公民館は、一般的に趣味や文化に講座が行われる施設、趣味や文化に関わるグループが活動する施設というイメージで捉えられることが多いかもしれません。しかし、公民館はそもそもどのような経緯で生まれたのか。このことを知るため、最近、牧野篤(2018)『公民館はどう語られてきたのか:小さな社会をたくさんつくる・1』を読みました。この本を通して、公民館が戦後どのような場所として構想されたのかを知ることができ、改めてこれまで関わった地域の公民館のことを振り返りました。また、1960年代後半の、牧野篤(2018)が「機能論的公民館論」と「施設論的公民館論」と表現する観点からの議論は、居場所と施設の違いを考えるうえでも参考になるように感じました。
目次
公民館の起源
寺中作雄による公民館構想
公民館は*1)、戦前の農村公会堂、全村学校構想、隣保館、地方改良運動などに源流があると言われていますが、戦後の公民館構想を政策として打ち出したのは1946年の文部次官通牒「公民館の設置運営について」であり、これを受けて各地に公民館が設置されていきました。この公民館構想を主導したのは、当時の文部省社会教育局公民教育課長の寺中作雄で、寺中作雄は公民館を次のように述べています。
「公民館は公民の家である。
公民たる者が公民の資格に於て集まり、其処で公民として適はしい修養や社交をする施設と言ふ意味である。」(寺中作雄, 1946)*2)
何気なく公民館という表現を使ってきましたが、公民館とは「公民」館であり、この「公民」という言葉には大きな意味が込められている。寺中作雄(1946)によれば、「公民」とは国家の一員としての身分である「国民」、「封建的な関係で君主と結ばれた身分」としての観念が強い「臣民」、「国家とも君主とも繋がりがなく政府と対抗する意味の各個人の集り」である「人民」とも異なり、「社会公共を重んじ、市町村、府県などの公共団体、職域に於ける職域団体、權力団体としての国家、或は国際団体としての国際社会等、いづれの社会集団の一員としても進んで其の集団に奉仕し立派に其の義務を尽す人」としての観念が強い。「公民」について寺中作雄(1946)は次のようにも表現しています。
「今日要求される人はこの公民と言ふ観念に当る、社会的な人格、公共を重んずる性格を持つた人である。国民的性格の必要なことは勿論であるが、国家、特に自国のみを重しとして、他国を排し、又市町村その他の公共団体を軽んじて、之を省みない様であつてはならない。臣民として忠賓に君に仕へる事は正しい事であるが、君主に対し奴隷的な道従を事とし、自己を軽んじて自らの完成を怠る様であつては眞に君に忠なる所以ともならない、自己は同時に社会であり、社会の事をわが事として常に「われわれのもの」として社会公共を充実発展させる事に努力する様な人格、即ち公民的人格こそ、今日最も必要とされる性格である。」(寺中作雄, 1946)
寺中作雄の公民館構想に対しては、戦前的な性格があるという批判もなされているようですが、国民でも臣民でも人民でもなく「公民」という言葉が選ばれたことの意味は、現在においても大きな意味をもっていると思います。
寺中作雄(1946)は、公民館とは「われわれの郷土を足場としてその様な公民的な性格をお互に陶冶修養する場所」と指摘し、その機能として「社会教育機関」、「社交娯楽機関」、「町村自治振興の機関」、「産業振興の機関」、「新しい時代に処すべき青年の養成に最も関心を持つ機関」の5つをあげています。
戦後構想された公民館は、狭義の教育機関としてでなく、住民による地域自治、産業振興までをも含むもので、「戦争によって荒廃した人心を建て直し、日本を民主的で平和な国へと再建するための、郷土の中核機関として構想された」(牧野篤, 2018)ものであることがわかります。
寺中作雄(1946)を読んでいて、公民館の建物のあり方についても言及されていることに気づきました。
「具体的には新しい教育方法と正しい教育目的をもつた町村の文化施設であつて、此処に常時にわれわれが打ち集つて談論し、読書し生活上産業上の指導を受け、お互の交友を深める場所であり、謂はば郷土に於ける公民学校、図書館、博物館、公会堂、町村民集会所、産業指導所などの機能を兼ねた新しい教養機關である。それは亦青年団、婦人会など、町村に於ける文化団体の本部ともなり、各団体が相提携して町村振興の底力を生み出す場所でもある。」
「公民館の構造は教室、談話室、講堂、図書室、陳列室、作業室、娛楽室、講師控室、運動場などを設けることとしたいのであるが、之も各別の堂々たる部屋割を持つたものを想像する必要はなく、講話室も、陳列室も、娛楽室も一切兼ねて一室を充てるので結構である。親しみ易く、近づき易い構造にし、全町村民に利用させることが本旨であるから、玄関や入口も出来るだけ解放的にし、出来れば土足の儘での出入出来る様に工夫するなど、細かい心遣ひが欲しい。」(寺中作雄, 1946)
