『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所で会話が生まれる状況:「聞いてもらう技術」からの考察(アフターコロナにおいて場所を考える-47)

「ソシオペタル」と「ソシオフーガル」

向かい合って座る電車の4人掛けのボックス席と、それぞれが別の方向を向いて座る背中合わせのベンチ。仲間同士で座った時に、どちらが会話しやすいかというと、当然、4人掛けのボックス席ということになります。このように、建築のつくり方や家具の配置の仕方などの環境の作り方は、人々の関わりに影響を与える。
このことに関する用語として、「ソシオペタル」(sociopetal)と「ソシオフーガル」(sociofugal)があります。「ソシオペタル」のレイアウトとは人々が向かい合うレイアウト、「ソシオフーガル」とは人々が接触を避けやすいようなレイアウトで、この分類によれば4人掛けのボックス席は「ソシオペタル」のレイアウト、背中合わせのベンチは「ソシオフーガル」のレイアウトの例となります。

建築・都市デザインの専門家であるジョン・ラングは、「ソシオペタル」と「ソシオフーガル」を組み合わせた例として、アントニオ・ガウディがバルセロナに設計したグエル公園のベンチをあげています。

「アントニオ・ガウディによるバルセロナのグエル公園にあるくねくねした椅子のパターンの面白さのひとつは、ソシオペタル、ソシオフーガルの両方の空間を与えてくれることにある。」(ジョン・ラング, 1992)

(グエル公園のベンチ)

グエル公園の写真を見ると、会話をしている人々は向き合って座れる窪んだ「ソシオペタル」の部分に座っていること、逆に、互いに別の方を向いて座る「ソシオフーガル」の部分にはあまり人が座っていないことがわかります*1)。
このような光景を見ると、環境の作り方によって人々の会話を生み出すことができる、さらに言えば、人間の行動を操作できると思ってしまいそうになりますが、もちろんこのような考え方には飛躍があります*2)。ジョン・ラングは次のように指摘しています。

「ソシオペタルのセッティングでしかも顔を合わせての交流が容易だということから、自動的に人々がそのようなセッティングを求めることになるだろう、と考えてはいけない。そこにそのような行為に対する潜在的要求がなくてはいないし、またセッティングは人々が望んでいる場所になくてはいけない。」(ジョン・ラング, 1992)

近年、コミュニティ・カフェ、地域の茶の間など、地域の人々が何らかの関わりをもつための場所(以下、「居場所」と表記)が開かれてきました*3)。居場所では、必ずしも会話をすることだけに価値が置かれているわけでないものの、会話をして過ごすことは好ましいものと捉えれています。それゆえ、みなで囲んで座れるテーブルのような「ソシオペタル」のレイアウトが採用されることも多い。
しかしここで見てきたように、たとえ「ソシオペタル」のレイアウトを採用したとしても、自動的に人々が会話をするなるわけでない。ここで考えなければならないのは、どのような状況で座っている時に会話をしやすいのかということです。

「聞いてもらう技術」

臨床心理士・臨床心理学者の東畑開人(2022)『聞く技術 聞いてもらう技術』を読み、このことを考える手がかりを与えてもらったように思います。

一般的に「聞く」は受動的なもので、「聴く」は能動的なものと見なされる。最初、東畑開人は「聞く」より「聴く」の方が難しい、「『聞く』は素人でもできる当たり前のことで、『聴く』こそが専門家の高度な仕事なのだ」と考えていたとのこと。しかし、これは浅はかな考えであり、「『聴く』よりも『聞く』のほうが難しい」ことがわかった。それゆえ、東畑開人(2022)では「どうしたら『聞く』ができるのか」という問いが立てられます。

東畑開人(2022)によれば、心理士の世界では「時間と場所を決めてもらおう」、「眉毛にしゃべらせよう」など小手先の「聞く技術」が蓄積されている。小手先も役に立つ場面が多いものの、小手先で歯がたたない場面がある。そのような場面とは、相手との関係が難しくなって、自身に余裕がなくなっている時である。それでは、そのような場面でも話を聞くためにはどうすればいいか? 東畑開人(2022)が示す答えは、自身が誰かに「聞いてもらう」必要があるというもの。つまり、「聞く」と「聞いてもらう」とは循環する。

