『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

個人のビジョンと身銭を切った動きが公共を生み出す状況において

「お話を同感しながら伺っていましたが、1つのポイントは、そういう民間の自発的な活動に対する金の出所として、チャリティーなどが本来、第3の領域としてあるのですが、日本は残念ながらそこが非常に脆弱です。そうすると、先ほどお父上がこの財産は社会的に使いなさいという遺言を残されたことが1つのポイントです。日本社会はこれから第3の領域が多様な意味で必要になってくる。お金で言えば、税金と自分の稼ぎの間のお金が、生活空間的に言えば、プライバシーの空間とパブリックな空間の間です。ところが少なくとも日本社会は、土地を中心に私的所有の非常に強固な構造ができています。」(高橋紘士氏の発言)
*宮本太郎 堂園晴彦 高橋紘士「新たな共生の時代の「コモンズ」を考える〜“絆再生”を試みるNAGAYA TOWERの挑戦から」・『財団ニュース』Vol.133 2016年7月

以前読んだ冊子に掲載されていた高齢者住宅財団の特別顧問・高橋紘士氏による「税金と自分の稼ぎの間のお金」について言及する発言。
読んだ時からずっと頭に残っていた発言ですが、最近、いくつかの場所を訪問し、改めてこの発言を思い出しました。

1つ目は、東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」。思春期の子どもの居場所の必要性を感じたSさん夫妻が、地域にそのような場所がないなら自分で作ろうと思い立って開かれた場所。1987年のオープン以来、Sさん夫妻が経営する喫茶店として運営されており、思春期の子ども、不登校の子ども、心の病を抱えた人、中高年の女性など、制度化される前の段階で人々の声(声にならない声)をすくい上げることで居場所としての役割を果たしてきた場所です。

次はさいたま市南区で「100歳まで働けるものづくりの職場」を目指す「BABAラボ」。「BABAラボ」を主催するのはKさんという女性。全国のコミュニティ・ビジネスを支援する仕事をされてきた経歴をもつ方で、地方では手工芸品や農作物を作ったり、販売したりしている活動はあるが、都市部でそのような活動はなかなか成立していないという状況を見てこられたとのこと。それならば、都市部という難しいところを、あえて自分で挑戦してみよう。最初から人がいなくても、技術がなくてもきる仕組みを作り、他の地域に広げていくことができれば。「BABAラボ」はこのようなKさんの思いに共感した大家さんから、空き家を借りることで開かれた居場所と工房(仕事場)とを両立させた場所。

そして、東京都杉並区の「荻窪家族レジデンス」。Rさんが両親から受け継いだ土地に開いた場所で、家族を地域に開くための拠点になると同時に、地域の人々が集う拠点になることが目指された単なる集合住宅でも福祉施設でもない場所。親の面倒は子どもが看るものだという血縁関係が強い時代があったが、現在の家族にはそのような力はない。ただし、血縁関係のある家族に頼れないとは言っても、特に都市ではそうした地縁にもとづく関係も存在しない。そうした現在の都市において「百人力サロン」という取り組みがなされています。助ける/助けられるという一方通行で固定された関係ではなく、自分自身が地域の多くの人々からの助けを受けることで「百人力」を得ることができる。それと同時に、自分自身も他の誰かにとっての「百分の一の力」になれる。「百人力」という言葉には、このような意味がこめられていいます。

「親と子の談話室・とぽす」のSさん、「BABAラボ」のKさんとそのビジョンに共感した大家さん、「荻窪家族レジデンス」のRさん。
行政がやる活動は公共的なもので、個人(民間)の活動は私的な利益を追求するもの。そういった二分法に対して、これらの場所では個人が身銭を切った動きが、公共を生み出す事例となっています。

「今、支える側・支えられる側や、生活空間、そして金融システムの中間領域があるという議論ですね。そこの問題が実に厄介なのは、営利企業であれば様々な手段があるけれども、非営利企業にとってはリソース手段が驚くほど欠如している。それを本来は寄附が埋めなければならないのに、日本は相変わらず寄附文化が育っておらず、一番いい助成を行っているのは、実は公営競技の収益金が原資の財団だったりするわけです。自己矛盾としか言いようがありません。そこをどうするか。1つは、迂遠なことですが寄附文化を育てる。」(高橋紘士氏の発言)
*宮本太郎 堂園晴彦 高橋紘士「新たな共生の時代の「コモンズ」を考える〜“絆再生”を試みるNAGAYA TOWERの挑戦から」・『財団ニュース』Vol.133 2016年7月

「親と子の談話室・とぽす」、「BABAラボ」、「荻窪家族レジデンス」、そして、この対談で取り上げられている鹿児島市の「NAHAYA TOWER」のように思いや問題意識を抱いた人々が具体的な場所を開くという動き、そのような場所を開くのを個人としてサポートするという動き。欧米の寄附文化とは異なりますが、それに対応する日本における動きであり、このような動きが今、日本各地で同時多発的に生まれ始めているのではないかと思います。

こうした場所の背景には、既存の枠組みでは十分に対応できない課題に直面した個人が、既存の枠組みを再構築することによって課題を乗り越えようというビジョンがあります。
公共施設、福祉施設、教育施設、集合住宅、商業施設、オフィスという既存の枠組みを、教育、労働、医療、介護という既存の枠組み、子ども、高齢者、障害者、女性といった既存の枠組みを再構築しようとするビジョン。こうしたビジョンが人を惹きつけ、地域を少しずつ変えていっている。

このような場所はまだまだ先駆的な事例であるため、他の地域にも広げていくにはどうすればよいかがしばしば議論されます。その際に、行政の役割が注目されます。このような場所に対して、行政はどのようなサポートができるのか、と。
けれども、このような場所の背景にあるのが、既存の枠組みを再構築しようとすること、言い換えれば、縦割りを乗り越えようとすることであるのならば、「縦割りではない行政」というものは存在し得るのか? という根本的なところを考えざるを得ません。
行政はどのような役割を果たせるのか? は確かに重要な視点。けれども、それは既存の行政のあり方を前提とするのではなく、行政自体がどう変わっていけるかとセットで議論する必要があるかもしれません。