『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

自分たちの地域の環境を自分たちで作り上げること:Developed CountryがDeveloping Countryから学ぶ

写真はワシントンDCの非営利組織「Ibasho」がプロジェクトを行なっているフィリピンとネパールの活動の様子。

  • Ibashoフィリピンが活動するオルモック市のバゴング・ブハイ(Barangay Bagong Buhay)では、高齢者を中心とする住民によりフィーディング・センターのベンチの修繕、キッチンの増設、そして、ペンキ塗りが行われました。
  • Ibashoネパールが活動するカトマンズのマタティルタ(Matatirtha)村では、女性グループが自分たちでレンガ造の建物を建設中。高齢の男性が地域の人々が行き交い、集まる場所であるチャウタリ(菩提樹の木の周りの場所)を改善する方法について議論。また、増築工事が行われている老人ホームでは、入居している高齢者自身が中庭などの草刈りなどの清掃をされていました。

世界の国を先進国(Developed Country:既にに発展し終えた国)と開発途上国(Developing Country:現在発展しつつある国)に分けた場合、おそらく日本は前者、フィリピンやネパールは後者に分類され、先進国から開発途上国への支援という議論がなされることが多いように思います。けれども、フィリピンやネパールの様子を教えてもらうたびに、日本が失った(可能性がある)ものの大きさを逆に教えられます。

その1つが、自分たちが暮らす地域の環境を、自分たちで作り上げるという意識や技術。特にニュータウン、団地など新たに開発された地域では、自分たちが集まるための集会所ですら行政やディベロッパーによって作られており、住民はその「利用者」でしかいられない。ネパールで女性たちが自分たちでレンガを積んで建物を建てたと聞いて、自分たちが暮らす地域の環境は、自分たちで作り上げていくのが当然のこととして語られる世界があることに驚かされました。
※もちろん、先進国の建物は高度で複雑なので素人(非・専門家)の手には負えないということも考えられますが、そもそも、自分たちが暮らす地域に、自分たちの手に負えないような建物が必要なのか? というそもそもの問いもあり得ると思います。

さらに、自分たちが暮らす地域の環境を、自分たちで作り上げることに付随して生まれるのが民間が作った公共の場所という公と私が必ずしも二分されていない世界。ここには、公共のことは行政に任せればいいというお任せの姿勢はありません。


こういうことを考えていて思い返すのが、近年、日本で同時多発的に生まれている「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間など)のこと。「まちの居場所」は自分たちが暮らす地域の環境を、自分たちで作り上げる動きとして注目すべきだと思います。例えば、「ひがしまち街角広場」(千里ニュータウン)や「実家の茶の間・紫竹」(新潟市)で空き店舗・空き家を自分たちで改修・清掃して場所を開いたり、「居場所ハウス」(大船渡市)で屋外の食堂を自分たちで建設したり、あるいは、「ひがしまち街角広場」の主催で公園の竹林清掃を行なったり。自分たちで建物を建てたというレベルには及ばないささやかなものですが、環境を自分たちの手によって改善しようとする動き。

2015年に施行された「介護予防・日常生活支援総合事業」(新しい総合事業)で「まちの居場所」をモデルにした「通いの場」がサービスの1つとして盛り込まれたこともあり、「まちの居場所」は今では高齢者の介護予防・生活支援の場所として注目されるようになっています。
介護予防・生活支援は重要であることに違いはありませんし、それを目指す場所があってもよいと思います。しかし、既存の制度・施設の枠組みから漏れ落ちた暮らしの価値をすくい上げようとするところから開かれた「まちの居場所」が持つ可能性は、住民が介護予防・生活支援というサービスの「利用者」なることでは決してない。

「まちの居場所」を実践されている方から、自身が運営に関わっている「まちの居場所」では介護予防・生活支援はあくまでも結果の1つだという話を伺いました。その「まちの居場所」が目指しているのは、(介護予防・生活支援を結果として生み出す)気持ちよく助け合える関係(矩を越えない関係)を地域で築いていくことだと。

このような関係を地域に広げていくために、具体的な空間をもつ「まちの居場所」が必要とされているのは何故なのか? それは、具体的な空間を日々整えるという体験が、自分たちが暮らす地域の環境を、自分たちで作り上げるという意識の共有につながり、この意識があって初めて、地域における気持ちよく助け合える関係が築かれるからではないかと考えています。
もし自分たちが暮らす地域の環境を、自分たちで作り上げるという意識の共有の結果として介護予防・生活支援が実現されるとすれば、このプロセスを省いて、介護予防・生活支援というサービスの「利用者」でしかいられない場所を増やすことは、予期せざる副作用として、地域における気持ちよく助け合える関係(矩を越えない関係)を切り崩してしまう恐れはないのか? 制度を考えるとすれば、この可能性まで考慮しておく必要があると考えています。


この記事の写真を撮影した数日後に、女性グループ「Mahila Samuha」の建物を訪れたところ、建物内のペンキの塗装がされていました。この後、外壁は青で塗りたいという話でした。自分たちで建物を建てておられる姿からは、本当に色々なことを教えられます。

(更新:2019年2月21日)