「話が聞けなくなるのは、自分自身が聞いてもらえていないときです。したがって、話を聞けないときに必要なのは、『聞く技術』なんかではなく、『聞いてもらう技術』である。」(東畑開人, 2022)

「聞いてもらう技術」は、「うまくしゃべる技術」ではない。「強みではなく、弱みを、カッコいいところではなく、情けないところをわかってもらうための技術」であり、「心配される技術」である。
東畑開人(2022)は、小手先の「聞いてもらう技術」として、7つの「日常編」、6つの「緊急事態編」のあわせて13の技術をあげています。「日常編」とは「聞いてもらえる関係を作るために日常から心がける技術」で、「緊急事態編」とは「ほんとうに困ったことが起きたときに聞いてもらうための技術」。

いずれも納得させられる技術ですが、ここで居場所との関わりで注目したいのは、「日常編」としてあげられている「隣の席に座ろう」、「トイレは一緒に」、「たき火を囲もう」、「単純作業を一緒にしよう」という小手先の「聞いてもらう技術」。

■「隣の席に座ろう」
「何かをしゃべる必要はありません。座っているだけでいい。
隣に居る。これはパワーがあります。」

■「トイレは一緒に」
「ションも、歯磨きも、喫煙も、協力してやるようなものではなく、基本的に個人で完結する営みです。それなのに、なぜか一緒に行くというのがミソです。
自分一人でもできることを一緒にやっていると、僕らはついつい無駄話をしてしまうものです。」

■「たき火を囲もう」
「結局のところ、聞いてもらう技術のポイントは、気まずい時間に少し耐えて、一緒に居ることにあります。
話すことがないのに体がそばにあると、ついつい普段はできない話が始まってしまうというのが肝です。
この点で最強なのが、たき火。
炎って、ただ見ているだけでけっこう場が持っちゃうんですね。しかも、同じ方向を見ているというのがまたいい。向き合っているとかしこまっちゃいますけど、横に並んでいるとふと言葉が漏れ出るものです。」

■「単純作業を一緒にしよう」
「なんでもいいんですよ。何かしているんだけど、頭は空っぽのときに、聞いてもらうが発生しやすいということです。」(東畑開人, 2022)

「聞いてもらう技術」から居場所を振り返る

先に「ソシオペタル」と「ソシオフーガル」を紹介しましたが、東畑開人(2022)が焚き火について「向き合っているとかしこまっちゃいますけど、横に並んでいるとふと言葉が漏れ出るものです」と指摘しているように、会話のしやすさは「ソシオペタル」と「ソシオフーガル」だけでは語ることができない。

ここで、居場所にはどのような人々が訪れているかを振り返りたいと思います。居場所は、地域に根づいた場所であり互いによく知っている仲間が集まる場所と思われるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。都市部だけでなく、地方であっても、同じ地域に住んでいても顔と名前が一致しない人、よく知らない人は多い。世代が違えばさらにそうなります。70歳の人と90歳の人は「高齢者」として同じ世代と見なされるのかもしれませんが、20歳も離れていれば生きてきた時代が異なるため、同じ世代にくくることはできません。
居場所における人々の関係が、仲間や家族ではなく親戚のような関係と表現されることもあるように、決して仲間という言葉ではくくれない多様な人々が、仲間になることを強いられることなく、緩やかな関係を保ったままともに過ごせることが大切にされています。このような関係は、劇作家・評論家の山崎正和(2003)のいう社交、つまり、「人間を付かず離れずの中間的な距離につなぐ関係」として捉えることができます。

「家族や村落共同体が無意識に感情を共有している状態は、社交とは呼ばない。また逆に功利的な組織のように、構成員が意識的に団結を確認しつづけているような関係も、社交とは見なされない。互いに正反対の理由から、両者のどちらも過度に濃密な感情で結ばれ、人間関係が第三者を排して自動的に閉じられているからであった。これにたいして社交は、その結果、人間を付かず離れずの中間的な距離につなぐ関係と見なされることになった。だがこのような関係は見るからに脆く危うい関係であって、注意深い努力のもとに、限られた時間と空間のなかにしか成立しないのは明らかだろう。」(山崎正和, 2003)