「講話室も、陳列室も、娛楽室も一切兼ねて一室を充てる」というように機能を限定しない多目的な空間を作ること、「玄関や入口も出来るだけ解放的にし、出来れば土足の儘での出入出来る」というように開かれた建物にすることなど、現在の公共施設の建物にも通じる視点が示されていることがわかります。
社会教育法による公民館の位置づけ
1949年、社会教育法が制定。これによって公民館は教育施設として位置付けられることになりました。
「(目的)
第二十条 公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。
(公民館の設置者)
第二十一条 公民館は、市町村が設置する。
2 前項の場合を除くほか、公民館は、公民館の設置を目的とする一般社団法人又は一般財団法人(以下この章において『法人』という。)でなければ設置することができない。
3 公民館の事業の運営上必要があるときは、公民館に分館を設けることができる。
(公民館の事業)
第二十二条 公民館は、第二十条の目的達成のために、おおむね、左の事業を行う。但し、この法律及び他の法令によつて禁じられたものは、この限りでない。
一 定期講座を開設すること。
二 討論会、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること。
三 図書、記録、模型、資料等を備え、その利用を図ること。
四 体育、レクリエーシヨン等に関する集会を開催すること。
五 各種の団体、機関等の連絡を図ること。
六 その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること。」
※社会教育法
公民館が社会教育法によって位置づけられたことについて、牧野篤(2018)は、文部次官通牒の考え方を引き継ぎ、公民館を「狭義の教育、たとえば学校教育からイメージされるような知識や教養の伝達という意味での教育を担う施設ではなく、より広く市町村住民の実際生活に即して、その生活そのものの向上を図るための教育・学術・文化事業を行う拠点」としての位置づけたものであると指摘しています。
公民分館・自治公民館
これまでに関わった地域では、公民分館、自治公民館という公民館に出会いました。これらの公民館からは、趣味や文化に講座が行われる施設、趣味や文化に関わるグループが活動する施設というイメージとは違う公民館の姿が浮かび上がってきます。
大阪府豊中市の公民分館
千里ニュータウンのある大阪府豊中市には、公民分館(公民館分館ではない)があります。豊中市のウェブサイトによると*3)、1949年6月に初めて桜井谷公民分館が設置。その後、小学校区に1分館が目標とされ、現在、全41小学校区に公民分館が設置されています。特徴的なのは、「公民分館の活動は、コミュニティプラザ、コミュニティルーム、学校(余裕教室)や地域の会館を利用して行われて」いることです。例えば、「ひがしまち街角広場」のある新千里東町(東丘小学校区)では、東丘公民分館が活動していますが、東丘公民分館という公民館の建物はありません*4)。
東丘公民分館は、新千里東町のまちびらき(1966年)3年後の1969年10月1日に設立されました。設立から5年後の1974年9月10日に発行された広報誌『公民館だより』第1号には、「公民館とは」と題する次のような記事が掲載されています。
「公民館といえば、一般に集会場とか映画会を行なう場所とか中には結婚式場だと思っている人もあるようです。このような印象を与えていることは、公民館がまだ住民の生活の中で正しく理解されず、生活上必要であるという切実感がともなっていないということをあらわしているのでしょうか。公民館は、講座を開いたりグループ活動やレクリエーション活動を行なったりして住民の実際生活に即した教育文化活動を行ないそれを住民の生活に還元させるところです。
では、本来の公民館とは、
1.公民館は、地域住民に奉仕する、生活のための学習や文化活動の場である。
2.公民館は、地域住民の日常生活に結びついて、常に利用され、他の専門施設や機会等と住民との結び目をはたす場である。
3.公民館は地域住民の日常生活から生ずる問題の解決を助ける場である。
4.公民館は仲間づくりの場である。
以上、簡単に公民館について書いてみました。
豊かな人間性と広い社会性、また明るい家庭と美しい町の実現をめざしこの東丘公民分館も活動しております。地区の方々の御理解とご協力で盛り上がったものになることを願ってやみません。」
