『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

新千里東町(千里ニュータウン)から教わったこと@東丘公民分館講座

2023年12月16日(土)、千里ニュータウン新千里東町の東丘小学校で、東丘公民分館講座「学生が見た千里ニュータウンと東町」が開催されました。タイトルの通り、千里ニュータウンの調査を続けている近畿大学建築学部の鈴木毅研究室の学生の方々の発表が中心ですが、少し時間をいただき、元学生という立場で「新千里東町(千里ニュータウン)から教わったこと」という話をさせていただきました。

新千里東町(千里ニュータウン)から教わったこと

通学していた大阪大学の吹田キャンパスは千里ニュータウンに隣接してします。しかし、千里ニュータウンでの活動に関わるまでは、通学路として通り過ぎるだけでした。「ひがしまち街角広場」を初めて訪れたのは、2004年の春。「千里グッズの会」(現在の「ディスカバー千里」)が企画した『千里ニュータウン物語』の映画上映会の準備を手伝いに行った時でした。

それ以来、「千里グッズの会」や「ディスカバー千里」の活動のため、あるいは、「ひがしまち街角広場」の調査のために、新千里東町を訪れて続けてきました。その後、東日本大震災の被災地で「居場所ハウス」に関わるようになったり、世界のニュータウンを訪れたりするようになりますが、改めて振り返ると、これらの活動は新千里東町から教わったことに大きく影響を受けていることを実感します。

新千里東町からは多くのことを教わりましたが、その中で重要なものとして、「ひがしまち街角広場」という地域の場所のあり方、計画された街であるニュータウンにも歴史があること、の2つです。

「ひがしまち街角広場」という地域の場所のあり方

「ひがしまち街角広場」は2001年9月30日に、近隣センターの空き店舗を活用してオープン。コミュニティカフェのパイオニア的な場所として、近隣センターの再開発が行われるまで20年以上の運営が継続されてきました。

「ひがしまち街角広場」から教わり、「居場所ハウス」に関わるうえでも参考になっていることは多いですが、最も大きなことは緩やかな場所であることの意味。

コミュニティの場所や居場所が議論される時、しばしば「交流」「参加」、「コミュニケーション」などの言葉がキーワードとしてあげられます。けれども、「ひがしまち街角広場」の価値は必ずしもこのような言葉では捉え切ることができません。
「ひがしまち街角広場」を訪れた人は話をして過ごしている人が多いですが、必ずしも全員が話をしているわけでなく、1人で過ごしている人がいる。孤立した結果として肩身の狭い思いをして1人で過ごしているのではなく、1人で過ごすのも自然であること。そして、あえて交流したり、活動に参加したりせずとも、日常の場所である「ひがしまち街角広場」に出入りするだけで顔見知りになることができました。顔見知りになったのは大人だけではありません。「ひがしまち街角広場」は学校帰りの子どもたちが水を飲みに立ち寄っていました。子どもたちは、水を飲んで帰るだけでしたが、それでも大人と顔見知りになることができた。

スタッフと来訪者との関係も緩やかなものでした。忙しい時には来訪者が飲み物を運ぶのを手伝ったり、来訪者が飲み終えた食器をカウンターまで運んだり。さらに、当番がテーブルに座って、来訪者が隣に立って話をするという、通常のカフェでは決して見ることができない光景も目の当たりにしました。

「ひがしまち街角広場」で繰り広げられる日常の光景を目の当たりにして、地域における場所の基本はこのように緩やかなものなのだと教わりました。

千里ニュータウンは、様々な土地で生まれ育った方々が集まって暮らしていることも、「ひがしまち街角広場」から教わりました。なぜ、「ひがしまち街角広場」が20年以上にわたって運営され続けてきたのか。その理由は多くあると思いますが、その1つが、「ひがしまち街角広場」の方々が、生まれ育った土地で地域(コミュニティ)を身をもって体験してきたことが、「ひがしまち街角広場」の運営にもつながっているのではないかと考えています。このことからは、それまでに一度も地域(コミュニティ)を体験したことがない人は、地域(コミュニティ)における人々の関係を築くことは困難ではないのかという問いも生まれてきます。

「ひがしまち街角広場」には、先に書いた通り、子どもたちも出入りしていました。そして、子どもの頃に「ひがしまち街角広場」に出入りすることを通して体験したことが、大人になった時にも活きてくるのではないか。子どもたちが大人になって暮らすことになる土地において、「ひがしまち街角広場」での体験が活きてくるとすれば。「ひがしまち街角広場」が、近隣センターの再開発で閉鎖したことは残念ですが、「ひがしまち街角広場」が生み出したことは継承されていくかもしれません。

「ひがしまち街角広場」は、地域の外部から訪れる者にとっても大切なものでした。大学生が、「千里グッズの会」の活動や調査などのために出入りできたこと自体が、このことを現しています。

