多いことが報告されています*9)。通いの場というと、高齢者が集まって体操する場所だとイメージされることがありますが、この調査結果からはおおよそこのイメージに沿った活動内容であることがわかります。

ここで注目したいのは、この調査においては、通いの場が、体操(運動)、茶話会、趣味活動をはじめ、何らかの活動に参加する場所として捉えられていることです。ここでは、「誰からも見張られ感がなく、ゆっくりしてられるっていう。だけども、『何か困った時があったよね』って言った時には傍にいてくれるっていう、そういう空間」、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”」というように、居られることという視点は見られません。

先に、居場所と施設の違いを、要求に応じて機能が備わる居場所に対して、あらかじめ機能が設定される施設と整理しましたが、ここまでの議論を踏まえれば、居場所の制度化とは、ある場所を居られる場所でなく、活動に参加する場所として捉え視線とから生じてくると考えることができます。そこで人々は、居る存在ではなく参加者として見られてしまう。
ここで補足したいのは、それぞれの通いの場の現場においては、人々が居られる場所が実現されている可能性があること。従って、こうした領域を捉えようとしない(専門家の)視線こそが居場所の制度化をもたらしていると考えています*10)。

居場所の制度化は、居場所の役割が広く社会で認知されたことの現れであり、必ずしも悪いことではないかもしれません。けれども、居場所の制度化によって、多機能化していくという居場所が持っていた側面が抜け落ちてしまうことは問題だと考えています。
そして、ある場所を居られる場所でなく、活動に参加する場所という観点から捉える視線が居場所の制度化をもたらすとすれば、居られることを豊かに表現するための言語が、居場所の現場の人々にも、専門家にも求められると考えています*11)。


■注

  • 1)萩原健次郎(2018)は、多様に展開してきた「地域子ども教室」は、「放課後の学校を活動の前提とした『放課後子ども教室』へと施策が移行する」ことで「はしごをはずされて縮小と変質を余儀なくされ」た。放課後子ども教室は「大人や保護者からすると「安心で安全な」活動ではあるが」、「子どもにすれば、大人と学校の教育的視線の中で再び学校空間に囲い込まれていくことを意味していた」と指摘している。
  • 2)湯浅誠(2017)によれば、こども食堂の名称は、2012年に東京都大田区の「気まぐれ八百屋だんだん」で使われたのが最初だという。湯浅誠は「気まぐれ八百屋だんだん」では「こども食堂とは、子どもが一人でも安心して来られる無料または低額の食堂」と定義されていることに触れて、「『子ども』に貧困家庭という限定はついていない」と指摘している。
  • 3)こちらの記事、及び、田中康裕(2019)を参照。
  • 4)このような指摘は建築家によってなされている。例えば、山本理顕(2004)は、「制度の忠実な反映が建築である」が、同時に「建築の即物的な力を借りて、はじめて制度は成り立っている」ため、設計者が「制度から空間へ、自動的に翻訳する自動翻訳機械である」ことで、その制度を「正当化し補強する役割を担っている」と指摘する。そして、「建築を、その決められたカテゴリーから多少でもずらすことができれば、あるいは、この隔離施設をできるだけ相互に関わるようにすることができれば、その境界を曖昧にできれば、それだけでも、今の制度を多少でも柔軟にすることぐらいはできるはずである」と指摘する。青木淳(2004)は「学校とは何か。博物館とは何か。公園とは何か。広場とは何か。橋とは何か。それらのビルディング・タイプが先験的に確定しているはずはない。(そのわりには、僕たちはつい「かくあるべき」という固定観念にとらわれているが)。目的(目的地)は先験的には与えられてはいない。むしろ、具体的な事例を通して、それらは常に定義し直されるものだろう。そして、それがデザイン=計画の本来の役割だろうし、またもしビルディング・タイプという言葉を健全な語法に戻すならば、そういう作業の動的運動こそを指して使われるべきだろうと思う。/動線体とは、ひとつひとつのビルディング・タイプを再定義するときに、それを「人びとが動き回れる」ということにまで遡って行おうとする立場なのである」と指摘している。
  • 5)居場所の多機能化の具体的な姿に関しては、例えば、大阪府千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」はこちらの記事を参照。東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」では、こちらの記事で紹介しているように訪れた人々との関わりの中から様々なプログラムが立ち上げられてきた。岩手県大船渡市の「居場所ハウス」では、年表に記載しているようにオープン後に朝市や食堂をスタートしたり、様々なプログラムが立ち上げられてきた。
  • 6)田中康裕(2009)では、これを「場の許容性」として考察した。
  • 7)ただし、ここで議論している居られることもまた機能の一種であり、それゆえ、やはり居場所の空間も機能主義によって作られているのではないかという指摘もあり得る。この点については、さらなる考察が必要だと考えている。
  • 8)さわやか福祉財団(2016)では、「新しい地域支援事業における『介護予防・日常生活支援総合事業』(以下、新しい総合事業)のなかに、『居場所・サロン』の取り組み(サービス)が盛り込まれています。新しい総合事業では、これを『通いの場』と呼んでいます」、「厚生労働省が名づけた『居場所・サロン』のこと」と指摘されている。
  • 9)活動実績は厚生労働省老健局老人保健課『介護予防・日常生活支援総合事業(地域支援事業)の実施状況(平成30年度実施分)に関する調査結果(概要)』より。
  • 10)山本哲士(1996)は、目的意識的な実践をプラクシス(Praxis)、目標が意識されない実践行為であり、慣習行動をプラチック(Pratique)と区別しているが、居場所の制度化とはプラチック(Pratique)を捉えないことから生じる現象だと考えることができる。あるいは、人間・環境関係における中動態の領域を捉えないことから生じる現象だと考えることができる。
  • 11)この点で、社会福祉法人・佛子園による福祉を核とした「ごちゃまぜ」のコミュニティである「シェア金沢」が作られた経緯が参考になる。「シェア金沢」では、次のように紹介されている通り、佛子園のスタッフが「パタン・ランゲージ」を勉強して設計会社との打ち合わせに臨んだとされている。「雄谷理事長からは、シェア金沢に関わる職員全員に対して「クリストファー・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』を頭に叩き込んで、設計会社との打合せに臨め」という指示が出たんですよ。そのため打合せの時には、私どもが「道が真っ直ぐだと街はつまらなくなりますよね」とか、「やはり街を見下ろす場所が大切ですよね」などと妙な発言を連発するので、設計会社は訝しがっていました(笑い)。/数回目に種明かししまして、その後は職員と設計会社がパタン・ランゲージの考え方を踏まえて計画を進めていきました。建物の間を縫うように設けられた歩道はその表れです。アルパカを見に行く子供たちにも、ドッグランに行く人にも、料理教室に行くお母さんにも、ライブハウスに行く若者たちにも歩道を歩いてもらう。その途中で障害児たちの様子を見てもらい、障害児福祉に対する理解を深めて頂ければと考えています。」(※「ライフスタイルと住まい」の「講演+インタヴューシリーズ『ライフスタイルを見る視点』の「第42回 奥村俊哉さん「福祉施設を核としたエリアマネジメント:社会福祉法人佛子園」」より)。居られることを豊かに表現する言語として、「パタン・ランゲージ」が参考になると考えている。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。