※「公民館とは」・『公民館だより』第1号 東丘公民分館 1974年9月10日
この記事からは、当時、公民館を「集会場とか映画会を行なう場所とか中には結婚式場」だと思っていた人がいることがわかります。しかし、本来の公民館とは「住民の実際生活に即した教育文化活動を行ないそれを住民の生活に還元させるところ」だとして、4点があげられています。この4点を寺中作雄(1946)があげる公民館の5つの機能と比べると、「産業振興の機関」という側面が抜けていることに気づきます。これは、以下でみるように公民館の機能が社会教育法によって「教育・学術・文化」の領域に限定されたという議論にも関わってくると思います。
同時に、ニュータウンが仕事場のない街として計画されたベッドダウンであることにも関わってくるかもしれません。ただし、近年、特に新型コロナウイルス感染症の発生以後はニュータウンでどのように働くかが注目されることもあり、ニュータウンでも「産業振興の機関」という視点が改めて求められるようにも思います。
4年後の1978年に発行された『公民館だより』第14号には、「分館の役割はこれでいいのか」と題する記事が掲載されています。
「地区の文化の向上、住民の親睦交流等、十年を経た今日、ようやく定着しつつあるように思いますが、分館独自の館がないということで、折角定着しつつあり、又、今後発展しようという分館活動を多少とも疎外しているのではないかと思います。
千里中央に、立派な公民館が出来、かなりの人が利用し、有効に活用していることとは別に、東丘公民分館としての館の取得を切望してやみません。」
※「分館の役割はこれでいいのか」・『公民館だより』第14号 東丘公民分館 1978年12月26日
「地区の文化の向上、住民の親睦交流等」はようやく定着しつつあるように思うけれど、千里中央に公民館ができたのに対して、東丘公民分館には専用の建物(館)がないことが、公民分館の活動を妨げているのではないかという思いが記されています*5)。
新千里東町には近隣センターに集会所がありましたが、集会所の建物が大阪府から豊中市に移管されたのに伴い、1979年10月1日から、集会所が、地域で管理・運営する「東町会館」になっています*6)。東町会館は東丘公民分館の専用の建物ではありませんが、東丘公民分館の活動場所の1つになってきました。その後、近隣センターの再開発により、2022年7月16日に新たな東町会館がオープンしています。
(東町会館)
(千里公民館)
岩手県大船渡市の自治公民館
大船渡市末崎町の「居場所ハウス」に関わり始めて、末崎町では、他の地域では町内会や自治会と呼ばれている地縁型の組織が公民館と呼ばれていることを知りました*7)。公民館長は、社会教育施設としての公民館の長ではなく、町内会や自治会の会長のような存在。そして、地縁型の組織の拠点となる建物自体も公民館と呼ばれており、公民館の建物は、公民館に所属する住民が費用を出し合って建設されています。東日本大震災前、末崎町にはこのような公民館が18ありました*8)。
このような公民館は、例えば、大船渡市の広報を配布するというように行政の末端組織という性格もありますが、末崎町で重要な虎舞の単位でもある*9)。公民館の建物はは虎舞を練習したり、虎舞の道具を保管したりする場所でもあります。また、夏季には数回、公民館単位で公民館内(集落の範囲内)の草刈り作業も行われており、行政の末端組織とは言えない役割を担っています。
後に、このような社会教育施設ではない公民館は「自治公民館」と呼ぶことを知りました。なお、末崎町には18の公民館(自治公民館)とは別に、大船渡市立の末崎地区公民館(ふるさとセンター)と呼ばれる建物もあります。
(自治公民館の1つ平公民館)
(末崎地区公民館(ふるさとセンター))
機能論と施設論
機能論的公民館論と施設論的公民館論
公民館関係者の連合体である全国公民館連合会は、1967年の「公民館のあるべき姿と今日的指標」、1970年の「公民館のあるべき姿と今日的指標 第二次専門委員会報告書」、1984年の「生涯教育時代に即応した公民館のあり方」と、これまで3回「公民館のあるべき姿」を公表してきました。
1967年の「公民館のあるべき姿と今日的指標」は、当時の公民館が戦後の公民館構想から変質しているという問題意識を背景として、新たな公民館像を描くために公表されたもの。牧野篤(2018)では、「公民館のあるべき姿と今日的指標」における議論を、「機能論的公民館論」と「施設論的公民館論」の議論という観点から整理されています*10)。