「ひがしまち街角広場」が運営していた頃は、新千里東町で予定がある時は少し早目に行って、「ひがしまち街角広場」でお茶を飲んでいました。繰り返しになりますが、「ひがしまち街角広場」は緩やかな場所であり、外部から訪れた者も無理に交流したり、活動に参加したりすることは求められませんが、。顔を出せばいつも顔見知りの人と出会える場所。このような緩やかさは、外部から訪れた者にとっても心地良かったです。
「ひがしまち街角広場」が閉鎖してから、新千里東町の方々と顔を合わせる機会がなくなったことを痛感します。改めて、「ひがしまち街角広場」は地域の内と外をつなげる接点(メディア)でもあったのだと思います。

計画された街であるニュータウンにも歴史があること

「千里グッズの会」は、千里ニュータウンの絵葉書作りから活動をスタートさせました。2004年の春に「千里グッズの会」に関わるようになってから、絵葉書の素材のための写真を撮影するために、千里ニュータウンを歩くようになりました。
どのような写真が絵葉書にふさわしいのかと最初に考えたのが、季節ごとの自然の写真でした。このように考え、桜、紅葉、雪景色などの写真を撮影するようになりました。

千里ニュータウンは緑が豊かで、様々な季節の写真を撮影できましたが、写真を撮るために千里ニュータウンを歩いていると、千里ニュータウンの風景が再開発によって急激に変化していくのを目の当たりにしました。次第に変化する前の風景を記録として残しておきたいと思うようになり、撮影する写真が変わっていきました。
当時撮影した「囲み型配置」がされた府営新千里東住宅UR新千里東町団地の高層棟や集会所、新千里東町近隣センターの要員住宅をはじめとする新千里東町の写真は、結果として、もう二度と撮影できない新千里東町のアーカイヴとなりました。

ニュータウンは、人工的に計画された街として、歴史がないと見なされることがありますが、「ひがしまち街角広場」への関わりや、千里の絵葉書作りを通して、計画された街にも歴史があることを教わりました。再開発が必ずしも悪いとは思いませんが、それでは、計画された街においては歴史をどのように継承すればいいのか。このような疑問をもつようになり、機会がある度に各国のニュータウンを訪れるようになりました。

例えば、イギリスのレッチワース、アメリカのグリーンベルトなどの計画された街には歴史を伝えるミュージアムがあって興味深いと思いましたが、同時に、街の風景が大きく変わっていないことも知りました。ドイツのベルリンのモダニズム集合住宅群は世界遺産に指定されて、取り壊されていませんでした。

欧米の計画された街は、千里ニュータウンとは事情が違うかもしれない。そうした中、シンガポールでは、開発(再開発)によって街が大きく変化しているという意味で千里ニュータウンと状況が似ていること、同時に、街の歴史を継承する様々な試みがなされていることを知りました。

例えば、近年、大規模な再開発が進められているクイーンズタウンというエリアのスカイヴィル@ドーソンという大規模な集合住宅では昔の風景を描いた大きな壁画が設置されています。

また、マイ・クイーンズタウン・ヘリテージ・トレイルとして40の建物が指定され、それぞれの場所を説明するパネルが設置されています。興味深いのは、教会、モスクなど宗教に関わる場所だけでなく、集合住宅がヘリテージ(遺産)に指定され、保存されたり、ウェットマーケットの建物がお洒落な商業施設にリノベーションされたりしていることです。

先に紹介したように、新千里東町にも様々な試みがなされた建物がありました。既に取り壊されたものもありますが、せめて、「この場所にこのような建物があった」ことを、マイ・クイーンズタウン・ヘリテージ・トレイルのパネルのようなかたちででも記録し、継承することはできないか。現在、ディスカバー千里は、近畿大学建築学部の鈴木研究室、UR西日本支社の共同プロジェクトとして、新千里東町の歴史を伝えるための「ひがしまちって『どんな』まち?展」という展示を行っています。この展示は、UR新千里東町団地の建て替え工事の仮囲いを活用した期間限定のものですが、シンガポールを参考にするなら、このような展示を期間限定でなく、常設で行うのも1つの方法かもしれないと思います。


東丘公民分館講座が終わった後、「ひがしまち街角広場」で最後までスタッフをされていた方から、「街角広場のことを話してくれて嬉しかった、街角広場をやってた甲斐があったと思った」と声をかけていただきました。

研究者と、研究対象の地域との関係について時々考えます。

研究者である以上、論文を書いたり、書籍を書いたりすることを含めて、文章を書く(言語で表現する)ことによって評価されるのは当然。10年後、50年後に読まれたとしても、何らか意味があると思ってもらえるような文章を書きたいと思います。けれども、考えてみれば、論文を書いたり、書籍を書いたりするのは研究者側の都合であり、地域には何の関わりもないこと。そもそも、研究者が行う地域は調査にとってメリットはない。それにも関わらず、調査に協力いただいている。
自分自身がこれまで不十分なことをしてきたこともあるように思います。それゆえ、余計に地域を対象とする研究をされている研究者は、地域への還元ということをどのように位置づけておられるのか、どのようなかたちで地域への還元をされているのかということを思います。地域への還元のあり方には様々なかたちがあると思いますが、文章を書く(言語で表現する)こと自体も地域への還元になっているという可能性についても考えます。