団地は、同じ形をした住棟が建ち並ぶことから、他に比べて景観が単調になりがち。それゆえ、目的地の位置がわかりづらい、目的地にたどり着くためのルートがわかりづらいという状況になることがあります。
ここでは、団地の住棟にミューラル(壁画)を描くことによるウェイファインディング(Wayfinding)のプロジェクトという、シンガポールのアン・モ・キオ(Ang Mo Kio)とクイーンズタウン(Queenstown)におけるプロジェクトをご紹介したいと思います。ウェイファインディングとは、サイン(標識)やエリアの色分けなど環境の構成要素によって、人が現在地を把握したり、目的地にたどり着いたりしやすくする仕組みのことです。
(アン・モ・キオのケブン・バル)
(クイーンズタウンのスターリング・ビュー)
アン・モ・キオ(Ang Mo Kio)
シンガポールでは国民の約8割がHDB(Housing and Development Board:住宅開発庁)が建設する住宅に住んでいます。アン・モ・キオ(Ang Mo Kio)は、ダウンタウンの北に位置。最初にHDBのプロジェクトが完成したのは1975年と、HDBの建物が完成してからおよそ半世紀が経過し、HDBが1992〜2024年まで用いていた分類では「成熟した団地」(Mature estate)に分類されています。シンガポールでは、2020年時点で、総人口に占める60歳以上の人の割合は22.2%ですが、アン・モ・キオは29.6%と高齢化率も非常に大きくなっています*1)。
ミューラルのプロジェクトが行われているのは、アン・モ・キオの中のケブン・バル(Kebun Baru)。認知症に優しいコミュニティ(Dementia-Friendly Community:DFC)に指定されているエリアです*2)。
ケブン・バルにおけるウェイファインディング・プロジェクトは、Dementia Singaporeが*3)、2019年3月のケブン・バル選挙区選出の国会議員との対話の後に始められました。Dementiga Singapore、ケブン・バルの地元組織によって進められたプロジェクトには、認知症の人も参加したということです。
2020年3月、住民、若者、学生のボランティアにより、高齢者や認知症の人が多いという観点で選ばれた10の住棟(blocks)に37のミューラルが完成。デザインは、文化や年齢の要素を考慮して選ばれた食べ物や身の回りの物などとなっています(正式な名前の付けられたものがあるかもしれません)*4)。
- 102号棟:花の模様が描かれた青い水筒
- 103号棟:花の模様が描かれた赤い水筒
- 105号棟:鶏が描かれた食器
- 106号棟:花の模様が描かれたティーカップ
- 113号棟:サテー(焼き鳥)
- 115号棟:ラピス・サグ(Lapis Sagu):日本のういろうに似た層状のお菓子
- 116号棟:クー・クエ(Ku Kueh):亀を形どったお菓子
- 256号棟:ココナッツ
- 257号棟:ホワイト・ラビット・キャンディ:白うさぎのパッケージのミルクキャンディ
- 258号棟:団子のスイーツ
ミューラルは、十等1階の外壁やヴォイド・デッキの壁に、それぞれの住棟に複数個(2~3個程度)描かれています。MRTの駅やバス停などから屋根付きの通路を歩いて住棟に入る位置など、人通りの多い位置に多くのミューラルが描かれているような印象を受けました。
シンガポールでは、イーシュンにおいて、色とアイコンによってゾーニングを行い、細やかなサイン(標識)を描くウェイファインディング・プロジェクトが行われています。
イーシュンのプロジェクトに対して、ケブン・バルのプロジェクトでは回想法(Reminiscence)というアプローチが取られていること*5)。プロジェクトに参加した認知症の人の経験もふまえ、認知症の人が視覚的な手がかり(情報)をどのように受け取り、どのように反応するかが考慮。ミューラルのデザインは、認知症の人が情緒的な記憶(affective memory)を蘇らせることができるようなものとして、特徴的で見やすいのに加えて、豊かな意味や親しみやすさを備えたものとされました。また、複雑なデザインや過度な情報は認知症の人にとって道案内の妨げになるため、利用する色は最大で3色に抑える、住棟番号はミューラルの脇に小さ目に描く、道を選ぶうえで重要なポイントのみにミューラルを描くという、情報量を抑えることが考慮されました*6)。
ケブン・バルのプロジェクトにどのような効果があったのかを、シンガポール国立大学(National University of Singapore:NUS)、Dementiga SIngaporeが、Kebun Baruと共同で調査を行なっています*7)。主な調査結果は以下の通り。
ミューラルのウェイファインディングに対する効果については、回答者の70%がミューラルは歩行ルートに沿って描かれている、回答者の62%がミューラルは認知症の人のェイファインディングに効果がある、回答者の60%が、ミューラルは目立つと回答しています。