戦後の社会教育は、社会教育施設としての実体より、その運動や機能に重点を置いたものであった(機能論)。そのため、1949年の社会教育法の制定によって、その機能が「教育・学術・文化」の領域に限定された結果として、公民館からは当初の総合性・多目的性が失われ、政治や産業などとのつながりを失ってしまった。「公民館のあるべき姿と今日的指標」では戦後の社会教育がこのように整理されています。
「「第一次あるべき姿」〔=「公民館のあるべき姿と今日的指標」〕は、戦後の公民館構想を高く評価しつつも、その構想がとくに敗戦後の財政的な制約によって機能論的な公民館論となっていたことが、その後の復興にともなって社会機能が分化する過程で、公民館の発展を阻害することとなったと批判する。」
「「第一次あるべき姿」〔=「公民館のあるべき姿と今日的指標」〕は、この観点から、戦後公民館構想が、あるべき施設論を持たなかったことが、その後の社会の機能分化にともなって、公民館の機能を縮小させ、かつその自立性・独立性を失わせることとなったと批判するのである。」(牧野篤, 2018)
それでは、ここで求められる施設論とは何か。牧野篤(2018)は、施設論とは「単なる建物や設備に関する議論ではな」く、「施設を経営するためのハードウェアの整備、および学習内容編成や方法さらには施設経営論などのソフトウェア、またそれらを担う専門職論などからなる総合的な施設のあり方に関する議論」と指摘しています。
「公民館のあるべき姿と今日的指標」はこのような観点に立ち、次のような「公民館のあるべき姿」を述べています。興味深いのは最初に「目的と理念」が明示されていることです。
「2 公民館のあるべき姿
(1)目的と理念
公民館は、住民の生活の必要にこたえ、教育・学術・文化の普及ならびに向上につとめ、もって地域民主化の推進に役立つことを目的とする。
このためには、つぎのような理念に立たなければならない。
1 公民館活動の基底は、人間尊重の精神にある。
公民館は、すべての人間を尊敬信愛し、人間の生命と幸福をまもることを基本理念として、その活動を展開しなければならない。
2 公民館活動の核心は、国民の生涯教育の態勢を確立するにある。
公民館は、学校とならんで全国民の教育態勢を確立し、住民に教育の機会均等を保障する施設とならなければならない。
3 公民館活動の究極のねらいは、住民の自治能力の向上にある。
公民館は、社会連帯・自他共存の生活感情を育成し、住民自治の実をあげる場とならなければならない。
(2)役割り ・・・・・・
(3)特質 ・・・・・・」
※文部科学省国立教育政策研究所 社会教育実践研究センター(2013)『平成24年度 公民館に関する基礎資料』に所収の「公民館のあるべき姿と今日的指標(抄)」より。
機能論と施設論に注目すれば、機能が法によって限定されたことで、当初の公民館構想からある側面が失われたこと、これに対して改めて公民館のあるべき姿として理念が提示されたということになります。以下は、公民館そのものの議論から逸れてしまいますが、機能論と施設論は、居場所と施設の違いを考えるうえでも参考になると感じました。
居場所と施設
2000年頃から、コミュニティカフェ、地域の茶の間、宅老所など従来の施設(制度:Institution)ではない場所が同時多発的に開かれるようになってきました。このような場所には、従来の施設(制度)では対応できない課題に直面した人々が、その課題を乗り越えるためには「地域にはこのような場所が欲しい」という思いを抱き、そのような場所を自分たちの手で開き、運営してきたという特徴があります。筆者らはこのような場所を居場所(まちの居場所)と呼んでいます。
ところが、その後、コミュニティカフェや地域の茶の間をモデルにした通いの場、宅老所をモデルとした小規模多機能ホームというように、居場所をモデルとする施設が生み出されてきました。このような「居場所の制度化」の動きを目にして、居場所は当初、従来の施設ではない場所として開かれたにも関わらず、そのような場所がなぜ制度化され、施設として成立するのだろうかという疑問が湧き、居場所と施設は何が違うのかを整理しておく必要があると考えるようになりました*11)。
現時点では、生活科学研究を行う佐々木嘉彦(1975)と、佐々木嘉彦の議論を受けた建築学者の大原一興(2005)の「要求-機能」関係の議論をふまえ、居場所と施設では「要求-機能」が反転していると捉えています。つまり、居場所では、機能は生じてくる人々の要求への対応として備わってくる。これに対して施設では、機能は要求に先行し、実現すべきものとしてあらかじめ設定される。このように整理すれば、居場所の制度化とは、要求への対応として居場所に備わった機能を抽出し、それを実現すべきものとしてあらかじめ設定していくプロセスとして捉えることができます。