東畑開人(2022)は、小手先の「聞いてもらう技術」を次のように「日常の中で赤の他人を軽い友人に変える技術」だと述べています。

「二つの体が近くにあって、ぼんやりとした曖昧な状況に置かれている。そういうときに、普段は言葉にならないようなことを口が勝手にしゃべりだし、耳は自動的に言葉を受け入れてしまいます。体が勝手にコミュニケーションを始めるということです。
気まずい時間にしばし耐えて、あなたの体を他人の体と一緒に置いておきましょう。一見無駄に見える時間の積み重ねが、人と人とを仲良くさせてくれます。
そう思うと、これらは友達を作るための技術でもありますね。
聞いてもらう技術とは、日常の中で赤の他人を軽い友人に変える技術なのだと言えそうです。」(東畑開人, 2022)

「日常の中で赤の他人を軽い友人に変える」ことはまさに居場所で大切にされていることである。それゆえ、東畑開人の議論は、居場所を考えるうえで大きなヒントを与えてくれます。

これまで運営に関わったり、調査をしたりした居場所のことを振り返れば、仲間ではない人同士が会話をしやすい状況として、いくつかの状況が思い起こされます。東畑開人(2022)が指摘するように、「聞いてもらう技術のポイントは、気まずい時間に少し耐えて、一緒に居ること」にある。それゆえ、以下で紹介するのは、仲間でない人と近くにいても気まずさがあまり気にならない状況、気まずさをやり過ごすことができる状況として、東畑開人(2022)があげる小手先の「聞いてもらう技術」の具体例ということになります。

手芸・絵手紙

居場所で行われているプログラムのうち、仲間でない人との会話が生まれる状況となるものとして、手芸教室、絵手紙教室をあげることができます。岩手県大船渡市の「居場所ハウス」の手芸教室でも、東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」の手芸教室でも、会話をしながら、手芸をしたり、絵手紙をしたりしているのを見かけます。

(手芸教室)

(絵手紙教室)

手芸教室、絵手紙教室は、東畑開人(2022)が指摘する「自分一人でもできることを一緒にやっている」の例と言うことになります。

「居場所ハウス」では料理教室、そば打ち教室、踊り教室なども行われています。これらは教室でも会話は行われていますが、教室の目的である料理、そば打ち、踊りに関して講師から教わる程度が強いこと、料理、そば打ち、踊りに集中して取り組む程度が強いことなどの点で手芸教室、絵手紙教室と少し雰囲気が異なるように感じます。また、「居場所ハウス」で行われている歌声喫茶は「自分一人でもできること」ではありません。手芸教室、絵手紙教室は、居場所で行われるプログラムの中でも、仲間でない人との会話を生み出す傾向をもつ教室と言えそうです。

手仕事

プログラムでない例として「居場所ハウス」における椿の種の殻むき、クルミの殻むきをあげることができます。スタッフや来訪者、年代、性別に関わらず、テーブルを囲んで殻むきをしている。黙って手を動かしている時間もありますが、手をとめずに会話が生まれることもある。「居場所ハウス」で魅力的だと感じる場面の1つです。これらも「自分一人でもできることを一緒にやっている」の例ですが、手芸教室や絵手紙教室のように一人ひとりが作品を仕上げるというものでないものであるため、東畑開人(2022)が「プリントを40種類くらい袋に詰める仕事」を例にあげて説明している単純作業とも言えます。椿の種の殻むき、クルミの殻むきのような手仕事は、自分にできる役割を通して貢献できるという意味もあると考えています。

(椿の種の殻むき)

(クルミの殻むき)

椿の種の殻むき、クルミの殻むきに似たものとして、干し柿作り、農園から収穫した野菜を朝市で販売するための作業をあげることができます。

(朝市の準備)

テント立て

「居場所ハウス」では毎月の朝市や、年に何回か行われる大きなイベントのためにテントを立てていますが、テントを組み立てたり、片付けたりする作業の一部も、会話を生み出す単純作業になっていると感じます。