また、ミューラルが認知症に対する意識を高めることに対する効果については、回答者の38.2%がそう思う(Agree)、27.27%がどちらでもない(Neutral)、34.27%がそう思わない(Disagree)と回答しています。
認知症に対する意識を高めることに対する効果についての回答は意見が分かれた結果になっていますが、ミューラルのプロジェクトが、単にウェイファインディングのためだけでなく、認知症に対する意識を高めることをも視野に入れたものである点は興味深いと思いました。
Dementia Singaporeのウェブサイトにも、ケブン・バルのプロジェクトに認知症の人が参加したことは、あらゆる人々を包摂すること(inclusiveness)の実践であり、認知症の人に力を与えること、そして、認知症の人も貢献者であるというように、認知症に対する認識を変えることにつながることが記されています*8)。
ミューラル・プロジェクトのガイドライン
ケブン・バルのプロジェクトがメディアで取り上げられ、他の地域の人々からの関心を集めたことから、統合ケア庁(Agency for Integrated Care:AIC)とDementiga Singaporeがは、他の地域でも取り組めるような①計画(Planning)、②協議(Consultation)、③調査(Recce)、④実行(Implementation)の4つのフェーズからなるガイドラインを作成しました*9)。
①計画(Planning)
・プロジェクト・ワークグループを立ち上げ、プロジェクトの目的、スケジュール、成果を共有する。
・プロジェクト・ワークグループは、地元リーダー(Grassroots leaders:GRL)/選挙区事務所(Constituency Office)、専門家(アーティスト、認知症ケアのスタッフ)、認知症の人と介護者で構成される。
・プロジェクト計画を作成する。②協議(Consultation)
・コミュニティの同意を得る
・認知症の人と介護者を募って、フォーカス・グループ・ディスカッションを行い、テーマを構想し、壁画のデザインを作成する。③調査(Recce)
・現地調査(walkabout)によって、ミューラルを描く壁や柱を選ぶ。④実行(Implementation)
・ミューラルを描く。
※DementiaHubSGのウェブサイトに掲載の資料「Developing Wayfinding Iconic Murals in Neighbourhoods」より。
ガイドラインでは、プロジェクトの留意点として、コミュニティの参加を得ること、高齢者の割合が高かったり、高齢者ケアセンターが近くにあったりする住棟を特定する、ミューラルを描く位置を決定する現地調査には草の根のリーダー/選挙区事務所、専門家に加えて、認知症の人と介護者が参加すること、ミューラルは人々が住棟に到達する位置などに描くこと、ミューラルを描く際にはボランティア、住民、アーティストが参加すること、ミューラルのテーマは地域の歴史や食べ物など認知症の人が共感でき、親しみやすいものの方がいいこと、ミューラルはシンプルなものにすること、住棟番号はミューラルよりも小さい文字にすることなど、ケブン・バルのプロジェクトから得られた知見が紹介されています。
クイーンズタウン(Queenstown)
クイーンズタウン(Queenstown)では、ケブン・バルを参考にして、同様のミューラル・プロジェクトが行われています。
クイーンズタウン(Queenstown)は、シンガポールで最初の「サテライト・タウン」(satellite town)として1950年代にシンガポール・インプルーブメント・トラスト(Singapore Improvement Trust:SIT)によって開発が始められ、1960年以降は後を引き継いだHDB(Housing and Development Board:住宅開発庁)によって開発されてきました。クイーンズタウンも、HDBが1992〜2024年まで用いていた分類では「成熟した団地」(Mature estate)に分類。2020年時点の60歳以上の人の割合が27.7%と高くなっており*10)、認知症に優しいコミュニティ(Dementia-Friendly Community:DFC)に指定されています*11)。
ミューラル・プロジェクトが行われているのは、クイーンズタウン(Queenstown)のスターリング・ビュー(Stirling View Dementia Wayfinding)というエリア。ミューラルのデザインを決定するプロセスには52人の高齢者も参加。そして、110人以上の住民の参加によってミューラルが描かれました。2023年4月16日、完成したミューラルをお披露目するカーニバルが開催されました。このプロジェクトは、HDBによるライブリー・プレイス・プログラムとして行われています*12)。
スターリング・ビューでは、次の12の住棟にミューラルが描かれています(正式な名前の付けられたものがあるかもしれません)。
- 160号棟:遊びのために地面に描かれるイラスト