居場所から機能を抽出することが制度化のきっかけになるとすれば、居場所のどこに注目すればいいのか。ここで居場所では、どのような場所にしたいのかという理念が掲げられているかが注目されます。居場所において、人々の要求への対応は理念の具体例となり、理念を豊かなものに育てていくと同時に、理念の具体例は理念を共有する契機になる。この時、機能はあらかじめ定められるのではなく、結果として生み出される効果ということになる。理念というと、曖昧で、情緒的で扱いにくいものと見なされがちですが、居場所において、どのような場所にしたいのかという理念は非常に重要なものだと考えています(田中康裕, 2021)。
これは、牧野篤(2018)で紹介されている1967年の「公民館のあるべき姿と今日的指標」における議論、つまり、機能が法によって限定されたことで、当初の公民館構想からある側面が失われ、これに対して改めて公民館のあるべき姿として理念が提示されたということと重なっているように思います。
公民館は制度の中に位置づけられた施設であるため、居場所の議論と重ねてよいかどうかは考えなければなりませんが、「居場所の制度化」のプロセスで注目しなければならないのは、居場所が制度化されること自体ではなく、このプロセスで当初掲げられた理念が希薄になっていくことかもしれない。牧野篤(2018)を読み、以上のようなことを考えていました。
■注
- 1)以下、公民館の歴史については牧野篤(2018)を参考にした。
- 2)寺中作雄(1946)からの引用に際しては、旧字体を新字体で入力し、「くの字点」をかなで入力している。以下の引用部分も同様。
- 3)豊中市「豊中市の公民分館」(2022年9月29日更新)のページより。
- 4)豊中市には、公民分館とは別に、豊中市が設置する社会教育施設としての公民館もある。
- 5)記事で言及されている千里中央の公民館とは、豊中市が設置した千里公民館のことである。千里公民館は、1978年に竣工した千里中央の千里文化センターの3~4階に開設された。2008年、千里文化センターは、千里文化センター・コラボとして建て替えられた。
- 6)「『東町会館』について」・『公民館だより』第24号 東丘公民分館 1984年7月10日
- 7)末崎町では町内会、自治会という名称は使われていないが、東日本大震災後に建設された5つの仮設住宅(仮設住宅団地)では、仮設住宅ごとに自治会が立ち上げられていた。また、55戸の災害公営住宅「平南アパート」では、公民館でなく自治会が設立された。なお、仮設住宅の自治会は仮設住宅の閉鎖に伴い解散したが、山岸仮設では新型コロナウイルス感染症が発生する前まで、仮設住宅の閉鎖後も元住民による「同窓会」が定期的に開かれており、自治会のまとまりが機能していた。
- 8)18の公民館は東日本大震災の大きな影響を受け、2013年3月には震災で大きな被害を受けた泊里公民館が解散している。2017年3月には世帯数の減少により細浦公民館と内田公民館が合併している。
- 9)例外として、門之浜公民館と中井公民館は、2つの公民館をあわせた「門中組」として虎舞を行っている。門中組は、虎舞を練習したり、道具を保管したりする場所として公民館とは別の建物をもっている。
- 10)「公民館のあるべき姿と今日的指標」の詳細は牧野篤(2018)を参照。
- 11)これは居場所と施設の違いに注目するという意味で、施設(制度)を批判するという意味ではない。
■参考文献
- 大原一興(2005)「施設と地域の再構築:エコミュージアムと高齢者施設にみる」・『建築雑誌』Vol.120, No.1533, pp.20-21
- 佐々木嘉彦(1975)「生活科学について」・日本生活学会編『生活学』第一冊, ドメス出版
- 田中康裕(2021)『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』水曜社
- 寺中作雄(1946)『公民館の建設:新しい町村の文化施設』公民館協会
- 豊中市東丘公民分館編(2020)『創立50周年記念誌』豊中市東丘公民分館
- 牧野篤(2018)『公民館はどう語られてきたのか:小さな社会をたくさんつくる・1』東京大学出版会
- 文部科学省国立教育政策研究所 社会教育実践研究センター(2013)『平成24年度 公民館に関する基礎資料』
※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。