テントの組み立てや片付け作業のうち、テントを立ち上げる部分、テントを下ろす部分の作業だけは、最低4人が集まって(それぞれの脚を最低1人が担当して)タイミングを合わせて行う必要があります。テントもそれなりの重さがあるため、この部分は会話が生まれる状況でありませんが、前後の作業、例えば、テントの部材倉庫から運んだり、バラした部材を紐で括ってまとめたり、幕を梁・桁に取り外しする作業は単純作業という傾向があります。
幕を梁・桁に取り外しする作業は、テントを組み立てた状態で行うため、ある程度の身長がないと難しい。この作業をする時は大抵「背が高くて羨ましい」などがきっかけとなって会話が生まれます。
女性に比べて男性は会話が苦手だと感じますが、テントを組み立てたり、片付けたりする作業の後は和やかな雰囲気になります。テントを組み立てたり、片付けたりする作業を協力してやり終えたという充実感に加えて、単純作業として会話をしやすい状況を生むからという理由もありそうです。

(テント立て)

テント立てと似たものとして、ひな人形を飾りつける作業もあげることができます。

(ひな人形の飾り付け)

薪ストーブ

東畑開人(2022)があげている「焚き火を囲もう」に関連して、「居場所ハウス」には薪ストーブがあります。
寒い日には自然に薪ストーブの周りに人が集まってくる。薪ストーブの周りに座ることは、暖をとるためだという目的が誰の目にも明らかであるため、仲間ではない人の「隣に居る」ための名分になります。名分においては、本人が本当に暖をとろうと思っているかどうかではなく、周りの人から暖をとっているんだと「見られる」ことが重要です*4)。
東畑開人(2022)が「話すことがないのに体がそばにあると、ついつい普段はできない話が始まってしまう」と指摘しているように、薪ストーブに集まった人同士が会話を始めるというのはしばしば見かける光景。実際、被災地の支援に来られていた方から、「居場所ハウス」に来ても何をしていいかわからず、薪ストーブにあたってるくらいしかできないという話を聞いたことがありますが、この話には薪ストーブで暖をとることがプログラムに参加することなく居ることを可能にしていることが現れています。

(薪ストーブの周りに集まる人々)

これまで考えたことはありませんでしたが、薪ストーブにこのような力があるとすれば、薪ストーブを設置している時期と、設置していない時期とで、「居場所ハウス」の来訪者の傾向に違いが見られるのかという観点からの分析を行えるかもしれないと考えています。

テーブル越しの会話

「居場所ハウス」の空間は広いため(約115m2)、訪れた人は座る席を選ぶことができる。そうすると、親しくない人同士は別のテーブルに座る傾向があり、東畑開人(2022)が指摘する「話すことがないのに体がそばにある」という状況はなかなか生まれにくい。このような「居場所ハウス」において、先にあげた薪ストーブは「話すことがないのに体がそばにある」という状況を生み出すものの1つということになりますが、それでは最初から空間が狭ければどうなるのか。
このような場所として、大阪府千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」をあげることができます。空き店舗を活用して開かれた空間は狭まく(倉庫部分を含めて、移転前は約30m2、移転後は約75m2)、席を選べたとしてもそれほど離れたところに座れるわけではない。室内のかたちも長方形で、衝立など目隠しになるようなものもない。
「ひがしまち街角広場」の特徴として、テーブル越しの会話をあげることができますが、テーブル越しの会話がしばしば見られるのは、空間が狭いゆえに、1人で過ごしていても、周りのテーブルで話していることが耳に入ってきて会話に加わったり、逆に、周りのテーブルの人に声をかけられたりというように、東畑開人(2022)のいう「隣に居る」ような状況を生み出しているからだと考えています。

(テーブル越しの会話)

隣に座る

「ひがしまち街角広場」のように空間が狭ければ、「居場所ハウス」のように空間が広くても薪ストーブがあれば、「話すことがないのに体がそばにある」という状況が生み出される。これは、環境の作り方に関わるものですが、最後に考えたいのは、人の意識的な振る舞いによって仲間でない人同士が「話すことがないのに体がそばにある」という状況を生み出すことはできないのかということです。

