『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「居合わせる」状況の記述に関する一考察:日本語文法論による「フィールドノーツ」の分析

日本建築学会に投稿していた論文が掲載されました。


この論文は次のような背景から構想、執筆したものです。

建築計画学では、人間と環境の関係を理解することがテーマとされてきました。人間がどのように居るのかを理解し、それを記述することが、どのような環境を作り出していくかを考えるための重要な手掛かりになるからです。
人間と環境との関係を理解するための主な立場として環境決定論、相互作用論、トランザクショナリズムをあげることができます。このうちトランザクショナリズムについては、「原理的には受け入れられているのに、このアイデアはわずかな例外を除いて経験的研究には余り取り入れられず、またこの立場からの研究方法への具体的展開も図られていたとは言い難い」(舟橋國男, 1997)というように、実際の調査に適用することは困難だと指摘されています。この困難さを乗り越えるための手がかりを得たいという思いが論文執筆の背景になっています。
また、これまで「ひがしまち街角広場」、「居場所ハウス」などの居場所(まちの居場所)への関わりを通して、どのようにして居場所の価値を記述し得るのか、居場所の価値を記述するための言葉が足りないのではないのかという思いも、論文執筆の背景になっています。

以上のような思いに加えて、フランス語話者に日本語を教えるという経験に基づいた日本語文法論を展開されている浅利誠氏による、日本語では「格助辞だけが空間性(イメージ表象)を喚起させる」、「格助辞の選択は、イメージ類型を考慮した場合には、動詞の選択によって、自動的に決定される」という議論(浅利誠, 2008, 2017)を読んだことが、この論文を執筆した大きなきっかけとなっています。
浅利誠氏の議論を知り、人間の行動を記述する日本語における格助辞の使われ方に注目することで、その格助辞が使われた時に描かれた空間性(イメージ表象)を読み取ることができるのではないか。これは言葉と空間をつなぎあわせるものとして建築計画学の方法に新たな視点をもたらすのではないかと考えるようになりました。

既報では、浅利誠氏の議論を参考にして、人間の行動を「居合わせる」という表現を使って記述している建築計画学論文を対象とする考察を行いました。「居合わせる」は、建築計画学者の鈴木毅先生が提示する「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」としての「居方」(いかた)の1つで、「別に直接会話をするわけではないが、場所と時間を共有し、お互いどの様な人が居るかを認識しあっている状況」と説明されます(鈴木毅, 2004)。既報においては、建築計画学の論文で「居合わせる」が使われる際に、場所格の格助辞の「に」と「で」が選択される場合があることに注目し、両者では異なる空間性(イメージ表象)が読み取れることを考察しました。
けれども、既報は他の研究者が書いた日本語を対象にする考察だという限界があったため、この論文では岩手県大船渡市の「居場所ハウス」において自らが執筆したフィールドノーツを対象として、そこで描かれる空間性(イメージ表象)が場所格の格助辞の「に」と「で」によってどのような違いがみられるのかを考察したものです。


■参考文献