『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所の理念と「訂正する力」(アフターコロナにおいて場所を考える-52)

訂正する力

批評家で、株式会社ゲンロンの創業者でもある東浩紀(2023)の『訂正する力』を読みました。そして、ここで議論されていることは、居場所における理念のあり方を捉えるために参考になるということを感じました。

東浩紀によれば、日本は明治維新と敗戦という国のかたちを大きく変える出来事を経て急激な成長を成し遂げたという成功体験をもっている「リセット願望が強い国」。それと同時に、「ぶれない」ことも評価されている。しかし、「リセットすることもぶれないことも幼稚な発想」であり、この幼稚さを乗り越えて成熟する必要がある。
そこで、東浩紀が提示するのが「『リセットする』ことと『ぶれない』ことのあいだでバランスを取る力」としての訂正する力。東浩紀はこれを、「『じつは・・・・・・だった』の力」とも表現しています。

「訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。」

「老いるとはなんでしょうか。それは、若いころの過ちを『訂正』し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。」(東浩紀, 2023)

個人が老いることについて書かれた部分を引用しましたが、訂正する力は組織にもあてはまります。東浩紀は、自身が創業した株式会社ゲンロンの経験を次のように振り返っています。

「訂正する力の思想は、この会社を経営する経験なしにはありえませんでした。・・・・・・、訂正する力とは持続する力のことです。
会社を続けるためには、会社自体も変わらなければならない。『自分たちは価値のあることをやっているのに、なぜ利益が上がらないのか』といった頑固な発想では、肝心の会社が潰れてしまう。だから訂正が必要になります。会社を経営することでそれを実感しました。
しかし同時に、『自分たちは変わらず同じ夢を追っているんだ』と信じることも大事だと学びました。そうでないと場当たり的な経営になってしまう。」(東浩紀, 2023)

居場所における理念

東浩紀の議論を読み、居場所のことを考えました*1)。2000年頃から、コミュニティカフェ、地域の茶の間、宅老所など従来の施設(制度:Institution)ではない場所が同時多発的に開かれるようになってきました。このような場所には、従来の施設(制度)では対応できない課題に直面した人々が、その課題を乗り越えるためには「地域にはこのような場所が欲しい」という思いを抱き、そのような場所を自分たちの手で開き、運営してきたという特徴があります。ここで注目する居場所(まちの居場所)とは、このような従来の施設でない場所です。

居場所がオープンする時には、このような場所にしたいという理念が掲げられます。ただし、実際に運営が始まるとオープン時には考えていなかったような人々が訪れ、考えていなかったようなことが起こる。そうであるにも関わらず、居場所においては同じ理念が追求されてきたように語られる。このような現象を、居場所においては要求への対応を理念の具体例とすることを通して理念が豊かになっていくものとして理解してきました*2)。


このことを東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」という場所について考えたいと思います。
「親と子の談話室・とぽす」は、今から35年以上前の1987年に、教員の経験を持つSさん夫妻によって「子供だけでも入れる図書コーナー付きの喫茶店」として開かれた場所です。
当時は校則が厳しく、子どもたちは学校帰りに友だちと道端で立ち話をすることすら禁止されていた。子どもたちは両親と学校の先生という、自分と「利害関係のある大人」だけとしか接していなかった。子育てをしながら、子どもたちの姿をみていたSさんは、思春期の子どもたちにはゆっくりできる場所、様々な大人と接することのできる場所が必要だと感じるようになり、そのような場所が地域にないなら自分で作ってしまおうと思い立ちました。ただし、Sさんが考えたのは、自分1人で子どもに関わる場所ではありませんでした。

「大人の私が1人で子どもに関わるっていうことよりも、ここに来る大人たちが子どもにそれぞれの立場で関わって欲しい、その方が豊かになるんじゃないか。」
※「親と子の談話室・とぽす」のSさんの発言

このような考えから、大人でも出入りしやすい喫茶店というかたちで開かれることになりました。
このような経緯で開かれた「親と子の談話室・とぽす」では、オープン当初から、Sさんが「新しいコミュニケーション」と表現する「年齢、性別、国籍、所属、障害の有無、宗教、文化等、人とのつきあいの中で感じる『壁』を意識的に取り払い、より良いお付き合いの場所」*3)にすることが目指されてきました。

(親と子の談話室・とぽす)

当初、「親と子の談話室・とぽす」へは思春期の子どもたちが訪れていましたが、その後、不登校の子ども、心の病を抱える人と来訪者は変化し、絵手紙教室、響きの会、生と死を考える会、歌と語りの夕べなど様々なプログラムも立ち上げられてきました。最近は主に中高年の女性がやって来るということですが、子どもの頃に来ていた人が、大人になって再訪することもあると伺ったことがあります。

「ここは喫茶店なので人との出会いがその流れをつくっていっているんですよ。人との出会いがつくっていってるので、『ちょっと待って』とは絶対私は言えない。『そういう要求ならそれもやりましょうね』っていうかたちで、だんだん渦巻きが広くなっちゃうっていうかな。もちろん、中心は子どもっていうことは常に頭にあるんですけど。・・・・・・。だから人がここを動かしていって、変容させていって。しかも悪く変容させていくんじゃなくて、いいように変えていってくれてると思ってます。」
※「親と子の談話室・とぽす」のSさんの発言

「親と子の談話室・とぽす」の変化について、Sさんが「『ちょっと待って』とは絶対私は言えない」と話しているように、「親と子の談話室・とぽす」の変化はSさんの想定やコントロールを越えたものと受け取られている。しかし、Sさんは「親と子の談話室・とぽす」の変化を次のようにも話しています。