ここで思い起こされるのが新潟市の「実家の茶の間・紫竹」です。
「実家の茶の間・紫竹」では「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)を実現することが目指されており、人々の関係においては「矩(のり)を越えない距離感」が大切にされています。そのために、数多くの配慮がされています。
訪れた人が茶の間の扉を開けた時、「『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする」。それゆえ、テーブルは茶の間の扉に視線が集中しないような配置とされています。初めて訪れた人には「できるだけ外回り」に座ってもらうことで、ここが思い思いに過ごしていい場所であることを伝えるという配慮もされています。

「戸を開けた時、みんなが『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする。だから、来てくださった方にどこに座ってもらうかまで考えてる。初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」(代表の河田珪子氏の話)

先に、仲間ではない人の「隣に居る」ためには名分が必要であり、名分においては周りの人からどのように「見られるか」が重要だと述べました。「実家の茶の間・紫竹」における様々な配慮は、どのような目的で訪れたとしても、何をして過ごしていたとしても、周りの人からは怪訝な目で見られないという状況を作り出しているといます。
このような配慮がされているものの、一人きりになって「所在なく居る」人が出てしまう可能性がある。そこで、「実家の茶の間・紫竹」では「当番は、その日一番手助けが必要な人や、心寄り添ってほしいと思っている人の傍にいるようにする」、「当番は、まず自分が〔一人っきりの方の〕隣へ行き、話の内容から誰とつなぐか考えて頃合いを見てつなぐ」(河田珪子, 2016)というように、「所在なく居る」人の「隣に居る」ようにすることが当番の役割とされています。

「一人ぼっちでぽつんとしてね、所在なく居るかどうか。あるいは、一人ぼっちを楽しんでるかどうかっていうのをまず見てますね。いつもそれは見てます。・・・・・・。だから声かけやすい顔をしてること。どんなに忙しいように見えても、声かけてもらえる顔してること。それは気をつけてるかな」(代表の河田珪子氏の話)

「実家の茶の間・紫竹」では、焚き火を囲む、薪ストーブで暖をとることと同じような状況を、場所全体で実現するための配慮がされていると言えるかもしれません。

(茶の間)

居場所において、仲間でない人同士の会話はどのような状況で生まれるのかについて考えてきました。仲間でない人同士にとっての「ソシオペタル」のレイアウトとは、このような状況を前提としたうえでの会話をしやすいレイアウトだと考えています。


■注

  • 1)このことは、親しい人は「ソシオペタル」のレイアウトの部分に座り、親しくない人は「ソシオフーガル」のレイアウトの部分に座るという意味ではない。なぜなら、別々の方向を向いて座っていたり、少し距離をおいていたりしても親しい(と見える)ことは当然あるからである。人々の関わり方と、人々の関係とは単純な対応関係にはない。建築学者の鈴木毅はこのような例の1つとして、物理的な物を手がかりとして「ちょっと離れた距離」に親密な関係にある人々がいる状況を「あなたと私」と表現している。鈴木毅の議論はこちらの記事を参照。
  • 2)建築学者の舟橋國男は人間と環境の関係を理解する立場として、環境決定論、相互作用論、トランザクショナリズムの3つをあげている。ここで述べた環境の作り方によって人間の行動を操作できるという立場は「環境決定論」だが、本稿は必ずしも「環境決定論」の立場を主張するものではない。人間と環境の関係を理解する3つの立場についてはこちらの記事を参照。
  • 3)本稿で紹介する居場所についての詳細は田中康裕(2021)を参照。
  • 4)精神科医の斎藤環(2014)は、「ひきこもり者のためのデイケア空間」について、次のように指摘している。ひきこもり者が「対人距離を縮めるには『言いわけ』が必要なのだ。『ここは狭いんだから仕方がない』という言いわけのもとで対人関係を結ぶ方が、彼らにとっては有益なのである」。ここで議論している名分とは、斎藤環が指摘する「言いわけ」に近い。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。

(更新:2023年11月7日)