- 161号棟:バスケットボール、卓球のラケット・ボール、サッカーボールなど
- 162号棟:コマ、羽子板など
- 163号棟:麻雀牌
- 164号棟:お菓子
- 165号棟:スイカ、パイナップルなど果物
- 167号棟:風車
- 168号棟:花
- 168A号棟:蝶々
- 169号棟:コーヒー、玉子、トースト
- 170号棟:①大きな庇のある建物と塔、②スターリング・ビューの建物、③スターリング・ビューの建物と、その周りに11枚のミューラル、④ラウンドアバウト、⑤ラウンドアバウト付近の地図
- 171号棟:キャンディやチョコレートなど
12の住棟のうち、170号棟のみ、①大きな庇のある建物と塔、②スターリング・ビューの建物、③スターリング・ビューの建物と、その周りに11枚のミューラル、④ラウンドアバウト、⑤ラウンドアバウト付近の地図の5枚のミューラルが、屋根付き通路のある壁に描かれています。5枚のミューラルの前にはベンチ。そして、ミューラルを覗き込むような人のオブジェも置かれています。
170号棟以外の住棟には、屋根付き通路の近く、車寄せ、オープンスペースの面した壁など、人通りが多いと思われる位置にミューラルが、それぞれの住棟に1つずつ描かれています。ただし、160号棟のみ同じデザインのミューラルが2ヶ所に描かれているのを見かけました。
クイーンズタウンでは、歴史的な場所をヘリテージ(遺産)に指定し、それぞれの場所にまつわる歴史を紹介するマイ・クイーンズタウン・ヘリテージ・トレイル(My Queenstown Heritage Trail)という取り組みが行われています。
ミューラルが描かれた160・161号棟は、HDBが建設した最初のポイント型住棟(First Point Blocks)に指定されています。
168A号棟は2つの円弧をつなげた特徴的な平面をもつ住棟で、「バタフライ」(蝶々)住棟(The “Butterfly” Block & Stirling View Estat)と呼ばれています。これにちなんで、168A号棟には蝶々のミューラルが描かれていました。
■注
- 1)「How Singapore builds its dementia-friendly neighbourhoods」・『The Straits Times』September 21, 2022。
- 2)2024年2月時点で、16のコミュニティ(街)が認知症に優しいコミュニティ(Dementia-Friendly Community:DFc)に指定されている。DementigaHubSGの「About Dementia-Friendly Community (DFC)」のページより。
- 3)Dementia Singaporeは、以前のAlzheimer’s Disease Association(ADA)で、認知症ケア、介護者の支援、トレーニング、コンサルティング、アドボカシーにおいてシンガポールをリードするソーシャル・サービス機関。Dementia Singaporeのウェブサイトより。
- 4)Dementia Singaporeの「FINDING MY WAY HOME」June 22, 2021、「BUILDING AN INCLUSIVE, DEMENTIA-FRIENDLY KEBUN BARU」April 20, 2020のページより。
- 5)NHKのページには、「なつかしい物や映像を見て思い出を語り合う回想法は、脳を活性化し情緒を安定させ、長く続けることで認知症の進行予防やうつ状態の改善につながる可能性があるといわれています。そして、高齢者の認知症予防や認知症患者の心理療法、リハビリテーションに活用されています」と説明されている。NHK「回想法とは」のページより。
- 6)Dementia Singaporeの「FINDING MY WAY HOME」June 22, 2021のページより。
- 7)調査結果はDementiga SIngaporのウェブサイトに掲載されている。ただし、調査の方法、調査対象者の人数などは記載されていない。
- 8)Dementia Singaporeの「FINDING MY WAY HOME」June 22, 2021のページより。
- 9)DementiaHubSGのウェブサイトに掲載の資料「Developing Wayfinding Iconic Murals in Neighbourhoods」より。
- 10)「How Singapore builds its dementia-friendly neighbourhoods」・『The Straits Times』September 21, 2022。
- 11)2024年2月時点で、16のコミュニティ(街)が認知症に優しいコミュニティ(Dementia-Friendly Community:DFc)に指定されている。DementigaHubSGの「About Dementia-Friendly Community (DFC)」のページより。
- 12)HDBの「Lively Places Challenge 2023」のページより。