『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

場所の理念を継承することについてのメモ(場所を考える-74)

関西と九州で、ニュータウンや団地での取り組み、高齢者の住まいに関していくつかの場所を見学させていただく機会がありました。見学させていただいた場所からは、これまで居場所について考えていたことを、別の視点から考えるきっかけをいただいたように思います。

運営を通して「事後的に」生み出されていくもの

運営の主体は住民グループ、NPO法人、公益財団法人、社会福祉法人、株式会社と多様でしたが、それぞれの場所では、運営を通して新たな活動や機能が生み出されているという話を伺いました。

毎日、息子のために同じ料理を作ってしまう高齢の女性との出会いから、この女性が調理を担当するこども食堂を始められている場所がありました。この場所では、高齢者であっても「できないこと」ではなく「できること」に目を向けることが大切にされていました。安全の確保それ自体を最終的な目的にすると、安全を確保しようと先回りして、高齢者は何もしないでいいということになってしまう。そうではなく、安全の確保はあくまでも何かを実現するための手段だということでした。
空き住戸が多く、高齢化率も高い公営住宅で活動する社会福祉法人の方からは、最初から空き住戸に福祉サービスの事業所を入れるのでなく、一人ひとりの住民の声を聞くところから活動を始めたという話を伺いました。最初からサービスの事業所を入れてしまうと、社会福祉法人が計画するサービスを一方的に提供するだけになってしまい、住民をサービスの受け手にしてしまうというのが、その理由です。興味深いのは、住民の声を聞くのを「聞き取り」というかたちでなく、カフェを運営したり、焼き芋、たこ焼きの集まりを開いたりすることを通して行っておられることです。たこ焼きは、住民が担える小さな役割がたくさんあるという話も興味深かったです。このような関わりを通して聞いた声に対応して、移動販売車の巡回や、シニアカーのシェアの取り組みが始められていました。
ある場所では、様々な教室やプログラムが行われていました。日々の関わりを通して、「この人にはこういう力がある」ということがわかれば、その人に講師になってもらえるような教室やプログラムを企画するという話でした。

これらの場所で行われているのは、目の前にいる一人ひとりが求めていること、困っていることや、一人ひとりができることに応じて、「事後的に」活動や機能を生み出すということだと言えます。注目すべきは、運営を通して生み出される活動や機能が、新たなサービスの提供にとどまらず、一人ひとりが何らかの役割を担える機会になっていることです。一人ひとりが役割を担えるようなかたちで、新たな活動な機能が企画されると言えるかもしれません。

制度とは使いこなすものだという話も伺いました。制度を、運営を縛るものと見なすのでなく、目の前にいる一人ひとりに対応するためにどのように制度を使えるかを考えるのが大切だと。例えば、上で紹介した教室やプログラムを行う場所では、行政の補助事業として65歳以上の高齢者で介護認定を受けていない人が対象であり、若い人、介護認定を受けている人は対象と見なされないということでした。けれども、介護認定を受けている人にも教室やプログラムの講師になってもらったり、若い人にスタッフになってもらったりすることで、様々な人々にとっての場所にすることが考えられていました。

理念を掲げること

目の前にいる一人ひとりに応じて、「事後的に」生まれることを許容できるのはなぜか。今回、いくつもの場所で、理念を大切にしているからという話を伺ったのが印象に残っています。

こども食堂について紹介した場所では、ご縁があったら最期まで家族としてお付き合いするという理念が掲げられていました。安全の確保をあくまでも何かを実現するための手段とし、高齢者であっても「できないこと」ではなく「できること」に目を向けることが大切にされているのも、この理念を実現するためだと考えることができます。
施設でなく、大きな家族として暮らすという理念を掲げる高齢者の住まいでは、スタッフに、何時にはこれをするなどの細かなマニュアルを作っていないとのこと。スタッフは、理念に合致するかどうかで、自らの振る舞いを決めるということでした。
施設でなく家で暮らすことを目的とする高齢者の住まいも見学させていただきました。ここでは、理念があるから制度を使いこなせる。理念がなければ、いくら建物や運営などの表面的なことを真似しても、同じような場所は実現できないという話を伺いました。

慎重に書くべきことですが、安全を確保することが重要であるのは言うまでもなく、制度やマニュアルを否定するものでもありません。ただし、安全の確保、制度やマニュアルは、理念を実現するための手段ということです。けれども、時には善意の先回りによって、安全の確保や、制度やマニュアルに従うことが最終の目的とされてしまう。本来は手段であったはずのものが、目的へとひっくり返ってしまうことは往々にしてあります。そうなると、目の前にいる一人ひとりに応じる余裕が失われてしまう。善意の先回りによってこうした状況に陥ってしまうというのが難しいところですが、だからこそ、理念が大切になってくる。

