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被災地から被災地「後」の地域における日常の暮らし:大船渡市末崎町について

大船渡市末崎町の(旧)大田仮設の解体の様子。解体が徐々に進む光景を見るたびに、被災地から被災地「後」への移り変わりを感じます。

数ヶ月前のことになりますが、大船渡にお住まいの知人(同じくらいの年代の方)と話していた時、その方が「あの時代に会った人と、最近めっきり会わなくなった」と話されました。東日本大震災後に、日本全国、あるいは、海外から大船渡に多くの方々が来られました。支援のため、仕事のため、視察のため、調査のため… 復興が進むにつれ、地域外からやって来ていた人と会う機会は減ってきたと。もちろん、大船渡に生活の拠点を移された方もいますし、現在でも定期的/継続的に大船渡に来られる方もいますし、こちらには来られなくても関わりを継続されている方もいます。

東日本大震災により、既存の組織や仕組みに揺らぎが生じたと言うことができます。例えば、大船渡市末崎町では、公民館は暮らしの基本となる単位ですが、被災された方が避難所→仮設住宅→高台移転と動いていく中で公民館も揺らぎが生じており、泊里の解散、細浦と内田の合併、平への人口集中、新たな単位として災害公営住宅「平南アパート」自治会の誕生などの変化が生じています。また、末崎町内に5ヶ所開設された仮設住宅では、それぞれ独自の自治会が立ち上げられていました。
こうした中で、末崎町の住民だけでなく、地域外から来られた方も含めて、それまでになかった新たな関係が築かれて来た。この意味で、東日本大震災後の末崎町は「開かれた」状態にあったとも言えます。

現在、末崎町では仮設住宅からの高台移転はほぼ完了しています(現在残っている仮設住宅は大豆沢仮設で、「大船渡仮設住宅団地Official Site」によれば、2017年7月7日現在の入居戸数は2。大豆沢仮設は2018年7月末で撤去予定)。それに伴い、揺らいでいた組織や仕組みもまた確立されつつあります。
先日、大船渡に定期的に来られていた方が、久しぶりに大船渡に来て、地域の方は日常の暮らしを取り戻されたと感じたと書かれていました。これは嬉しいことであると同時に、外部の者の役割は終わりつつあるのかもしれないと。同じような話は、別の方からも聞きましたし、多くの方に共通する思いなのかもしれません。
日常の暮らしが戻って来たこと、あるいは、日常のかけがえなさを特段意識することなく日常を暮らせるようになったこと、復興が進むとはこういうことなのかもしれません。ただ、杞憂かもしれませんし、余計なお世話かもしれませんが、その日常の暮らしがいつまで維持できるだろうかと考えることがあります。

以前、末崎町の世帯数・人口を調べたことがありますが、最新の世帯数・人口を改めて調べてみました。
住民基本台帳によれば、2017年6月末の末崎町の世帯数は1,517世帯、人口は4,231人、一世帯当たりの人員数は2.79人。東日本大震災の影響で2010年から2011年にかけて人口はガクンと減りましたが、人口の減少は東日本大震災前からみられた傾向で、東日本大震災後も減少し続けています。東日本大震災前の2010年9月末時点での人口は4,951人であり、それから700人以上が減少したことになります(震災前の人口の85%に減少しています)。さらに長い目で見れば、現在の人口は第二次世界大戦の終戦頃と同じくらい。「居場所ハウス」で日々お会いしている方々が子どのだった時代ですが、当時は兄弟も多く、子どもが多かったと聞きます。

今後の人口については推測するしかありませんが、高台移転がほぼ完了したため、人口が増加するとは考えにくい。また、中学校の統合により、末崎中学校は何年か後には廃校になるという話もあるようで、そうすると若い世代は大船渡の中心部へと移転するということも出て来るかもしれません。また、国勢調査によれば大船渡市全域の高齢化率は2010年調査時点では30.9%だったのが、2015年調査時点では34.1%に上昇しています。末崎町の高齢化率のデータを見つけることはできませんでしたが、これよりも高いと思われます。こうした状態が続いていけば、末崎町で大切にされている熊野神社の式年大祭も影響を受けざるを得ない(既に手踊りがなくなった、各公民館から出る虎舞の数が減っているという影響があります)。

先日、地域の人口が減っても、地域外から地域に関わる人がいれば、地域の潜在力は上がっていくのではないかという話を聞きました。これは末崎町にも当てはまると思います。
末崎町の人口はこれからも減少していくかもしれない。けれど、東日本大震災をきっかけに末崎町が地域外の人々とつながることができたとすれば、ここで築かれた関係をどう継続し、発展させていくかは重要な視点だと思います。そのためには、「被災地支援」という枠組みをどうやって乗り越えていけるかが重要。末崎町には、地域外から一方的に支援を受けるだけでなく、何を提供できるのかという視点が、地域外の人は、末崎町に対して一方的に支援するのではなく、何を学べるか/得ることができるかという視点が重要になってくる。

ただし、人口が減少すること、あるいは、高齢化が進むこと、それ自体が問題なのではありません。問題なのは、高齢になり、特に自家用車が運転できなくなった時に、どうやって地域での暮らしを成り立たせるかの見通しが立たないこと。
現在、末崎町には個人商店が何件があるだけで、いわゆるスーパーマーケットはありません(スーパーマーケットの移動販売車が週に何度か、末崎町のいくつかの地点を巡回しています)。コンビニも細浦にある1件だけ。病院は内科の医院が1件、歯科医院が1件。末崎町を南北に走るBRTは、震災前の電車に比べると本数が増えており便利になりましたが、碁石方面に向かう路線バスは1日3本。坂道が多いため、自転車に乗るのもなかなか大変です。
店舗や医院が少なく、公共交通も充実していない末崎町において、自家用車を運転できなくなった時にどうやって暮らしを成立させるのか。「居場所ハウス」で話をしていても、自家用車を運転できなくなる日が来ることをみな薄々と不安に感じつつ、少しでも健康でいるしかないと個々人で努力をされていますが(もちろん、これは大切なことですが)、末崎町としてどう向き合うのかということは先送りされているように感じます。余計なお世話だろうと思いつつ、こうした問題に対して、末崎町がどうありたいかを議論したり意見交換したりできる場所が、末崎町内に存在していないというのが、最大の問題ではないかと感じます。