『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所と料理の価値について:問題解決思考から抜け出すこと

先日、大船渡を訪問された方と、料理のこと、居場所のことなどを話す機会がありました。

料理の価値を考える時、料理はどのような問題を解決するかという観点からでは、料理の価値は捉え得ないのではないかという話になりました。確かに料理は栄養の偏り、フードロス、コミュニケーション不足といった問題を解決するかもしれない。けれども、これらを解決する方法であれば、料理よりも効率のよい方法はいくらでも見つかる可能性がある。例えば、栄養に配慮され、ゴミも出さないお惣菜が販売されたとすれば、栄養の偏り、フードロスといった問題は解決されることになる。それならば、わざわざ時間をかけて料理する必要はなくなってしまう。問題解決の思考が、かえって料理の価値を毀損してしまいはしないか。

こういう話をしていて、居場所にも同じことが言えるのではないかと思いました。居場所は介護予防、防災、貧困な家庭への支援など様々な問題を解決するものとして注目されています。もちろん、居場所がこうした問題を解決する場面はあると思われますが、これらの社会問題を解決するだけならば、もっと効率的な方法もある。そして、効率的な方法があれば、居場所は不要ということになる。

けれども、ここで考えなければならないのは、なぜ人は居場所という空間に立ち寄り、時間を過ごしているのか。問題解決思考から抜け出し、居ること自体の豊かさを描く必要がある。
課題解決のためには一見無駄と思われるプロセスに注目してみる。居場所や料理の価値を表現することは、そこから始まるように思います。

もちろん、問題解決することは重要ですが、居場所や料理のプロセスを事後的に振り返れば、結果として問題を解決していたと説明することができるという視点は忘れてならないと思います。


最近、居場所の価値とは、介護予防、防災、貧困な家庭への支援などの問題解決ではなく、居られること(目的や属性を問われず1人でも居ることが許容されること、役割を担うことで堂々と居られること)の実現だと考えています。そして、料理にもこの側面があるかもしれません。

食事を、誰かと共に居る時間・空間だと考えれば、料理とは相手を迎え入れるプロセスだということになる。大切な相手だからこそ、そのプロセスには時間をかける価値がある。
食事を、(1人で食事をする場合でも)自分にとって大切な時間・空間だを考えれば、料理とは自分にとって心地の良い時間・空間を準備するプロセスだということになる。だからこそ、そのプロセスには時間をかける価値がある。
子どもが親の料理の手伝いをする場面を考えれば、料理とは子どもにとって家族の一員になれる役割を生み出している。だからこそ、役割を生み出すプロセスには時間をかけるだけの価値がある。

居られるというのは、人の個としての尊厳を大切にすること。これは居場所も料理も同じ。コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、子ども食堂と言うように、居場所の名称に「カフェ」「茶の間」「食堂」という食にまつわる表現がついていることは、両者が密接に関わっていることの表れではないかと思います。


話は少し逸れますが、補助金の獲得、研究費の獲得などの申請書類に、「どういう課題を解決しようとしたか?」という欄が設けられていることがあります。問題解決できることはよいことですが、ついつい問題解決思考にとらわれてしまうのはこういうところにも一因があるのかもしれません。