「その目的が、最初は芽だったんだけど、それが少しずつ伸びていって、枝をはって、実がなっていくみたいな。・・・・・・。私は、子どもと大人のコミュニケーションの場所であるということ。子どもと大人っていうのは年齢の差もある。それに付随して、差別とかそんなものを感じるものを全てとっぱらいちゃいたいっていうね、そこまでいってここをつくったので。それを新しいコミュニケーションと私は名づけたんだけど、それしか言葉としてはね、表現できなかったので。『いま新しいコミュニケーション〔の心〕を考える』んだから、まだ考え続けてるんですよ。その中に、心の病の人とのコミュニケーション、知的障害の人とコミュニケーションも生まれてきたし。」
※「親と子の談話室・とぽす」のSさんの発言

「子供だけでも入れる図書コーナー付きの喫茶店」として開かれた「親と子の談話室・とぽす」において、当初生まれたのは思春期の子どもと大人との「新しいコミュニケーション」でした。その後、「心の病の人とのコミュニケーション、知的障害の人とコミュニケーション」も生まれてきた。このような変化は、主宰者であるSさんの想定やコントロールを越えたものと受け取られていました。そうであるにも関わらず、Sさんはこのような変化によって生まれたコミュニケーションを、当初から掲げている「新しいコミュニケーション」という理念が「枝をはって、実がなっていく」ものと捉えています。


居場所におけるこのような現象を、当初から掲げられていた理念が、運営を通して生じた新たな具体例を伴い、その中身が豊かなものになるものと捉えてきました。

運営を通して生じた具体例は、運営者の想定やコントロールを越えたものであるにも関わらず、当初から掲げている理念を豊かにするものと位置づけられている。つまり、理念は当初から一貫したものとして捉えられている。東浩紀のいう訂正する力という考え方によって、これを説明することができるように思います。

東浩紀は、株式会社ゲンロンの経験について次のように指摘しています。

「つまり、ぼく自身の哲学が、ゲンロンの経験によって訂正されてしまったのです。・・・・・・
でも本当のところは、そんなことはキャリアの最初には考えていなかった。結果的にこういう仕事をするようになり、いまのような考えを抱くようになったにすぎない。とはいえ、そんな現在から振り返って過去の著作を読むと、たしかにいまの仕事を予告しているようにも読める。過去が遡行的に訂正されているのです。」(東浩紀, 2023)

居場所においては、運営を通して生じた具体例を受けて、当初から掲げている理念が遡行的に訂正されている。それゆえ、運営者の想定やコントロールを越えたことが生じるにも関わらず、当初から掲げている理念は一貫しているように受け止められるのだと理解することができます。

居場所における訂正する力

東浩紀の訂正する力の議論を参照することで、居場所を次の2つの側面から捉える道筋が開けてくるように思います。

1つは、居場所は開かれた場所なのか、閉じた場所なのかという議論について。
従来の施設が特定の属性の人々を対象とするのに対して、居場所は多様な属性の人々が訪れることのできる開かれて場所だと言われます。その一方で、多様な属性の人々といっても、現実は同じような属性の人だけが訪れる閉じた場所だと言われることもあります。
けれども、東浩紀の指摘によれば、開いているか閉じているかの「判断は状況や視点によっていくらでも変わる」。それゆえ、訂正する力が働いているかどうかに注目することの方が重要である。

「だからぼくは、ある集団の質を、閉鎖的か開放的か、多様性があるかないかといった基準で判断するのを本質的だと思いません。むしろ、そのなかで『じつは・・・・・・だった』という訂正の力が働いているかどうか、つまり、ひとが固有名で見られているかどうかのほうが重要だと考えています。」(東浩紀, 2023)

もう1つは、訂正には「外部」が必要という指摘です。東浩紀は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論に言及して*4)、次のように指摘しています。

「そもそも、ウィトゲンシュタインが強調していたように、プレイヤー自身は自分がどんなゲームをプレイしているかがわかりません。だからこそ解釈が衝突する。ではそこで『同じゲーム』という一貫性を保証できるのはだれかというと、ゲームには参加していない第三者しかいないのです。当事者にはアイデンティティはつくれないわけです。
・・・・・・
集団(ゲーム)のアイデンティティは、構成員である当事者(プレイヤー)と、それを外から見ている観客というふたつの要素でつくられます。むろんプレイヤーこそがゲームの本体です。しかし、だからこそ、彼らはゲームの一貫性をつくり出すことができない。ゲームの一貫性は、プレイヤーのプレイを『外から』解釈し、過去の記憶と照合し、ルールを訂正し続ける観客によって生み出されるのです。」

「いま語っているのは、じつは、訂正する力を十全に発揮するためには、訂正する対象とは別に、訂正行為の梃子となる『外部』が必要になるという話でもあります。その外部が、歴史だったり、身体性だったり、いま述べた付加情報だったりするわけです。」(東浩紀, 2023)

居場所は地域の人々によって運営されている場所が多い。そこに、研究者という存在が外部から関わることにどのような意味があるのか。以前、研究者は居場所において、①記録すること、②編集・表現すること、③媒介することという役割を担えるのではないかと考えたことがありますが*5)、東浩紀の議論をふまえれば、研究者には「訂正行為の梃子」としての役割を担える可能性があるのではないかと考えています。


■注

  • 1)本稿で議論している居場所の詳細は、田中康裕(2021)を参照。
  • 2)居場所における理念については、こちらの記事も参照。
  • 3)Sさんが定期的に発行している『とぽす通信』の「『とぽすとその仲間展』第18回記念号」(2011年)より。
  • 4)ただし、東浩紀(2023)では、「これはウィトゲンシュタイン自身の主張というよりぼくの解釈がかなり入っているのですが」という前置きが付されている。
  • 5)詳細はこちらの記事を参照。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。