理念については、施設でないものを目指す場所において、「家」や「家族」という言葉で理念が語られることがあるのも注目すべきことのように感じました。

理念が継承されるとは

場所の運営において理念が重要というのは、理念に基づいて運営するという一方向のものと捉えるべきではありません。理念が運営を方向づけるだけでなく、日々の運営を通して、理念がより豊かなものになっていくという側面もあるのではないか。理念と運営の関係はこれから考えていきたいことですが、先に紹介した、家で暮らすことを目指す高齢者の住まいで聞いた次のような話が、これを考えるヒントになるように感じています。
この場所では、当初は理念が伝わらず、辞めていったスタッフもいたとのこと。理念はどのようにして伝わったと思いますかと聞いたところ、入居している一人ひとりの状態について毎日申し送りをすることを続けたことだと思うと話されました。この話から、日々の運営において生じた出来事を理念とともに語り、理念の具体例にするという、言わば、理念に肉付けしていくプロセスによって、理念が継承されるのではないかという仮説を立てることができるように思います。重要なことは、そのためには、日々生じる出来事を具体例として受けとめる器として、あらかじめ「言葉として」理念が掲げられている必要があるということです。

この高齢者の住まいでは、次のような話も伺いました。ここから外を見た時に、あるいは、外からここを見た時に「景色」になるようにしたいと考えている、と。また、入居している人は、行きたいと思える場所があれば、それにあわせて着替えるということです。このようなことが、施設でなく、家で暮らすということだと話されていたように理解しました。
先にマニュアルがないとご紹介した高齢者の住まいは、地域に閉じるのでなく、入居している人の家族がいつでも予約せずに面会に来られるようにしたり、地域の人が出入りできる部屋をもうけたりすることで、地域に開くことが考えられていました。そして、地域に開くことは、スタッフの自信につながるということでした。マニュアルがないため、スタッフは理念に合致しているかどうかで、どのように振る舞うかを考える必要があります。これは、不安定なこととも言えます。この時、地域に開いておくことで、自分たちの振る舞いは地域の人に堂々と見てもらえるものだと思うことができ、これが、スタッフの自信にもつながるということでした。逆に、地域から閉ざされていれば、スタッフは、自分たちがしていることは地域の人に堂々と見てもらえないことではないかという疑いをもってしまうということです。
これから考えていきたいことですが、そこに「いる」人にはどのような景色が見えているのか、逆に、そこに「いる」人は周りからどのような景色として見えているのか。このような景色もまた、理念が実現した具体的な状況になっていると捉えることができるように思います。

このように考えると、理念は、日々の運営において生じる出来事を、理念の具体例として語ること、聞くこと、そして、その出来事を景色として見ること、見られることを通して継承されるという仮説を考えることができます。先にみた「事後的に」生み出されたものもまた、理念の具体例になったものと捉えることができるかもしれません。まだまだ仮説に過ぎませんが、目の前の一人ひとりに対応するために不可欠な理念は、どのように継承されるのかについては、これからも考えていきたいと思います。


これまで、居場所と施設の違いについて考えてきました。施設では機能があらかじめ設定されるのに対して、居場所では機能が「事後的に」生まれるという点に注目してきました。しかし、今回見学させていただいた場所には、制度に基づいて作られた場所や、行政の補助事業として運営されている場所も含まれていました。これらの場所においても「事後的に」機能が生まれていること、そして、その背景に理念があることは、居場所と施設の違いについて、別の側面から考える視点を与えてくれるように思います。

また、理念は、日々の運営において生じる出来事を理念の具体例として語ること、聞くこと、そして、その出来事を景色として見ること、見られることを通して継承されるという仮説からは、ハンナ・アレント(1994)の『人間の条件』における議論が思い起こされます。ここでハンナ・アレントは、パブリックなものを、まず「見られ、聞かれる」という「現われ」として議論しています。

「『公的』という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している。
第一にそれは、公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われがリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。」

ハンナ・アレントによれば、「見られ、聞かれる」ことが重要なのは、人は「それぞれ異なった場所を占めているから」であり、これが「公的生活の意味である」。この点において、「家庭生活」は「同一の側面と遠近法を提供するだけである」と指摘されています。

「なぜなら、なるほど共通世界は万人に共通の集会場ではあるが、そこに集まる人びとは、その中で、それぞれ異なった場所を占めているからである。そして二つの物体が同じ場所を占めることができないように、ひとりの人の場所が他の人の場所と一致することはない。他人によって、見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である。この生活にくらべれば、最も豊かで、最も満足すべき家庭生活でさえも、せいぜい、自分の立場を拡大し、拡張するだけであり、同一の側面と遠近法を提供するだけである。」

ここで考えてきた理念の継承とは、ハンナ・アレントのいう「それぞれに異なった立場から見聞きしている」ことだとすれば、そのような場所はパブリックな場所と捉えることができるのか。施設でない場所において理念が「家」や「家族」という言葉で語られることがありますが、これはハンナ・アレントのいう「家庭生活」と対応するわけではありません。そうすると、理念の言葉としての「家」や「家族」とはどのようなものか。これから考えていきたいと思います。

■参考文献

  • ハンナ・アレント(志水速雄訳)(1994)『人間の条件』ちくま学芸文庫

※「場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。連載は、2020年の新型コロナウイルス感染症発生後に、「アフターコロナにおけるリアルな場所の行方を考える」、その後、「アフターコロナにおいて場所を考える」として書いてきたものを継続したものです。